0の決死圏 ★☆☆
(The Chairman)

1969 UK
監督:J・リー・トンプソン
出演:グレゴリー・ペック、アーサー・ヒル、アン・ヘイウッド、コンラッド・ヤマ
左:アン・ヘイウッド、右:グレゴリー・ペック

中国という国は、何か得体の知れないパワーが潜んでいるのではないかという雰囲気がありありと存在する国で、たとえばそもそもその文明の古さは、いつの時代にも他の国に対して一種の憧憬や驚異や時には脅威、混乱を与えてきました。それは何も日本のような同じアジアの国々に対してばかりではなく、現在では最も先進的であると見なされている西欧の国々に対してもです。たとえば、西欧の人々の多くが信奉するキリスト教においては、中国の存在はエジプトとともに教義上長らく大きな頭痛の種を与えてきました。というのも聖書の提示する年代記(因みにアッシャー卿とかいう人が聖書の記述を元に世界の起源を確かBC4004年としたことは「風の遺産」(1960)のフレデリック・マーチ演ずる弁護士の弁論の中にも出てきましたね)よりもそれらの国々は古い歴史を持っていたからであり、それによって聖書の権威が相対化される危険があったからです。そのような例は別としても、もっと身近なところでも中国には途轍もないパワーがあるのではないかと思ってしまうことが時にあります。個人的にそのように感じた例としては、たとえば5年程前の日韓ワールドカップで中国がワールドカップに初出場した時に、私めはひょっとすると開催国の日韓よりも中国の方が良い成績を残すのではないかと漠然と考えていました。まあ、単純な人口比から言えば、日本に一人の中田がいるとすれば中国には十人の中田がいるはずだというあまりにも単純素朴な誤謬推理がそこにはあったということかもしれません。終わってみれば、確か1点も取れないで全敗して敗退したのではなかったでしょうか。まあ、その1つ前の大会の覇者であったフランスも同じような悲惨な結果に終わったのがお慰みと言えばお慰みですが(え?お慰みにならない)、これには随分と意外な気がしました。そのような印象は、今度こそ中国はその持つ潜在力をフルパワーで発揮するのではないかというあまり根拠がはっきりしない漠然としたイメージに専ら由来することも多く、5年前のワールドカップの時のように結局そうはならないことが多く、それが故に時に眠れる獅子などと呼ばれたりもするわけです。ところで、2001年9月11日以後は、アメリカ(+西欧キリスト教諸国)対イスラム諸国という国際関係における図式が突出するようになりましたが、これに類する事態の発生を「文明の衝突」という本の中で遥か以前に予知したことによって知名度が各段に上がった政治学者にサミュエル・ハンチントンがいます。文明の類型化をその基盤とする理論はたとえば有名なシュペングラーの「西洋の没落」やアーノルド・トインビーの「歴史の研究」(個人的には厖大なこの書物に関しては縮約版しか読んだことがありませんが)のように、どこかいかがわしさがあるのも事実であり、専門の研究者の中にはこの手の書物を敬遠する向きも多いのかもしれませんが、いずれにしても現代の政治情勢の中でハンチントンに僅かながらも言及することが一種のトレンドになっていることも事実でしょう。しかしながら、この「文明の衝突」を読んで個人的に思ったことは、彼はイスラムに対してよりもむしろ中国に対して一種の潜在的なポテンシャルを見出し脅威を感じていたのではないかということです。彼がそう考える理由は、一方のイスラムには中心となる国がなく中心となるべきはずの国にはそれぞれ特定の分野で少なからず大きな問題を抱えているのに対して、1国で全てのイスラム諸国を束ねた以上の人口を有する(かな?自信がありません)中国は1つの纏まった強力なパワーとなり得る要素を持っているからです。たとえばイスラム国家として最大の人口を抱えるのはインドネシアですが、まず第一に地理的な関係から考えてもこの東南アジアの国がイスラム世界の中心になることは、まず考えられないでしょう。またイスラム諸国家は、アラブ系(北アフリカ、湾岸諸国)、ペルシア系(イラン、イラク)、トルコ系(トルコ)、インド系?(パキスタン)、アジア系(マレーシア、インドネシア)など民族的にも多岐に渡っているのであり(或いはこれ以外にもバルカン地方のボスニアやロシアのチェチェン等にもマイノリティとして存在するのであり、ご存知のようにそのような地域では紛争が絶えないわけです)、中にはアタチュルク以来のトルコのようにキリスト教クラブであるEUに加盟することを念願とするような国まで存在します。従ってアメリカ憎しというような対抗的な素材が存在すれば一致団結しても、それが存在しないとたとえばイラン・イラク戦争のように相討ちすら始めるわけです。つまり、イスラム教という強力な接着剤があるとはいえども、現実的にはイスラム諸国家はそれが一見して与える印象程には彼らは一枚岩ではないということです。これに対して中国は異なります。勿論中国も日本のような単一民族国家であるとは言えないかもしれませんが、イスラムに比べれば遥かに一枚岩的に成り得る条件が揃っているように思われます。かくして、ハンチントンの書物の末尾に書かれている第三次世界大戦シナリオも、アメリカ VS. イスラムではなくアメリカ VS.