ニュー・シネマの悪童たちが好きだ    
               
                  藤田真男
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「ニューミュージック・マガジン」 増刊  70年代グラフィティ
 1978年4月6日発行 115号  pp.159-162
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     ニュー・シネマの悪童たちが好きだ 

                  藤田真男

   当時はちょうど新時代が始まっていた(というのは、新時代とは毎瞬始まっているものなのだ)。
         ・・・・ロベルト・ムジール『特性のない男』(新潮社)

 いわゆるアメリカン・ニュー・シネマと呼ばれる映画群が、いつ頃現れ、そして消えていったかは、どうもはっきりしない。というよりも、一体、何がニュー・シネマであり、何がニュー・シネマでないといえるのか、明確には答えることができないままなのだ。政治的な、社会的な、風俗的な次元で、ニュー・シネマについて断片的には実に多くのことが語られてきたが。その全体像が語られるには、まだ少し早すぎるのかもしれない。などと悠長なことをいってる間にも、アメリカ映画はどんどん変わりつつあるようだ。その速度と質と量の変化を正確に計測し、時代の動きを見透すことのできる眼を、あいにくぼくは持ち合わせていない。したがって、ぼくもまた個人的な思い入れを断片的に語るしかない。

  『エスクワイヤ』誌75年2月号では、アメリカ映画の父、D.W.グリフィスから数えて9番目という意味で、『タクシー・ドライバー』のマーチン・スコシージ、『ジョーズ』のスティーブン・スピルバーグ、『デリンジャー』のジョン・ミリアスたちに、“ハリウッドの第9世代”という名を与えている。第8世代が『ゴッドファーザー』のフランシス・フォード・コッポラ、『フレンチ・コネクション』のウィリアム・フリードキン、『ラスト・ショー』のピーター・ボグダノビッチ。第7世代が『イージー・ライダー』のデニス・ホッパー、ピーター・フォンダ、ジャック・ニコルソンたちだそうだ。みんなが、おさまるべきところにうまくおさまっている、といった感じの分類だが、ベートーヴェンのシンフォニーじゃあるまいし、こう行儀よく並んでしまうと面白くない。これによるとニュー・シネマも、第7世代として映画史に確かな地位を与えられたようだが、こんな便利な分類法が発明されていない頃のニュー・シネマに対する評価は、もっと支離滅裂で面白い。

  同じく『エスクワイヤ』誌72年4月号の「最近、良い映画を見たか? ニュー・シネマについてどう思うか?」というインタビューに、ハリウッドの老監督たちはこう答えている。

 フランク・キャプラ「へどが出そうだ。しかし幾つかの作品には洗練された品格を認める。『真夜中のカーボーイ』(69年・監督ジョン・シュレシンガー)が一番良かったが、それ程ショックは受けなかった。ストーリー自体が好きだったので、この作品も好きになった」

 ジョージ・キューカー「『愛の狩人』(71年・監督マイク・ニコルズ)は、いやな映画だ。こんな映画は作りたくない。ベッドへ行くか否か以外、人間には何もないようだ。おまけにエロチシズムもない。全ては、むしろ安っぽいッシニシズムだ」

 ビリー・ワイルダー「『愛の狩人』は、映画が持つべき最も大切なものを浸み込ませている。多分、私の趣味とは変わっているが。再び黒人問題やオートバイとヘロイン、ウッドストックの青年たちw扱った映画があっても、もう見まい」

 ジョン・フォード「ポルノ映画や、これらのイージーでリベラルな映画は好きでない。がらくたばかりだ。こうした映画がどこへ行くのかわからない。どこへ行くものでもないと思うが」

 みんなチグハグなことをいっているようだが、誰のいうこともよくわかるし、それぞれ一面の真理を含んでいるようにも思える。とにかく、ニュー・シネマに対する毀誉褒貶は、実に盛大かつ雑多なものであり、これほど映画について誰もが大マジメになりムキになり真剣になって語った時代もあまりない。その後のヒット作や大作の登場による“映画復興”のおかげで良くなったことは何もない。映画も映画館も観客も、小ぎれいになりおとなしくなりつまらなくなっただけだ。今や映画館は、愚鈍な顔つきをした羊のようにおとなしい善男善女の群れに占拠されてしまった。それは何も映画に限ったことではないが。

 “5月革命”のさなか、ゴダールやルルーシュと共にカンヌ映画祭粉砕に加わったトリュフォーは、その後、ニュー・シネマについて「こう語っている。
  「たとえば望遠レンスやズームの濫用、ハレーションだらけの映像、構成がしっかりしたシナリオなしで撮って、やたら甘美な音楽や唄を流してストーリーを中断してしまうモンタージュ・・・・これは、ニュー・シネマといわれるすべての映画に顕著な特徴ですが、すべてクロード・ルルーシュの影響なのです。これは悲しい現象です。というのも、アメリカ映画の偉大な特質は、ストーリーをこの上もなく効果的に語って観客を包み込んでしまう能力にあったからなのです」

 ルルーシュの映画が、アメリカ映画に対してそれほど大きな影響力をもっていたとは信じ難いことだが、トリュフォーの説にも一理ある。それは、フランク・キャプラが“ストーリー”にこだわっていることをみてもわかる。そのトリュフォーが、『愛の狩人』や『ラスト・ショー』(71年・監督ピーター・ボグダノビッチ)二は「大いに共感を示したというのもわからなくはないが、とても賛同はできない。全くへどが出そうな、安っぽいシニシズムではないか。たしかに、このあたりからニュー・シネマは大人になった。それも、つまらない大人に。或いは逆に、多くのアメリカ映画はニュー・シネマ以上に稚拙な子供になった。“船がひっくり返る話”や“ビルが燃える話”のどこに一体、アメリカ映画の偉大な特質がみとめられるだろうか。
 
