剣と十字架 ★★☆
(Francis of Assisi)

1961 US
監督:マイケル・カーティス
出演:ブラッドフォード・ディルマン、ドロレス・ハート、スチュワート・ホイットマン、ペドロ・アルメンダリス

左:ブラッドフォード・ディルマン、右:ドロレス・ハート

原題になっている「Francis of Assisi」とは、勿論中世ヨーロッパにおいて清貧運動を繰り広げた聖フランシスのことであり、この作品は彼の生涯を扱った伝記ものと云ってよいでしょう。従って1950年代から全盛期を迎えていた宗教映画の流れの中に位置付けられる作品です。実は、宗教映画というとガキンチョの頃の思い出が心に引っかかっていて、今になってもどうしても胡散臭さを感じてしまうところがあります。その思い出とは、次のようなものです。私めが小学生の頃、住んでいた団地の子供会で大人どもがキリストの生涯を描いた映画をガキンチョに見せる催しがありました。つまり、ガキンチョどもに教育的指導を施そうとしたわけですね。この上映会は2部に分かれていて、最初にガキンチョどもにガキンチョ向けのキリスト映画を上映した後、ガキンチョどもが帰った後で今度は大人向けの(表向きは同様にキリストに関する)映画を上映する予定になっていました。ところが、ガキンチョ達の内、私めともう一人の年長のガキンチョが是非とも大人の部で上映される予定の映画も見たいと駄々をこねたのです。そうすると、大人どもは何やかんやと理由をつけて我々を追い払おうとしますが、それが無駄な程我々の決意が固いことが分かると大人の部を突如中止してしまったのです。当時子供であった私めはその時はその可能性に全く気付きませんでしたが、どうやら大人達はガキンチョにありがたいキリスト映画を見せた後で自分達は別の種類の映画を見ようとしていたようなのです。恐らくせいぜい健さん主演のヤクザ映画か、多分ポルノ映画でも見ようとしていたのでしょう。或いは宴会でも開こうとしたのかもしれません。大人どもは野郎ばかりだったので、ひょっとするとブルーフィルム(うむむ!インターネットで無修正エロ動画をいやという程ダウンロードできるご時勢の今日この頃では全くの死語になってしまいましたが)でも見ようとしていたのではないかと現在では思っています。別に大人がポルノを見ようがそれは烏の勝手ですが、大上段に構えてガキンチョに教育的指導を施した後でそのような中世であれば煉獄の劫火で少なくとも1万年くらいは炙られなければ救われないと思われるようなことをしたのであればそれは一種の偽善行為であり、真相が如何であったかは別として(本当に会社員のおっさんどもが雁首揃えて夜もふける中でキリストの生涯を描いた映画を見ようとした可能性も限りなくゼロに近いとはいえ全くのゼロではありませんが、宗教性の色濃いアメリカの地方においてならば兎も角、無神論者天国の日本ではそのような光景はむしろ無気味ですらあります)、そのような不信感を煽るような出来事もあって宗教映画=偽善というイメージが頭にこびりついてしまったというわけです。というわけで、妙な偏見を持ってしまったことになりますが、しかしながら「剣と十字架」を含め1950年代から60年代の前半にかけて製作されていた宗教映画は、勿論子供の教育的指導の為に製作されたわけではなく、むしろエンターテインメント作品として大人が見て楽しむ為に製作されたものであることは云うまでもないところでしょう。そういうわけで、当時の宗教映画はビジュアル面でもゴージャスな作品が多く、この「剣と十字架」もその例外ではありません。日本では宗教といえば質素というイメージがあり、宗教映画のゴージャスさなどというと少し矛盾しているような印象がありますが、必ずしもそうではないのですね。「剣と十字架」でもローマ教皇がゴージャスな衣装に身を包んだりしているように、必ずしも宗教=質素という等式が成り立つわけではなく、殊にルターさんやカルヴァンさん達の宗教改革以前は、教会といえども世俗的な地方経済と無縁であったというわけではないので、むしろ意図せずとも教会やそれどころか本来は清貧や自給自足の生活をモットーとするはずの修道院までが肥え太るということがそれほど異常なことではありませんでした。むしろ、世俗的な資本主義など全く未発達であった当時にあっては、領地などの現物的な資産を所有していたという点では、教会や修道院は世俗の人々以上に裕福になれる機会が存在したと云えるかもしれません。このような修道院の所領経営に関しては、朝倉文市氏の「修道院」(講談社現代新書)を御参考下さい。まあ、かなり後の時代になりますが、トーマス・モアの首をちょん切ったヘンリー8世が、バチカンと手を切って教会や修道院の資産を堂々と差し押さえたのは、それこそまさにそこにうま味があったからですね。「剣と十字架」でも巡業に一人旅に出たあと聖フランシスが地元の修道院に帰ってくると、そこは奢侈に溢れかえり肥え太った別世界に変わっていて、それを見てあきれ果てて洞穴に引き篭もってしまうシーンがあります。まさに、聖フランシスはそのような肥え太り易い体質の宗教界に清貧という新風を吹き込もうとしたのであり、東洋的なイメージで宗教=質素が原則であると考えてしまうと、聖フランシスという人物は他の人々より少しばかり根性があっただけで本質的にはむしろ当たり前田のクラッカー的な存在であったように見え兼ねません。しかしながら実際には当たり前どころか、実を云えば聖フランシスの運動は、彼がもう少し早く生まれていたならば、すなわち「剣と十字架」でフィンレイ・カリーが演じているローマ教皇イノケンティウス(イノセント)3世がいなければ、ローマカトリック教会の権威筋から異端であると見なされ得るような性格を帯びていたのですね。これについては、中世史学者堀米庸三氏の「正統と異端」(中公新書)に少し詳しく書かれています。同書は1960年代前半に出版された本なので、一般向けの新書とはいえ秘蹟論争についての説明が延々と繰り広げられているなど、少なくとも門外漢にとってはかなり専門的に見え、相当に読み難いところがありますが(それに比べると最近の新書類はあまりにも読み手側に媚を売りすぎていて、カッパブックスのハウツーものとほとんど変わらないような代物がごまんとありますね)、「剣と十字架」でも描かれている聖フランシスとイノケンティウス3世との会見は、堀米氏によれば「起伏にとぼしくない西洋の歴史にあっても数少ない、世界史的な出会いの一つだった」そうです。それでは、それは何故かということになりますが、これについては以下に同書より引用することとします。「剣と十字架」の背景を知る上で極めて重要であると考えられますので、かなり長く引用しますが御容赦願います。

