池田博明制作・「日曜日にはTVを消せ」関連サイト 2009年4月19日  藤田真男 映画評



 藤田 真男が1971年から1974年にキネマ旬報に書いた映画短評  


 藤田 真男が1974年以降に書いた 映画短評
   

 インタビュー記事 (相米慎二監督/押井守監督/原田芳雄など)
 BACK TO 日曜日にはTVを消せプログラム 
Kindle版『天才鬼才たちの昭和史 日本映画遺産』発刊!2014年12月




 藤田 真男が1971年から1974年にキネマ旬報に書いた 
 映画短評
   (編集・池田博明)  

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外国映画  (洋画)


読者の映画評

    ひとりぼっちの青春  藤田 真男   (キネマ旬報1971年1月541号)

 よく時計を見ていなかったが、この作品の上映時間は「マラソン・ダンス」とちょぅど同じ二時間ほどではなかったろうか。そして休憩時間には、僕も主人公達のようにぐったりとなっていた。コンテストの会場には、グレタ・ガルボが主演した「グランド・ホテル」のポスターがはられていて、それがしばしば意味ありげに画面に現われる。ボスターでわかるように、これは一九三二年、不況がますます深刻化しつつあるアメリカが舞台となった、いわゆる「グランド・ホテル・スタイル」の映画である。冒頭でプロモーター兼司会者のギグ・ヤングが、前口上を述べた後「戦争のないことを祈ろう」と付け加える。
 二八年フーヴァーが大統領に当選、「永遠の平和」を現出せしめたが、二九年以後は不況の波に押され、三一年のフーヴァー・モラトリアム、三二年の軍縮教書も焼け石に水。
 同じ頃ドイツでは、ナチスがますます膨張を続けていた。「地獄に落ちた勇者ども」は、三三年のドイツが舞台となる。三十年代後半は、ルーズヴェルトとヒトラーの軍備拡張競争の時代。そして当然、世界大戦は起った。
 おそらく、ナチの行なった拷問のような人体実験を商業化すると、この「マラソン・ダンス」のような見せ物になるのだろう。そしてグレタ・ガルボの神話がいかに作られたかを、この映画はまざまざと示している。
 ヘルムート,バーガーは、大衆の抑圧されたヱネルギーの化身の役を代行していたが、 「アメリカの狂気」は余興の「ダービー」をとりまく観衆のどよめきの中で、すでに爆発寸前だったのだ。ゴールに飛び込んだ主人公達は、床の上で泣きくずれる。一九三〇年代とは、一体なんといぅ時代だったのだろう。しかもラストで司会者が「みなさん拍手を!」と何度もくり返すように、あの狂気の拍手は、四十年たった今もなお、鳴りやまず続けられているのである。
  (豊橋市・学生・18歳)

読者の映画評

     お前と俺  藤田 真男   (キネマ旬報1971年6月上旬552号)

 日本製オートバイに乗った、アメリカ の若者が、レース中にわざと負傷して、徴兵から逃れよぅとした、というような部分が、どういうわげかカットされているのだから、邪推もしたくなるが、今はその事には触れまい。妥協するわけではないが、この重要な部分がカットされていても、ビッグ・ホルジイの背中の「傷」の原困を暗示するシーンが、いくつかあって、それだけでもこの作品は、充分に痛々しい。「58番リトル・フォースに注目を!注目を!」というアナウンスが虚しく響くラストシーンは、いやでも「ひとりばっちの青春」を思い出させる。30年代が「マラソン・ダンス」なら、70年代のアメリ力の若者達は「オート・レース」に参加しなければならないようだ。そして、このレースにも「勝者」はいない。ホルジイもまた、撃たれるべき「廃馬」であり、フォースとて、いつかはホルジイ同様、背中に傷を負い、「廃馬」にならざるを得ないだろう。
 冒頭、レーサーが背骨を折って、救急車で運ばれて行く。その光景を無表情に眺めているホルジイ。有名なレーサーに向って、これみよがしに「ベトナムで負傷してネ…」と、大声で話しかけるホルジイ。また、リタがフォースに語った「背骨の折れた者は、根性が曲っているのよ」という言葉。これらの断片が、ホルジイの「傷」の原因を暗示している。
 ホルジイが、何故いつも上半身裸でいるのか、と考えてみれば、ことはたちまち明らかになる。つまり、彼は「傷」をみんなに見てもらい、それで自已の偽悪的な行動を容認させたいのだ。シドニイ・J・フューリーが、クロース・アップしてみせた、アメリカの若者達の「傷」は、癒しがたく深い。マザー・フォースが「一生は短い…すぐ終っちまうよ」と言って、子供みたいに泣き出しそうになる、ばかばかしさの中に、重い実感がある。そんな映画なのだ。
  (豊橋市・学生・19歳)


