眼下の敵 ★★☆
(The Enemy Below)

1957 US
監督:ディック・パウエル
出演:ロバート・ミッチャム、クルト・ユルゲンス、セオドア・バイケル、ラッセル・コリンズ

左:セオドア・バイケル、右:クルト・ユルゲンス

第二次世界大戦中の大西洋海域で、アメリカの駆逐艦とドイツのUボートが、いわゆるCat&Mouseの追いかけっこを繰り広げる様子が描かれています。勿論、トムとジェリーではないので、どちらが猫になりどちらが鼠になるかは、状況次第で一瞬の間に逆転する可能性がありますが、「眼下の敵」では、そのあたりの駆け引きが見事にそして極めてリアリスティックに描かれています。ここで敢えて指摘しておかねばならないのは、第二次世界大戦を舞台とした映画で、このように純粋な軍事行動に焦点が置かれている作品は、殊にアメリカ映画の中には多くは見られないことです。実をいえば、これから説明するように、「眼下の敵」の大きな特徴は、駆逐艦と潜水艦しか登場しない、すなわち民間人や、或いは商船などの民間のアセットが全く登場しない点にあります。また、軍人による純粋な軍事行動しか描かれていない為に、ラスト近くの展開が典型的に示すように、「眼下の敵」には、いわゆる騎士道精神的なテーマが見え隠れしているほどであり、バラエティ誌に、第一次世界大戦の空中戦を描いた作品のスタイルに近いとコメントされているのはまさに言い得て妙です。歴史家のホブズボームなどもつとに述べていたように、20世紀に入ると、軍と民間の区別が希薄になり、戦争の残虐さはいや増すばかりになります。しかしながら、その中にあって第一次世界大戦の空中戦においては、中世さながらの騎士道的な戦闘が繰り広げられていたのです。たとえば、リヒトホーフェンのようなスターパイロットは、貴族出身だったのであり、しかも空中戦では民間人が巻き込まれることはほとんど考えられない為、騎士道精神のような昔からのコード(戒律)が、未だに有効に機能していました。これに対して、地上戦では、そもそも高等訓練が必要とはされない歩兵が主力であることは別としても、いやでも戦闘時に民間人が巻き込まれざるを得ない為、第一次世界大戦が始まる頃までには騎士道などといういにしえのしきたりが有効に機能する余地はほとんど残されていなかったのです。但し、民間人が巻き込まれることの少ない砂漠の戦闘においては、第二次世界大戦においてすら、たとえば北アフリカ戦線のロンメル将軍率いるアフリカ軍団など、騎士道精神と絡めて語られることがあるのは確かです。しかしながら、いくら連合軍捕虜の銃殺指令を破り捨てたロンメル将軍が高潔であったとしても、間接的にであれ民間人の死者をバタバタ出していたならば、騎士道精神という文脈の中で彼の軍事行動が語られることはなかったはずです。21世紀に入ってイラク戦でアメリカは、イラク爆撃に関して軍事施設のみをターゲットとする精密爆撃であることを強調しているにも関わらず、実際には民間人の死者が少なからず出ており、それではアメリカの行為は、騎士道精神に則った公正な戦争であるなどとはとても見なせないのです。では、「眼下の敵」でも舞台となる海は、どうでしょうか。確かに、海上作戦の多くは局面のみを捉えれば純粋な軍事行動である場合が多いのは確かです。実をいえば、イギリス産の海戦映画には、局所的な軍事行動を素材として、その中で生まれる騎士道精神的なテーマを隠し味とする作品が少なからず見受けられます。しかしながら実際には、殊に第二次世界大戦の大西洋地域においては、ドイツの戦略的な目標は通商破壊だったのであり、ということは、「眼下の敵」にも登場するUボートや、或いは戦艦ビスマルクなどの水上艦艇のそもそもの存在意義は、民間船舶の破壊や拿捕にあったことになります。勿論、商船の中には武装しているものもあるだろうし、積荷は軍需品であるかもしれないとはいえ、基本的に乗組員は民間人であり、食糧や医薬品などを積載している可能性の方が高かったはずです。つまり、海上戦闘ではあっても、大局的な見地からすれば、必ずしも純粋な軍事行動とは言えなかったことになります。