 ニュー・シネマといわれる映画のほとんどに、まるでバカのひとつおぼえみたいに甘美な唄が流れていた。その点もトリュフォーの言う通りだ。しかし、だからと言ってこれらすべてを、アメリカ映画の退行として否定し去ることは、ぼくにはできない。例えば、『明日に向って撃て!』(69年・監督ジョージ・ロイ・ヒル)で唄われた「雨にぬれても」は、その内容も陽気なメロディーも、ジーン・ケリーの「雨に唄えば」を思わせる子供っぽい無邪気ささえ感じられる。また、『モンテ・ウォルシュ』(70年・監督ウィリアム・フレーカー)では、黄昏の西部で時代の流に取り残されて行く老カウボーイたちが、まるで遊び場を失って途方に暮れる子供たちのように描かれ、ママ・キャスの唄う主題歌が、子守唄のように彼らを包んでいた。或いは、ロバート・アルトマン監督の『M★A★S★H』(70年)だ。皮肉とペシミズムに彩られた主題歌「自殺のよろこび」はとてもいいのだが、それに反してドタバタ調の軍隊喜劇としての映画そのものはドリフターズのコントなみでどうにも好きになれず、このチグハグが不思議でならなかったのだが、『バード・シット』(71年)を経て、『ギャンブラー』(71年)に至り、ぼくははじめてアルトマンの真意を理解できた。『マッシュ』sでの悪趣味な道化ぶりは、『ギャンブラー』の深い深い絶望と裏腹のものだったのだと。

 これらの映画の基調としてあるのは、『愛の狩人』や『ラスト・ショー』の安っぽいシニシズムとは別のものだ。ああ、俺も大人になってあいまったのだよ、というような感傷でもない。朝鮮戦争を時代背景としながらも、『M★A★S★H』には、ニュー・シネマより後に多く作られたノスタルジア映画のような感傷的で逃避的な気分が全く欠けていたことに注目したい。それは、西部開拓時代の終わり、アメリカの夢の終わりを背景とした新しい西部劇についてもいえる。ケネディ大統領の唱えた“ニュー・フロンティア”を否定的媒介として、行き場のない夢を抱いたまま彼らは自滅し、失墜し、地平線の彼方へ消えて行った。子供がむずかってダダをこねているような悪あがきでしかないとしても、ぼくはこれらニュー・シネマの悪童どもが好きだ。何といっても、ニューシネマのいいところは、およそ建設的ではなかったことだ。といって、破壊的でもなかった。そんな力もなかった。そのくせ、夢みる心は人一倍強かった。その意味で、アルトマンの『ギャンブラー』と、ピーター・フォンダの『さすらいのカウボーイ』(71年)を、いわゆるアメリカン・ニュー・シネマがたどり着いた極北に位置する傑作として、記憶にとどめて起きたいと思う。

 映画史の上からみると、ニュー・シネマは、オールド・ハリウッドやニューヨーク派が身にまとっていた、古びた“良心”に裏打された重苦しい外套を脱ぎ捨てて身軽に駆け出したときから始まったといえるだろう。ニューヨーク派が起こった一因には、関節的には赤狩りによるハリウッドの質的な衰退が考えられる。
 転向を余儀なくされ、偽善に満ちたハリウッドに対して、アメリカの良心を掲げたニューヨーク派が現れる。しかし、アメリカを憂い、時代を憂い、深刻になればなるほど身動きが重くなってしまった。
 むしろフランクリン・J・シャフナー監督『猿の惑星』(67年)のような娯楽映画の中に、ハリウッドの赤狩りとそれらを許したアメリカに対する痛烈な皮肉が含まれていたことは興味深い。(シャフナーは後に『パピヨン』(73年)でも、赤狩りで追放されたドルトン・トランボを脚本家として起用)。このSF映画に、チャールyトン・ヘストンが主演しているのも偶然ではない。なぜなら、彼は反ユダヤ主義者でありながら、赤狩り後のハリウッドにおいてバン・ハーやモーゼを通じて、赤狩りと闘ったユダヤ系映画人の懐柔に一役も二役も買った前歴の持ち主だからである。
 例えばマーチン・リットのように、むしろ黒人問題や他の民族問題を熱心に描いていたユダヤ系映画人が、自らを軽やかに正直に語り始めたのも、ニュー・シネマ到来以後のことである。『さよならコロンバス』(69年・監督ラリー・ピアス)のようにユダヤ人の生活感情を生き生きと描いた映画は、それまでなかったのである。エリア・カザンでさえ、『アレンジメント』では、重々しい口調ではあるが、自らの歴史を語った。歯切れはよくないが、『追憶』(73年・監督シドニー・ポラック)や『マラソン・マン』(76年・監督ジョン・シュレシンガー)では、赤狩りとユダタ系アメリカ人の関連に言及している。このユダヤ人の“復権”についても、その意味や背景を正確に述べることはまだできない。
 『追憶』『マラソン・マン』の助監督を、かつて赤狩りのブラック・リストに名を連ねていたハワード・コッホ(『カサブランカ』などの脚本家)の息子がつとめていることを付記しておく。


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