読者の映画評

    太陽の果てに青春を   藤田 真男    (キネマ旬報1972年3月下旬574号)

 モノクロの画面にタイトルTHE END そして、すでに死刑が確定しているネッドの刑務所内での結婚式。つづいて死刑執行。
 画面は鮮かなカラーに変り、タイトル BEGINNING。馬泥棒の罪による三年の刑を終え、歩いて我が家へ帰るネッド。美しいオーストラリアの風景のバックにカントリー風の歌が流れ、ケリー一家に関する一都始終が語られる。時は一八七一午。アイルランド人の父は、ブタ一頭を盗んだ罪で植民地・オーストラリアヘ島流し、監獄で果てた。アメリ力合衆国にも、まだ辺境は存在していたが、三十年たてばブッチとサンダンスがオーストラリアヘ渡ろうと夢みることになる。ヨーロッパの辺撹たるアイルランドから、更に島流しにされた所だから、まさにここは地の果て。
 原題はNed Kellyではなく、THE KELLY BROTHERSとなっている。ケリーというのは、アイルランドの農村地方にあるケリー州と関係あるのだろうか。アイルランドの農村には、犯罪者を英雄視する伝統みたいなものがあったという。ケリー一味の神出鬼没ぶりは何とも愉快痛快で、責婦人風のオバサンに「ハンサムね」なんて言われたりする。
 どうみたって悪人には見えないミック・ジャガーは適役だったといえよう。
 鉄仮面をつけて単身警官隊に立ち向うネッドは、いささかコッケイでこそあれ、悲惨さはつきまとわない。なぜなら、ぼくらはネッドがここでは死なないと、初めっから知っているし、ラストで彼は裁判官に向って「またあんたと会おぅぜ、あそこ(地獄)でな……」と言って不敵に微笑するのだから。
 英国人トニー・リチャードソンが描いたネッド・ケリーは、辺境の地に「共和国」建設を夢見たのだが、ばくにはその共和国が、河辺和夫の描いた「非行少年」たちが林の中に作った掘立小屋のようなものであったかもしれないと思えてならない。小屋には「俺らのヤサ」と書きつけてあった。
 (豊橋市・学生・20歳)
読者の映画評

     帰らざる夜明け  藤田 真男     (キネマ旬報1972年12月上旬593号)

 スペインというと「ラスト・ラン」でハリー・ガームズの愛車が疾駆した風光明媚な観光地か、「私は好奇心の強い女」でレナ・ニーマンのダメな親父が逃げ帰って来た反動国家ぐらいとしか思い当らず、三十歳前後の方々が、わが心のスペイン…みたいなこと感慨深げに語るのを聞いても、どうもストレートには埋解でぎない。単なる世代の差といってしまってはマジメさを欠くかもしれないが、ぼくには好奇心が足りないせいか(レナは親父が逃げ帰ってからの日数を黒板に書きとめているのだ!)スペイン内乱や人民戦線や、その時代を描いた映画というのは、どうもピンとこない。レネの「戦争は終った」は、ひたすら退屈した。
 そんな風だから、スペインから遠く離れて、35年前後フランスの田舎の鮮やかな緑を背景に、さりげないラヴ・ストーリーにのっとりつつ、時代への思い入れをひしひしと感じさせる「別れの朝」や、この「帰らざる夜明け」の方が、ぼくにはなじみやすい。
 時代を示すものといえば、シモーヌ・シニョレの買って来た孵卵器を包んである新聞の記事と、教会の壁の落書ぐらいなもので、ほとんど全篇「マドモアゼル」風の田園風景の中で、淡々と物語は進むのだが、さしたる出釆事もなくアラン・ドロンの犯した殺人がどんなものであったかには、映画が終るまで全く触れられない。ドロンはシニョレに「何が望みなの?」と聞かれて、「太陽とワインだけだ」などと答えている男で、どうやらそれは本当らしく、のんびりと日常にとけこんでいるようにみえる。
 しかし、ドロンが警官隊の一斉射撃に倒れ、彼が政府高官を殺した犯人だと知らされるに及び、或いは彼は寡黙な無償の「テロリスト」だったかもしれないと思わせる。追ぃつめられた彼が「いい天気だ…」と眩いて、涙ぐましいほど明るい青空に向って、むなしく銃を発射するメルビル調の名場面にすべてが凝集されていて、胸にしみる。
 (豊橋市・学生,20歳)