ということもあってか、アメリカ産の潜水艦映画は、基本的に純粋な軍事行動のみに焦点が絞られることはあまりありませんでした。潜水艦攻撃による民間人の犠牲が1つのテーマとして取り上げられる作品の典型として、グレン・フォード主演の「電撃命令」(1958)が挙られますが、この作品については「深く静かに潜航せよ」(1958)のレビューで取り上げたので、そちらを参照して下さい。それに対して、「眼下の敵」は、民間の商船が撃沈されるシーンもなければ、大局的な見地から海戦が描かれることもなく、要するにアメリカの駆逐艦とドイツのUボートという2隻の軍艦の対戦のみに焦点が絞られており、その中から互いに対する尊敬の念まで生ずる様子は確かに第一次世界大戦の空中戦を彷彿とさせるものがあります。バラエティ誌に、チェスのような戦闘と形容されているように、まさに「眼下の敵」では、軍事戦術の部分が異様に拡大されて描かれているのです。ところで、「眼下の敵」では、殊にUボートの艦長(クルト・ユルゲンス)が、ナチスに批判的な人物として描かれているため、反戦メッセージが含まれているようにすら見えるかもしれません。しかしながら、ベトナム戦争後の反戦映画とは明らかに異なり、「眼下の敵」にはそのような意図はないはずです。クルト・ユルゲンス演ずるUボートの艦長が批判している対象は、彼のセリフを引用すれば「a bad war」のみなのであり、戦争そのものは否定するどころか彼は昔の戦争を懐かしんですらいるのです。いずれにせよ、ここで、彼が言う「a good war」、「a bad war」は、実はこの作品を理解する上でかなり大きなポイントになります。英語の「good」や「bad」という単語は小学生ですら知っているはずであり、一見するといかにも単純そうに見えるとはいえ、実際にはあまりにも意味が多様である翻訳家泣かせの単語であり、ここで彼が言う「good」や「bad」とはどのような意味であるかを明確に特定することは見かけほど簡単ではありません。しかしながら敢えてトライすると、アメリカの政治学者マイケル・ウォルツァーの有名な著書「正しい戦争と不正な戦争」(風行社)の用語を用いて、「a good war」は「a just war(正しい戦争)」であると、「a bad war」は「an unjust war(不正な戦争)」であると言い換えられるように個人的には考えています。マイケル・ウォルツァーという御仁は、手段は問わず勝者になることが戦争の最大の目的であると見なすマキャベリ流の考え方に否を唱え、戦争遂行にモラルの観点を持ち込み、或る意味で中世の騎士道精神的なパラダイムに戻るかに見える提言をします。正戦であれば戦争を肯定する立場に立つウォルツァーの見解に全面的にコミットするか否かは別の問題として、彼が軍と民間の区別を明確に行うことを殊に重視し、民間に無実の死者を出すようであればその戦争は決して正しい戦争たり得ないと主張する点にここでは注目する必要があります。クルト・ユルゲンス演ずるUボートの艦長がナチの戦争を「a bad war」と見なす理由は、作品中で明示的に述べられている範囲では、ヒューマンエレメントが欠けていることくらいしか分かりませんが、「ヒューマンエレメントが欠けている」とはまさにモラルが欠けていることを意味するはずです。そして、ここで言うモラルとは、ベトナム戦争後の反戦映画にしばしば見られるような「戦争=無条件の悪」とする図式を指すのではなく、まさにマイケル・ウォルツァー言うところの「正しい戦争」を遂行することであり、軍人であることを誇りに思う彼は、決して戦争そのものを否定する言辞を弄するわけではありません。「正しい戦争」を遂行する為には、非戦闘員が巻き込まれてはならないのであり、それならば当然、無実のユダヤ人を虐殺するに至るナチの戦争は、彼にとって「不正な戦争」でしかあり得ないのです。また、ほぼ同様なことは、対するアメリカ駆逐艦の艦長(ロバート・ミッチャム)にも当て嵌まります。確かに、彼は、クルト・ユルゲンス演ずるUボートの艦長のように自国の行う戦争を不正な戦争であると見なしているわけではありません。