中国がメインでありイスラムは主役たる中国の同盟国として位置付けられているにすぎません。要するに今をときめくハンチントンも、現実面においてはイスラムよりは中国の潜在的なパワーを一種の脅威と見なしていたということですね。ということで何故中国の驚異や脅威について長々と書いてきたかというと、「0の決死圏」という作品は、東西冷戦花盛りの時代において、何とアメリカとソビエトが協力して中国が秘匿するある科学的な成果を盗み出そうとするストーリーが展開されるからであり、ここには冒頭で述べてきたような中国の持つ潜在力に対する一種の驚異或いは脅威が表現されているように思われるからです。何しろこの映画が製作された1960年代は、アメリカとソビエトが主役となる東西冷戦を題材として、それを異様な方向に拡大したような作品が次から次へと製作されていた時代です。確かにその傾向は、「0の決死圏」が製作された1969年頃までには緩和されていたということかもしれませんし、またこの作品は1960年代後半流行したスパイもの映画のバリエーションであると見なされるべきかもしれませんが、それにしてもこの作品は風変わりな印象を与えます。アメリカとソビエトが一致協力してという点は別としても、そもそも中国の科学者が発見した酵素に関する秘密をアメリカとソビエトが必死になって得ようとするのは、かつて中国の技術が西洋世界に驚異をもたらしていた時代を彷彿とさせ、科学技術は西欧世界の専売特許であると考えられているような現代においては、ほとんど10世紀くらい時代が遡ったのではないかという錯覚すら与えます。このようにして、一方では過去志向的な面において又他方では未来志向的な面(ソビエト崩壊後アメリカ対ソビエトという対立が雲散霧消したという意味において、及びハンチントンの考えているように将来中国が現在のアメリカに匹敵する一大パワーになるとすれば)において時代錯誤的な印象を少なくとも当時は与えたであろうことは必至であり、その意味では当時流行っていたスパイもの映画というよりは極めてSF的な映画であったのかもしれません。意識されていたか否かは別として、一種のSF的な仕掛けによってそのような点が更に強調されているのもまた事実です。それは、グレゴリー・ペック演ずる中国に潜入する主人公のノーベル賞科学者の頭の中に埋め込まれた発信機には、本人の知らぬ間に爆薬が仕掛けられていて、状況が悪くなればいつでも無線信号によって彼を吹っ飛ばしてしまうことができるという設定があることで、それによってオーディエンスは余分にハラハラさせられるわけですね。中国国家主席(明らかに毛沢頭のカルカチュアと思われますが)との会談シーンでは、中国のカリスマ指導者ごと彼を吹っ飛ばすことができたというわけです。しかしながら、まあかのグレゴリー・ペックの頭が西瓜割りの西瓜のように木っ端微塵に吹っ飛ぶシーンが見られるとまさか本気で思う人はいるはずもなく(そうでなければ60年代スパイ映画ではなく80年代スプラッターホラーになってしまいます)、結果は最初から分かっているとも言えますが、それでもハラハラドキドキするのが椎名誠流に言えば由緒正しき映画ファンというものなのでしょう。実は正直言えば、これまで述べてきたような妙味が存在することを別とすれば、作品自体の出来はまあまあそこそこという程度であり、特別誉められる作品ではありません。音声解説者の解説では、ペックが中国から脱出するシーンで彼が屋根伝いに逃走するのは、ヒチコックの「泥棒成金」(1955)を彷彿させるというようなことを述べていますが、ヒチコックの威光にあやからせたかったのだろうということは明白であり、これはちと苦しいですね。それでは、屋根伝いの逃走シーンすらあれば皆「泥棒成金」を彷彿させるのかということになってしまいます。監督のJ・リー・トンプソンは、1960年代初頭にグレゴリー・ペックを起用してこの作品の他に2本の有名な作品を監督しています(他に同年製作の「マッケンナの黄金」(1969)もこのコンビが関与していますがこの作品は評判があまりよろしくありません)。それは、「ナバロンの要塞」(1961)と「恐怖の岬」(1962)であり、これらの作品やその他のイギリス時代の作品を見ている限り巨匠であるとまでは言わないとしても彼は少なくとも一流監督であるとは言えるでしょう。ところが、70年代を過ぎると彼は何故か三流以下に成り下がってしまう印象があり、一部ではチャールズ・ブロンソンに誑かされたのだろうなどというジョークもあるようです。「0の決死圏」が製作された頃は過渡期であり、言ってみれば1.5流から2流というところをさ迷っていて、この作品も出来は良くて1.5流というところですが、但し少し趣向の変わった作品であることは間違いないところですね。尚、かつてミス英国であったアン・ヘイウッド(上掲画像参照)が出演していることを期待して見ると、彼女は冒頭とラストで僅かに顔を見せるのみなのでがっかりすることになります。


2007/03/24 by Hiroshi Iruma
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