「フランシスの運動は、その精神においても形式においても、実は、決して孤立したものではなかった。それは十一世紀の末以来、澎湃として起ってきたところの、使徒的生活の実践を目ざす、しばしば強い民衆的色彩をもつ、一連の宗教運動の一つであった。それは他方、十一世紀以降、たえず、ヨーロッパ社会に異様な興奮の雰囲気をかもしだした終末観的運動を背景に、あるいはそれと密接にからみあいながら、フランシスの時代まで断絶することなくつづいたものであった。グレゴリウス改革の時代(十一世紀中葉−十二世紀前半)にその最盛期をおえたクリュニー修道会(九一〇年創立)にかわる新しい禁欲的修道の運動としてのシトー、プレモントレ、フォントヴローらの修道会は、この宗教運動の初期を代表するものであり、カタリ派、ワルド派の異端、あるいは謙遜者(フミリアーティ)、「貧しきカトリック者」らは、その後期、すなわち十二世紀後半以後の宗教運動を代表するものである。
 この宗教運動のほとんどすべてに共通な、使徒的清貧主義と道徳的厳格主義とは、グレゴリウス改革の一段落ののち、保守化し反動化したカトリック教会に対し、鋭く批判的であり、勢いのおもむくところ、ややもすれば異端かする傾向をもっていた。したがって当時の教会高位聖職者に、この宗教運動に対する無理解と反感ならばともかく、理解と好意を期待することは、途方もない見当ちがいな事柄であった。多くの場合、彼らは既存の教会制度の枠内での解決、つまり宗教運動の既存の修道会への吸収、ないしこれに準じた修道会の設立によって事態を収拾しようとし、これに甘んじないものを容赦なく異端として弾圧したのであった。
 しかし、この対策は、後にくわしくみるように、起こるべくして起った宗教運動の真の解決ではなかった。それは、教会発展の真の原動力ともなるべき宗教運動の窒息と退廃をもたらすだけで、そのあとには一層ラディカルな宗教運動をひきおこしただけであった。・・・。いずれにせよ問題はローマ教会が、かたくなな形式的態度で民衆の宗教運動を抑圧し、民衆の宗教的熱誠を教会外に放逐してしまうことであった。