読者の映画評

     ギャンブラー  藤田 真男     (キネマ旬報1973年3月下旬601号)

 西部劇というより、“山奥もの”とでも呼ぶ方がふさわしい辺境を舞台とした作品が、毎年何本かあるが、最近それらの作品群がとても面白くなってきている。例えば、シドニー・ポラックは「インディアン狩り」から「大いなる勇者」へと著しい進境を示し、ロバート・アルトマンはこの見事な傑作を生んだ。「ギャンブラー」は、淡い澱んだオレンジ色の露と、静かに降りかかる雪や雨につつまれた、朧気で哀しい夢だといえる。
 「明日に向って撃て!」のコンラッド ・ホールでも、「砂漠の流れ者」のルシエン・バラードでもなく、「さすらいのカウボーイ」のヴィルモス・ジグモンドのカメラによってこそ、この苛酷で荒涼とした美しい辺境の自然と、そこに集まった人間たちの生ぎ様死に様を、的確に表現し得たということも、記憶にとめておきたい。殊に最後の、長い決闘のシークエンスでは、画面いっぱい音もなく流れるように降る雪が、まるでカメラに紗をかぶせたように見え、そぢらに目を奪われるほど美しい。その中で、教会の火事を消しとめて萬ぶ町の者たちと、殺し屋に迫われ、相撃ちとなって雪に埋もれて死んでしまうマッケイブの姿が、やる-せないほどの距離をおいて並行に描かれる。そして阿片窟に身を横たえるミセス・ミラーのうつろな瞳のアップと、彼女のみつめる美しい焼き物の、その幻覚的な色彩でこの映画は終っている。
 恐らく彼女は、マッケイブの死を知っても涙など流さないはずだ。ここに流れて来た人間たちの過去が、一切描かれていない点は重要だろう。
 マッケイブの死の前夜、ミセス・ミラーが彼をベッドに迎える(いつもは金を取るのだが……)シーンは素晴らしい。彼女は彼の頭を膝にのせて、やさしく髪を撫でてやれることだけが、この地の果てでの精一杯のやさしさであり、そのようなささやかなことに安らぎを見出せる点こそが、この作品における人間関係の基本となっているのだろう。
  (豊橋市・学生・21歳)


読者の映画評

    ソ ラ リ ス   藤田 真男 (キネマ旬報1973年8月上旬610号)

