サンダウナーズ ★★☆
(The Sundowners)

1960 US
監督:フレッド・ジンネマン
出演:ロバート・ミッチャム、デボラ・カー、ピーター・ユスティノフ、グリニス・ジョーンズ



<一口プロット解説>
羊を追って生活する旦那(ロバート・ミッチャム)と早く我が家を持って落ち着いた暮らしをすることを望むその妻(デボラ・カー)がオーストラリアを放浪しながら生活する様子を描く。
<入間洋のコメント>
 個人的にはオーストラリアを旅行したことは全くないが、オーストラリアが舞台である「サンダウナーズ」を見ていると、無闇に行ってみたくなる。それ程この作品に描かれるオーストラリアは素晴らしい。画面一杯に陽光が溢れ、見ているだけでもオーストラリアの強烈な陽射しが目の中に飛び込んでくる。そもそも屋外シーンの多いこの作品の全編を通じて天候はいつも快晴且つ明朗であり、まるでオーストラリアには曇りの日や雨の日が存在しないかのようにも見える。また、太陽の恵みのおかげで大地が生命に満ち溢れている様子が画面一杯に展開され、豊饒な生命の饗宴とでも言うべき豊かさを自宅にある小さな画面からも捉えることが出来る。同時にオーストラリアの自然とは、日本の箱庭的で人工的な飼いならされた自然とは異なり、人間の手がほとんど加わっていないなまの自然であることにも気付くことが出来る。

 旅行と言えば実は小生は鉄道ファンでもあり、汽車に乗って日本中をあてどなくブラブラすることが趣味の1つでもあったが、その時受けた印象の1つが、北海道の一部や余程の山奥を除けば日本には人間の手が加わっていない土地はほとんど存在しないということであった。どんな土地も住宅地であるか工場用地であるか或いは少なくとも農耕用に灌漑された用地であり、明白にオーナーは誰かが決まっているような土地である。このことは後述するように農耕に根差した文化の特徴になるが、あらゆる土地に誰の所有かという登記簿的なマークが付与されていることを意味する。また河川を取り上げてみても、護岸工事がなされていない箇所はほとんど存在せず、山々には植林が施され、わずかに残った原生林地帯はわざわざ何々原生林などと呼ばれて保護されている。このようにして、日本でたとえば「自然にもっと親しみなさい」などというクリーシェによって言及される自然とは、ほとんどこの飼い慣らされた自然を指すものと考えて間違いはなさそうである。その良い例が、箱庭的自然を愛でる習慣が1つの伝統として日本には存在することである。数年前、十和田湖から流れ出る奥入瀬渓流を久々に歩いていた時にふと感じたことは、日本では自然と人工の関係が逆転していて、本来自然の人工的なミニアチュアであるはずの箱庭的景観が逆に自然の美しさを計る物差しになっていることである。すなわち最も箱庭的景観に近い風景を持つ自然が最も美しい自然であるものとして愛でられるのが日本だということである。恐らく、このような日本的な自然感によって表現される自然と、この作品によって描かれるオーストラリアの大自然とは180度正反対のものであるように思われるが、後述するようにこのような自然観の相違は基本的な生活様式の相違にも根差しているのではないかと考えられる。

 さて大自然の描写は別として、この映画で最も注目すべき要素は何かというと主人公パディ(ロバート・ミッチャム)とその妻アイダ(デボラ・カー)の間にある生活様式や価値観の相違である。主人公パディは、羊を追いながらオーストラリア中を放浪する、言わば根っからの遊牧民であるのに対し、アイダの方はそんな旦那の生活に馴染めず常に定住を望んでいる、言わば我々日本人に近い農耕民的心情を持った人物として描かれている。遊牧民的生活とは一箇所に定点を定めないでなまの自然の要請に従って常に流動する生活を指し、それに対し農耕民的生活とは一箇所に定住しそこを中心として周囲のなまの自然を飼い慣らされた自然へと転換していくような営みを指す。この作品では、遊牧民的に生きるパディと定住民的な価値観を持つアイダとの間で発生する軋轢を通じて、それぞれの生活様式及びそこから派生する価値観の違いが浮き彫りにされている点が1つの大きなポイントになっている。前半のあるシーンで、定住生活を送っている人々が所有する広大な敷地を見たアイダに「いったいあなたは何エーカーの土地を所有しているというの?」と尋ねられて、パディは「オーストラリアの全てさ。川も平地も皆俺のものさ。」と答える。面白いことに、この二人の間では所有するという概念が意味するところそのものが全く異なることがこの会話によって明確になる。すなわち、アイダが言う所有するという語の意味は、自分の土地を自分の土地であるものとして名前を付けて切出し区画し所有権を主張することと同義であるのに対し、パディの言う意味はそのような個人的な所有権を指すのではなく、所有することは名前を付けて土地を区画することでもなければ、他人に対して自分の土地の所有権を主張することでもない。すなわち、彼にとっては自分が経験すること全てが所有することを意味し、アイダが考えているように所有と所有権が不可避的に結びついているわけではない。これに対して生まれつきの遊牧民などでは全くないアイダにとって、旦那のそのような考え方は、不安定な生活は将来の保証がなく危険であるというような論理的推論による帰結によってばかりでなく、彼女の価値観自体が全く受け入れないものでもある。