 このような教会の態度の総括的表現は、一一八四年のヴェロナ公会議の決定のうちに示されている。アレクサンダー三世のあとをついだルキウス三世は、この会議においてはじめて異端ないし宗教運動の対策と取りくみ、これに関するカトリック教会の原則的態度を表明した。このヴェロナ公会議の決定で重要なことは、単に現存の異端を列挙したばかりではなく、一般に異端とは何かというローマ教会の態度を表明したことであった。・・・。そのうえで教会の明示的付託によらない福音の自由説教は、その内容のカトリック性と否とにかかわらず、一様に異端と断ぜられるべきだとされているのである。これは当時のカトリック教会の宗教運動一般に対する無理解と公式主義的な態度を極限にまでおしすすめたものというほかはない。当時の宗教運動の根深さと真摯さをおもうとき、ヴェロナ決定は、心あるものの目には、カトリック教会の外面的隆盛にもかかわらず、一つの大きい危機のしるしと映ったに相違ない。・・・
 このヴェロナ決定とそれにふくまれた新しい異端審問手続きの導入にもかかわらず、異端や清貧主義的宗教運動は、退潮するどころか、かえってはげしさを加えていった。ここに一一九八年に即位したイノセント三世の新政策があらわれる理由があったのである。彼の宗教運動対策を一言にしていえば、異端をもふくめて、なおカトリック性を失わないあらゆる宗教運動にはたらきかけ、これを積極的に指導して教会に吸収し、教会のまもりにつかせること、この指導に従わないものは異端として徹底的に弾圧することであった。そこからして彼のアルビジョア十字軍のはげしさと、他方における多数のより温和な宗教運動の弾力ある指導が理解されてくるのである。アシジの貧者フランシスはまことに幸運なめぐり合せをえたといわなくてはならない。・・・」


そして、堀米氏はイノケンティウス3世と聖フランシスの出会いの歴史的意味とは、「すなわち、フランシスの出現はカトリック教会の危機をあらわす広汎な宗教運動がその最高潮に達したときに当り、これに対処したイノセント三世の政策が、教会内部の反対をおしきってとられた、これまた危機的性格のものであった」と結論付けています。要するにカトリック教会史の転回点に立っていたのが、聖フランシスとイノケンティウス3世であったということであり、勿論聖フランシス本人は政治には無関心であったとしても、ここには宗教的のみならず政治的な意味合いも強く含まれていたことになります。そもそも、どんな宗教であれ(というより企業ですら同じでしょうが)、聖フランシスのような民衆をバックとしたカリスマ性を持つ個人と権威をバックとした教会という大組織との間でいわゆるひとつの弁証法的せめぎあいが生じるのは歴史が示すところであり、聖フランシスが生きていた頃はこのせめぎ合いが最高潮に達していたということです。またこの時、教会側にイノケンティウス3世という自身カリスマ的な人物が存在しなければ、聖フランシス率いる一派は単なる異端グループの一つとして権威筋から歴史の彼方に抹殺されていた可能性すら濃厚にあったということです。何せ、イノケンティウス3世に会った時は、弟子は12人しかいなかったので、押し潰すことなどいとも簡単であったはずです。しかしそれよりも何よりも、聖フランシスがちょっと目を離した隙に、彼の信奉者達のほとんどですら、バチカン顔負けの権威と奢侈によって硬直した集団と化してしまう程であり、そもそも宗教と地方経済が明確に分離していない当時にあっては、そのように宗教組織が経済力をつけて一種の政治権力と化してしまう誘惑は常に存在していたということなのでしょう。そのような当時の様相を、かなり的確に捉えているのが「剣と十字架」であり、宗教ものというよりも歴史ものとして見てもなかなか興味深いものがあります。監督は「カサブランカ」(1943)のマイケル・カーティスであり、彼の最後の作品の1つです。テーマがテーマだけに新奇性が全くない代わりに極めて手堅い印象がありますが、宗教ものなのでこの印象は重要なところです。あまりパッとしたところがないけれどもエキセントリックな色合いを持つブラッドフォード・ディルマンの聖フランシスは、まずまずキャラクターに合っていると見なせるでしょう。少なくともたとえばチャールトン・ヘストンの聖フランシスなどという代物はイメージが湧きませんね。スチュワート・ホイットマンが騎士役で出演しており、前年にも彼は「砂漠の女王」(1960)という宗教映画に出演していました。ただあまりタイプではないですね。ところで、この作品の中で聖フランシスの清貧運動に帰依する金持ち(貴族?)の娘を青いお目々がキラリと光るドロレス・ハートが演じていますが、どうやらこれは必ずしも単なる演技ではなかったようであり、彼女はやがて本当に尼さんになって修道院入りしてしまいます。しかも彼女は「Reverend Mother」と呼ばれるようなかなり高い地位まで登り、現在に至るまでこの誓いを捨てていないようです。IMDBなどの記述を見ていると、あまりハリウッドに良い印象を持っていなかったようですね。映画ファン的見地から云えば、今でも人気の高い「ボーイハント」(1960)などを見ていると彼女にはスターとしての資質が十分にあったように思われ(殊に目の輝きが素晴らしい)、その点ではちょっと残念ですね。


2008/05/02 by Hiroshi Iruma
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