 レムのSF「ソラリスの陽のもとに」の映画化である。
 海に包まれた惑星ソラリス、海上に浮かぶ調査ステーションに主人公のケルビンが派遣され、そこに起った異変を体験する。ソラリスの海は生きている。そして、ステーションの人間の心の中の最も深い傷跡を、そっくりコピイした実体のある幻として送ってよこす。死んだはずのケルビンの恋人が彼の前に現れる。彼女は自分が何者なのか理解できずに悩む。自殺を計るが、すぐ生き返ってしまう。ケルビンもそんな彼女を見て悩む。しまし本物であろうとコピイであろうと、彼女は彼女なのだ。二人は理解し、愛し合えるようになる。が、突然、彼女は消えてしまう。
 ケルビンは再び地球に帰って来た。と思いきや、ラストでは彼の故郷の家や森はソラリスの海に漂っている。地球の思い出がすべてコピイされ、ケルビンは永遠にソラリスの海にとり残されたのか。しかしまた、その故郷も本物であろうとコピイであろうと・・・・。
 「ソラリス」は地味だが、人間味あふれるSFである。人間の主人公と、人間以下の存在とみられる(ヒューマノイドに似ている)恋人の幻(彼女の自我は白紙の状態である)との、いわば行きずりの愛の物語である。それに似たSFは他に「アルジャーノンに花束を」(映画化名「まごころを君に」)とか「アルファビル」「ラ・ジュテ」がある。ただ映画「ソラリス」の難点は、ひたすら長すぎること(レオーネをしのぐ!)と地球の場面にこだわりすぎたことだ。
 「2001年宇宙の旅」は、モスクワでも好評を博したそうだから、「ソラリス」のラストの幻はその影響だろうか。そのわりにスペクタクルとしてはチャチだ。原作から受けるイメージだと、ジャック・スマイト(「いれずみの男」の雨の惑星のエピソードが、「ソラリス」に近い)あたりに、不可思議なスペクタクルの中にキラリと光る涙のみえる一篇として撮ってもらいたい映画ではある。
   (豊橋市・学生・21歳)


読者の映画評

    ロイ・ビーン  藤田 真男 (キネマ旬報1974年1月下旬623号)

 「明日に向って撃て!」の名トリオ、P・ニューマン+R・レッドフォード+ロイ・ヒル監督が再び組んだ「スティング」の共演者ロバート・ショウが、ニューマンについて次のように語っている。
 「ニューマンっていうのは、どの映画をみてもイメージが非常に一定しているんだ。ジョン・ウェインもそうだね。彼は古い意味での本当の“ムービー・スター”なんだ」「彼はスクリーンの上で、ある確固とした資質をもっているんだ、何だかわからないけど強烈なやつさ。知性とも違うね。ニューマンは確かに知性的だけど」
 ニューマンは常にニューマンだ。いつも変らぬ笑顔。「暴力脱獄」のG・ケネディのセリフを借りれば「あいつはいつも笑ってた」のだ。
 そして茶目っ気とやさしさを失うことがない。「動く標的」で彼が演じたリュゥ・ハーパー探偵のセリフになぞらえれば、ボール・ニューマンといぅ役者は一言でいってしまうなら、<ニュー・タイプのジョン・ウェイン>だ。それが彼だ。
 したがって「ロイ・ビーン」もまた二ューマンの映画に他ならず、J・ヒューストンはたまたまこの映画のフマジメさに適する監督であったにすぎず、これをヒューストン作品とみる必要はない。 「ロイ・ビーン」は、 「わが緑の大地」のスタッフ(M・サラザンも一枚噛んでいる)が、「大いなる勇者」のパロディとして作った映画であり、ヒューストン自ら演ずる“熊男”が「ジョンソンはいい奴だが、山へ入ってからワルくなった」なんてセリフを吐くあたり、思わず吹き出さずにいられない。
 自分の書いたシナリナを更にパロディ化してしまった、ジョン・ミリアスという脚本家(「デリンジャー」で監督となった)は、相当したたかな人らしい。エンターティナーとしても、W・ゴールドマン以来のすぐれた脚本家であろう。
 アメリカ映画は、また新しくなった。
   (豊橋市・学生・21歳)

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キネ旬ニューウェーヴ    『肉体の悪魔』ケン・ラッセル論 藤田真男 (キネマ旬報570号)


日本映画  (邦画)
 

キネ旬ロビイ 

    不良番長・暴走バギー団
    ファン・レター     藤田 真男  (キネマ旬報1971年3月上旬544号)

