翼に賭ける命 ★★☆
(The Tarnished Angels)

1958 US
監督:ダグラス・サーク
出演:ロック・ハドソン、ロバート・スタック、ドロシー・マローン、ジャック・カールソン

左から:ロック・ハドソン、ドロシー・マローン、ロバート・スタック、
ジャック・カールソン

 近年再評価がとみに著しいダグラス・サークの作品であり、ロック・ハドソン、ロバート・スタック、ドロシー・マローン主演とは、彼の前年の作品「風と共に散る」(1956)と全く同じ顔ぶれが揃っていることになります。不思議なことに前年の作品の方がカラーで、こちらの「翼に賭ける命」は白黒です。いずれにしてもサークの「心のともしび」(1954)以後の作品はほとんどがカラー(「翼に賭ける命」の他に、個人的には見たことがありませんが、バーバラ・スタンウイック主演の「There's Always Tommorow」(1956)が白黒のようです)なので、これは意図的であるのかもしれません。ウイリアム・フォークナーの「パイロン」が原作ということで、文芸ものイメージが強調されたということでしょうか?

 「翼に賭ける命」では、流浪の空中サーカス一座に関するストーリーが展開され、その焦点は、月並みな言い方をすればロバート・スタック、ロック・ハドソン、ドロシー・マローン三者間の三角関係に置かれています。或いは、ジャック・カールソン演ずるメカニックも実際には微妙に絡んでいるので、四角関係と考えられるかもしれません。しかしながら、「翼に賭ける命」は、フォークナーが原作のサーク作品であり、そのようなストーリーがテレビドラマ的安易さによって語られることはなく、「犠牲」、「贖罪」などのサークお得意のテーマが背後に横たわっています。他のサーク作品のレビューでも述べましたが、サークの作品には、個人の意志を越えた運命の力に関わる、いわばギリシャ悲劇的なテーマが背後に見え隠れしている場合が多々あります。2本のポストの廻りを飛行機が低空で周回しながらアクロバティックなレースを行うシーンで、主人公のパイロット(ロバート・スタック)が墜落する悲劇的な結末に至るのは、個々のメンバーが、望んでもいないことをせざるを得なかったり(リチャード・カールソン演ずるメカニックは、一度墜落した飛行機を短期間で修理するのは不可能であることが分かっているので無理をしたくないにも関わらず、付け焼刃の修理をせざるを得なくなる)、自分の目的を追求することに忙しかったり(ロック・ハドソン演ずる新聞記者は、空中サーカス一座を題材にして生きた記事を書くことが究極の目的なのです)、或いは果てることのない熱情に囚われて他のことは一切省みなかったり(ロバート・スタック演ずるパイロットは、今日のレースに勝利しても明日のレースではまた一人の挑戦者でしかない危険な飛行機レースにシジフォスの神話のように囚われて、ドロシー・マローン演ずる奥さんをないがしろにしているので、そこへ色男ロック・ハドソンが現れれば関係が三角にならないわけがありません)した結果なのです。

 誰も望んでいないのに、いやそれどころか悲劇的な結末になることを誰もが避けようとしているにも関わらず、それでも悲劇は起こるのであり、さらに言えば、誰もが避けようとしているが故に悲劇が起こるからこそ悲劇がまさに悲劇になるのです。ルネ・ジラール流に云えば、共同体の内部に何らかの不均衡が発生すると、崩された均衡を取戻すには犠牲が必要になるという永遠の真理が「翼に賭ける命」から透けて見えます。自らの力では制御することのできない運命が犠牲を要求する、これが悲劇のメカニズムの裏にある1つの大きな真理なのです。この真理を「翼に賭ける命」に適用すると、ロバート・スタック+ジャック・カールソン+ドロシー・マローンというアクロバット飛行一座は最初から均衡していない、或いは偶然の事象に対する許容度が極めて小さい微妙な均衡の上に成り立っていると考えられます。前述の通り、主人公は奥さんをないがしろにしていたのであり、そもそもそれ以前の問題として、誰が彼女を嫁さんにするかを、主人公とメカニックの間でサイコロ賭博によって決めたりしているのです。そこへロック・ハドソン演ずる新聞記者が絡んだ時点で、危うい基盤の上に立つ均衡は脆くも崩れ去らないはずがないのです。サイコロの出目で嫁の貰い手を決定するシーンが象徴的に示すように、ここには偶然に支配される運命の力が否応無く介在しており、遅かれ早かれ何らかの悲劇が発生することは不可避であったと考えられます。

 ところで、アクロバット飛行やアクロバットダイビングがマテリアルとして取り上げられると、「翼に賭ける命」と同様、「運命的な犠牲」というテーマが見え隠れすることがしばしばあります。たとえば、「さすらいの大空」(1969)では、バート・ランカスターがパラシュートを開かず地面に激突し、「華麗なるヒコーキ野郎」(1975)では、スーザン・サランドンがサーカス飛行の最中に墜落死します。そのようなシーンを見ていると、「運命」や「犠牲」に関わるテーマには何らかの魅力がある、或いは再びルネ・ジラール流に云えば、人間社会或いは共同体成立の原初的な瞬間には必ずや原初の犠牲すなわち神聖なる暴力があり、何らかの共同体的な不均衡が生じた場合この原初体験を何らかの形で追体験する必要がある為に、人はそのようなテーマに惹かれる傾向があるのではないかという考えが頭に浮んできます。ミルチャ・エリアーデも述べるように、人間が古来より行ってきた宗教的儀式とは、本来この一回的な原初の瞬間を一回的な様態で追体験する手段とも見なせるのではないでしょうか。そのような、古来からの儀式が絶滅せんとしている今日、犠牲に対する充たされぬ欲求がフツフツと沸き起こって、宗教のごとく聖なる空間ではなく、「翼に賭ける命」のパイロットのように、より日常空間に近い状況設定の中で犠牲者が求められているということかもしれません。ということで、トロイ・ドナヒューがパイロット役でチラリと顔を見せていることを最後に付け加えておきます。


2003/04/26 by 雷小僧
(2008/10/11 revised by Hiroshi Iruma)
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