 それに関連して注意が必要なのは、遊牧民的流動生活と農耕民的定住生活との間にはライフスタイルにおいてのみではなく、空間及び時間的な知覚様式においても大きな隔たりがあることである。農耕民的定住生活の空間知覚様式の特徴として、自身が定住した地点を固定的な中心座標とし、そこから遠くへ離れる程馴染みの度合いが減少していくような座標軸を投影する点が挙げられる。これに対して遊牧生活とは常に流動する生活であり、定住生活のように固定的な座標系を投影する機会がほとんどなく、それ故所有権のような考え方とも無縁である。何故ならば、所有権を主張する為に土地区画を行うにはここからこちらは自分の所有地、ここからあちらは他人のものというような判断を下すための何らかの固定的な基準が必要になるからであり、それを可能にする座標系が全く存在しなければどこからどこまでの土地を自分に所有権があるものとして宣言すべきかというような考え方も発生し得ないからである。かくして、遊牧民的思考様式の特徴を一言で述べれば、同時性と偏在性ということになる。パディがオーストラリアの全てが俺のものであると豪語する時の1つの意味は、いつでもオーストラリアのどこにでもいることが可能である、すなわちある時点でオーストラリアのある地点にいる可能性は他のどんな地点にいる可能性とも等しいということである。このことはまた単に空間的な知覚様式についてだけではなく時間的な知覚様式についても当て嵌まる。すなわち、無作為にある一時点を取上げた時、それは正確に他のどんな時点とも質的に等価であると見なし、現在という中心座標を据えてそこからマイナス方向を過去、プラス方向を未来というような色付けをしないで、過去も現在も未来も質的に全く等価であると考える。これに対して農耕民的定住生活においては、現在という時点を中心座標におきマイナス方向とプラス方向にそれぞれ過去と未来という意味を与え、この座標軸をプラス方向に沿って辿るにつれ、質的側面も徐々に向上していくであろうと考える。アイダがそれまで溜めていた有り金全てをパディがギャンブルでパーにするシーンがあるが、彼にとっては有り金を失うことは大きなことではなく、ましてや貯蓄という考え方は彼にとっては無縁のものでもある。何故ならば、彼にとっては現在と未来は質的に等価である為、現在を犠牲にしてまでも不確定な将来の為に何かを為すということは全く思いも寄らないからである。これに対して現在よりも未来の方が質的に向上するはずだと考えるアイダは、常に生活設計を怠らず貯蓄に励む。このようなシーンからもこの両者の間には、生活様式、知覚様式の違いが歴然と存在することが分かる。

 そのような両者の物の見方の相違がドラマ展開の原動力の1つでありながら、結局定住することのなかった一家が再び馬車に乗ってどこへともなく出掛けるシーンでこの映画は終わるが、豊かな自然に満ち溢れたオーストラリアには遊牧民的生活への憧憬を誘う不思議な魅力があることも確かであり、名匠ジンネマンがこの作品を手掛けたのもオーディエンスにそのような魅力を伝えたかったが故かもしれない。かつて1970年代から1980年代にかけて、「アンチ・オイディプス」や「ミル・プラトー」のような領域横断的且つファッショナブルな著作を書いたジル・ドウルーズ、フェリックス・ガタリ等によって、精神分析的な深さの概念に対抗して、表層を疾駆する分裂症的遊牧民的思考様式が話題になったことがある。この作品はそれよりも20年程前に製作されたのであり、ひょっとするとフレッド・ジンネマンは隠れた哲学者であったということかもしれない。

※当レビューは、「ITエンジニアの目で見た映画文化史」として一旦書籍化された内容により再更新した為、他の多くのレビューとは異なり「だ、である」調で書かれています。

2001/01/20 by 雷小僧
(2008/10/15 revised by Hiroshi Iruma)
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