 拝啓、内藤誠様。全く久しぶりに見た東映作品、それがあなたの「不良番長・暴走バギー団」でした。あなたの作品を見るのは、これが初めてでしたが、この一本でたちまち、あなたの大ファンになり、こんなものを書く始末。そう言えば、ビートルズの大ファンであるあなたも、あくまでもケンキョなミーハーぶりのうかがえる、ファン・レターみたいな「レット・イット・ビー」評を書いておられますね。あなたの作品の主人公たち、カポネ団の連中は、数年前スクリーンの中を、ドタバタ駆け廻っていた、ビートルズのイメージが、その下敷きになっているようですが、東映の作品の中で、そのような感覚を出しきることは、さぞかし難しいことではありましょう。題名にしても、せめて「野良犬ロック・暴走バギー団」 (なんて、よく似たのが日活にありましたが)ぐらいにしなくては、とも思います。しかし、あくまでもカッコワルクというのが、あなたの言われる「かぷき者」の、本当の姿なのかもしれませんね。
 カポネ団の面々のヤリトリなんかほ、まるで撮影の合い間の雑談でも問いてるみたいな軽妙さで、無口でニヒルな日活のフーテンたちとは、対照的です。
 あなたは、『夜は冷たい、心は寒い 渡り鳥かアァよ』といった村芝居のこころを、ビートルズのリズム感で演出できないものでしょうか」(私の次回作)と書かれましたが、梅宮辰夫と菅原文太が再会し、「青いバスにのせられてェー」と歌いながら、殴り合いのマネをするシーンには、そんな感じがチラリと見えましたよ。「男にゃ逃げ出せねェ時があるんだ」なんて、タンカきって殴り込んだ後、パトカーのサイレンを聞くや否や、あわてて海の中へ飛びこみ、ラストはイカダにのって、海原を漂うカッコワルサ。あんまりオカシイから、海からあがった山城新伍が、タバコの煙をフーッと吐くのをみて、カットが変ったとも気付かずに、「アレ?!」などと、本気でオドロキました。
 でも、文太の死に様は、「メガネをかけてくれ」の一言で、深作欣二監督の「誇り高き挑戦」が、コロリとひっくり返されてはいるものの、ちょっとカッコヨク死にすぎたんじゃァ…。ピンク映画界に、この菅原文太によく似た、山本昌平という異色俳優がいまオが、「肉体ハイジャック」という作品の中で彼は、カッコワルク生ぎ残る殺し屋を好演していました。
 ともあれ「暴走バギー団」は、あなたの言う「さかしまの供笑」というやつによって、すべてが転倒する、何ともオカシナケッ作でした。では、また会える日を楽しみに、さようなら。 (豊橋市・学生・18歳)


キネ旬ロビィ
     日活映画の音楽について  藤田 真男    (キネマ旬報1971年4月下旬548号)

 最近の日活作品の音楽を書いている、玉木宏樹という作曲家がいる。彼については、何も知らないが、多分まだ若い人なのだろう。彼が音楽を担当した作品には、新人澤田幸弘の「反逆のメロディー」「女子学園・ヤバい卒業」、藤田敏八の「新宿アウトロー・ぶっ飛ばせ」「野良猫ロック・暴走集団71」、最近デビュ一した加藤彰の「女子学園・おとなの遊び」などがある。オタマジャクシをまるで読めない僕に、こんなこと言う資格はないのだが、僕は例えば、「東京戦争戦後秘話」での、二ュ一・ロックとインド音楽のチャンポンのような、一流作曲家武満徹の音楽よりも、いかにも軽々しい感じの、これら日活諸作品の音楽に親しみを覚えてしまうのである。あと僕が好きなのは、いくつかの若松プロ作品にあった、ニュー・ジャズめいた騒々しい、あるいは倦怠的な音楽である。(ことに、大和屋竺の「犯す」に使われた音楽は、文句なしに傑作だと思う)
 個々の作品について述べよう。「反逆のメロディー」の冒頭。原田芳雄のジープの疾駆に合せ、軽快に叩きつけるような音楽、この作品では、佐藤蛾次郎がオートバイを押しながら、「もずが枯れ木で」と歌い出したり、ギターを爪弾きながらフォークソングをチンピラ達と合唱したり。およそヤクザ映画らしからぬ奇妙な場面があるが、それがとてもナィ一ヴに感じられるから、なお不思議だ。
 「ヤバい卒業」になると、のっけから吉田拓郎の歌う、ぶっきらぼうな調子のフォークソングが、ラジオから流れる。街を歩く夏純子らズベ公クルーブ。黙黙と歩く。それと街の中で歌う吉田拓郎の姿が、力ットバックされ、薫クンみたいに「あーあ」と、タメ息さえつくことを許されぬ、若者達のヤケクソじみた無為感が画面から伝わってくる。澤田幸弘のこのような作風に、批判のムキもあるようだが、僕は彼のエレジ一にも似たナイーヴな感覚を、高く評価したい。多分、僕はダメな若者なのだろう。それは、東映の内藤誠などにも言えることで、「未亡人殺しの帝王」というようなバカバカしい作品に、ギタ一で「五木の子守唄」が流れたり、「マッチ売りの少女」が登場したりする。内藤誠と澤田幸弘は、案外ウマが合いそうな気がする。
 さて、次は藤田敏八の「暴走集団71」だが、この作品には「ヤバい卒業」の吉田拓郎と同様に、全く意味もなく突然「モップス」の連中が登場し、「いいじゃないか」を歌う。モップスは、日本では数少ない本格的なロック・グループだが、彼等を引っぱり出した、藤田敏八はなかなかのセンスを持っている。玉木宏樹の音楽も、この作品のが一番いい。いかにも陽気で、軽快なトランペット。ソフト・ロックといったところか。藤田敏八の演出は、澤田幸弘よりも明るい倦怠感が漂い、軽薄を装っているが、今のところ澤田の方が、若者の心情を描くのに成功していると思われる。藤田敏八は、つりたくにこの漫画なんかを読むといいだろう。彼女の漫画を、映画に出来る監督は、多分藤田敏八だけだろう。彼が、つりたくにこの地点に、一歩でも近付けば、その時、思いきり軽薄な、黙示録的作品が生まれるにちがいない。
 最後に、加藤彰の「おとなの遊び」だが、これは「暴走集団71」とよく似た音楽を使っている。また吉田拓郎の曲も何度か聞かれる。が、「ヤバい卒業」のように、痛々しいようなナィーヴさは欠けている。加藤監督は、もっと言いたいことを言うべきだった。
  (豊橋市・学生・19歳)