しかしながら、彼は奥さんをUボートの雷撃によって失ったにも関わらず、その復讐をする為にここでUボートを攻撃するのではないとドクター(ラッセル・コリンズ)に明言します。つまり、彼が言いたいのは、自分の行う軍事行動に対して、個人的な恨みのような私情を持ち込まず、要するに軍と民間との区別を明確にするということであり、あくまでも貴族的ともいえる戦争のコードに従おうとしているのです。多少余談気味になりますが、士官達が士官室でプレイしているのは貴族的なコノテーションを持つコントラクトブリッジであり、その点にも何やら海軍の高貴性がシンボリックに表現されているようにも見えます。塹壕の中で士官達がコントラクトブリッジを行っているシーンなど見たことがありません。いずれにしても、ナチという悪の帝国に属するクルト・ユルゲンス演ずるUボートの艦長が、そのナチの行う「不正な戦争」に対する批判を口にしているとするならば、悪の帝国に立ち向かう(と一般には見なされている)アメリカに属するロバート・ミッチャム演ずる駆逐艦の艦長は、自分の軍事行動が「正しい戦争」の枠からはずれないように行動しようとしているのです。但し、彼の指揮する駆逐艦が魚雷を浴びて沈没寸前になり、Uボートの艦長に総員退艦の為の5分を与えられ、それを承諾したにも関わらず、騙まし討ちをするように船体を潜水艦にぶつける行為は、厳密にはコード違反であるように見えます。なぜならば、退艦を承諾した時点で、彼は最早軍人としての機能を終えたはずであり、以後は自ら民間人として行動し、敵からもそのように扱われなければならないはずだからです。すなわち、その時点を境として、彼は最早敵から攻撃されてもならなければ、敵を攻撃してもならないはずであり、その為に少なくともUボートの副官(セオドア・バイケル)が死ぬことに鑑みれば、彼の行為は殺人に匹敵するはずだからです。しかし、総員退艦を承諾した時点で彼の軍人としての使命は本当に終わったと見なすべきか、すなわち、騙まし討ちも軍事作戦の1つと見なせるか否かについては検討の余地があることは別としても、これはいかにも重箱の隅をつつくようでもあり、最終的にUボートに軍配を上げるわけにもいかず、シナリオ上そうしなければストーリーを完結できなかったこともあるのかもしれません。いずれにせよ、そのような行動の前提があるからこそ、ラストシーンに見られるような敵であるにも関わらず互いの戦術に対して尊敬し合うような関係も可能になるのです。なぜならば、騎士道の基本には騎士道で定められたコードがあり、そこからひとたび逸脱すれば、そこから発生するはずの尊敬の念も生まれるはずはないからです。アメリカの駆逐艦に救助された両艦長が会話するラストシーンで、ロバート・ミッチャムが「今度は、(救助の)ロープを投げたりはしないかもしれない」と言うと、クルト・ユルゲンスは「いや、投げるはずだ」と返答します。これは、単なる人道的な見解の表明としてよりも、たとえ敵であろうが戦闘不能に陥った相手を救助するのは「正しい戦争」を遂行する為のコードが要請するところであり、自分も相手もそのようなコードを遵守する軍人であることを忘れることは決してないであろうことの表明として捉えられるべきなのです。繰り返すと、この作品に見られるのは戦争そのものに対する批判などではなく、20世紀に入ってから圧倒的に見られるようになった「不正な戦争」に対する糾弾なのです。極論すると、「眼下の敵」では、アメリカの駆逐艦とドイツのUボートの間で繰り広げられるウォルツァー流の「正しい戦争」或いは正戦が描かれているのであり、純粋な軍事的行動しか描かれていない事実は、実は当作品に必要な要件であったことが分かります。なぜならば、たとえばクルト・ユルゲンス演ずる艦長率いるUボートが、民間商船を撃沈するようなシーンがあったとするならば、それでは最早そこで描かれているのが「正しい戦争」であるかどうかは疑わしくなるからです。ということで、アカデミー特殊効果賞を受賞した戦闘シーンが必見であることを最後に付け加えておきます。


2008/12/14 by Hiroshi Iruma
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