キネ旬ニュー・ウエーブ

    爆発せよ映画監督大和屋竺     藤田 真男
      (キネマ旬報 1971年7月上旬555号)  傍点付きは赤字で

 一年前薄汚ない地下のピンク映画館で初めて大和屋竺の「犯す」を観た時の驚きは、今も忘れられない。
 大和屋竺。一九三七年生。日活の助監督の頃、東南アジアを放浪。帰国後、若松プロに参加。六六年「裏切りの季節」でデビュー。以後、「荒野のダッチワイフ」「犯す」などを監督したが、三年前の「毛の生えた拳銃」以来、一本も監督作を持たず、もっぱら脚本の方に回っている。脚本には「金瓶梅」「処女ゲバゲバ」「野良猫ロック・セックスハンター」「濡れ牡丹・五悪人暴行篇」「マル秘・湯の町・夜のひとで」など。こう並べてみると、どれもこれも芸術家気どりのアルチザンたちに対し、悪意をむき出しにしたような題名ばかりだ。しかし、みそこなってはいけない。これらはみな、ルイス・ブニュエルの「忘れられた人々」が日本で公開された時、そうであったように、場末のいかがわしい劇場を、あっちへ行ったりこっちへ来たりという不運にあるが、これらの作品こそ、「忘れられた映画」に他ならないのである。
 中でも、「処女ゲバゲバ」は、大和屋自身が、これ以上のヤクザ映画は書けないというほどの傑作である。もちろん、「処女ゲバゲバ」がヤクザ映画であるというのは、ゴダールの「アルファビル」が、ムルナウの「ノスフェラトゥ」にヒントを得た吸血鬼映画であるというのと同じ意味においてである。
 「処女ゲバゲバ」の方は、フレイザーの民族誌「金枝篇」にヒントを得ている。
 「暴力装置にからめとられた底辺が権力の頂点に行きあうと、恐怖が起こる。タブーにまつわる神話のたぐい、例えば撲殺される神には、権力の構造の幻想性に関する面白い示叡がある。我々はこれを映画的に受けつぐ。いま、神は全能を誇示しようとして、敢えて撲殺の道具、金枝・バットに、横腹をこすりつけていると思われる」
 右の文は「処女ゲバゲバ」の製作意図であるが、これは大和屋竺のライト・モチーフといえるかもしれないと思い、長く引用した。しかし、これが世間からはピンク映画と呼ばれ、大和屋がヤクザ映画だという作品の正体かと思うと、何とも痛快な気分である。
 「犯す」は、大和屋も高く評価している沢田幸弘の「反逆のメロディー」を、鈴木清順が撮ったといえるような傑作で、「処女ゲバゲバ」の原型とも言うべき作品である。
 大和屋竺は、常に「底辺」からの、即ち、ハーフ、私生児、チンピラ(そして大和屋自身9たちの果敢な反逆を描く。
 「裏切りの季節」は、深作欣二の「誇り高き挑戦」の、エネルギッシュなゴッタ煮スタイルを受け継ぎつつも、、主人公の新聞記者は鶴田浩二のように誇り高くはなくて、大和屋の主眼は、一人の混血児に「俺等パンパンの親戚は歌うんだ。歌いながら増えていくんだ。どんどんさ。」と、不器用に”反逆のメロディー”を歌わせることにあった。「まさに大人たちは音オンチ、子供たちは詩オンチなのだ」「歌は、変声期に歌われるべき歌は、どこにもない」と、大和屋は書いている。
 しかし、音オンチを承知で歌おうとする、大和屋竺、沢田幸弘らのような大人たちもいる。そして、それに呼応して詩オンチの「忘れられた人々」つまりハーフ、非行少年たちが歌い出す。
 僕らはいま、変声期にある日本映画を見ている。そしてスクリーンの向こうからかすかに聞こえてくる、新しい時代の歌を耳にしている。
 大気中にちらばれば安全でも、ひとたび集中すればガスは爆発の危険を生む。スクリーンは世界を開く扉であり、大和屋は「底辺」に澱んだガスをかき集め、今まさに、拳銃の引き金を引いて点火せんばかりだ。爆発とともに、僕らは扉の向こう側に吹き飛ばされてその新しい世界に響き渡る、オンチの大合唱を耳にすることだろう。
 (やまとや・あつし  映画監督) さあ、この辺で世紀の傑作を撮ってもらおう。

  (豊橋市・学生・19歳)

【池田註】この「犯す!」は「処女ゲバゲバ」という作品の別題である。


キネ旬ロビイ     流血の抗争
    長谷部安春督督のスラ ンプ脱出作品     藤田 真男
        (キネマ旬報 1971年8月下旬558号)

 冬のフロリダは、米国各地から集まった浮浪者たちの避寒地となる。ニューョークを追い出されたジョーとラッツォは、フロリダヘ向うが、途中、バスの中でラッツォは息絶えてしまう。
 「流血の抗争」を見終って、ジョーは今頃どこでどうしているだろうかと、気になってぎた。ジョー・バックならぬ、ジョー・シシドの運転する車の申で、傷ついた藤竜也は、ネズミのように小さくなって、寒さに震えながら「小さい頃から、暖けえ所が……」と話す。彼も、殴り込む前に、ラッツォのように死んで行くのか、或いほ「恐怖の報酬」のラストのように、二人は転落死かと思ったら、よろけながらも、めざす悪玉の所にたどり着く。悪玉の帰りを待つ二人は、ブッチとサンダンスである。全体のヤクザ・ホームドラマ仕立てと、様式化された(?)祭壇の前で、悪玉を刺し殺すクラいマックスは、「博突打ち・いのち札」の影響か。こう書くと、評判の良かった映画をつなぎ合わせた作品みたいだが、藤竜也の亡ぎ骸を乗せて、フラフラ走ってぎた宍戸の車が、道路の真中で停まり、早朝の街にクラクションが饗ぎ渡る印象的なラスト・シーンは、「野良猫ロック・セックスハンター」を除けば、最近不調の長谷部作品の中では、最高かと思う。
 とはいえ、前半の沖雅也、梶芽衣子らの描ぎ方が、どうもいいかげんで、ずいぶん遠廻りしてラストにたどり着いた、という感じだ。この作品に限らず、日活のヤクザ映画には、沖雅也がいつも単純な、未熟な、欲求不満の青年として登場するので、僕はうンザリだ。むしろ漫画でいいから、「反逆のメロデい」の佐藤蛾次郎のように。梶にしても、小料理屋のおかみでは、もう「バーヤロォ!」とどなれないではないか。泣いて別れるのなら、やはり「反逆のメロデい」の時のように。
 全く、この作品、沢田幸弘に撮らせたかったなあ。(豊橋市・学生・19歳)


読者の映画評

    女の意地  藤田 真男  (キネマ旬報1971年8月下旬558号)

 この映画をみて、僕は、公衆電話器のその鮮やかな赤さに感動したとでも言うしかない。タイトルの、ネオン輝く夜の銀座上空を旋回しながら撮ったシーンなんかも日本映画ばなれしているし、全篇これ実にカラフルで、巧みなスケッチといえるよぅな作品である。
女の意地  斉藤光正監督の前作「三人の女・夜の蝶」も、目を細めたくなるような、やたらキレイなタ焼けの中を、マキシの裾をひるがえしながら歩く梶芽衣子とか、ラストの、ブランデー・グラスの中で笑っている松原智恵子とか 実に巧みなカメラ・ワーク、細部にまで気の配られた演出技術の見事さが、印象的だった。いや、むしろテクニックの非凡さだけが目につく作品だった。「斜陽のおもかげ」以来、四年ぶりの力ムバックだという斉藤監督は、これまでTVのコマーシャル・フィルムばかり撮ってたんじゃないだろうか、などと思えてくる。
 そもそも、松原智恵子などというマズイ女優を、なぜ起用したのか。両の眼をピカーッと光らせた、少女マンガのヒロインみたいな松原が、殿山泰司に犯されそうになると、 「おかあさーん」と叫んで、メソメソ泣き出すシーンの拙劣さは、お味噌のCM以下だ! それともこれは、斉藤監督の逆説なのか。哀れな夜の蝶は、哀れな女優松原智恵子に他ならないとでもいうのか。だからこそ、彼女に「あ…ナカハラ・ナカヤ(中原中也)?」などと言わせたのだろうか。
 「三人の女」「女の意地」は、増村保造の「でんきくらげ」「しびれくらげ」の大げさなセリフ廻し、必要以上の身ぶり手ぶりにみられるようなダイナミズムとは、およそかけ離れた地点で作られている。テクニシャンで悪いとは言わない、カラフルで結構、アルチザンでいいのだ。松原智恵子でも構わない。大いにシラケルべし。とにかく、増村のまさに逆方向へでもいいから、いいかげんにお茶を濁さずに、突っ走ってくれ。
(豊橋市・学生,19歳)
キネ旬ロビイ

     僕のなかにもとりついた彼ら  藤田 真男   (キネマ旬報1971年11月下旬566号)

 日活の製作縮小にともなういろんな影響のなかでも、僕にとって、もっとも気がかりなことは、今後の日本映画界から、いわゆる非行ものという作品がほとんど姿を消すであろうということです。非行映画ぱかり撮り続げてきたパキさんの「八月の濡れた砂」が、最後の日活映画のみならず、最後の非行映画になるなんて、そんな力ッココイイ玉砕は、絶対に許せないのだ!
 非行少年少女たちの登場する古今東西の映画には、スゴイ監督のスゴイ作品が少なくない。「忘れられた人々」 「灰とダイヤモンド」「ウェスト・サイド物語」「理由なぎ反抗」 「明日なき十代」「若者のすべて」等々。邦画にもあるある。「青春残酷物語」「不良少年」「非行少年」「非行少女」「陽の出の叫び」「日本春歌考」「非行少年・若者の砦」等々。「イージー・ライダー」「お前と俺」「地獄の天使」などゴマンとあるオートバイ映画も入れていいだろうし、ちょっと変ったところでは、「けんかえれじい」「高校さすらい派」「男一匹ガキ大将」「ifもしも…」などの学園ものもゴマンとあるだろう。「野良猫ロック」のような非行シリーズも、今に始まったものではないだろぅし、若松プロの「新宿マッド」「毛の生えた拳銃」はじめ、ピンク映画の中にも、すぐれた非行映画は多いと思う。
 その昔、ヵンヌ・グランプリまでとったブニュェルの「忘れられた人々」が、日本では全く無視され、題名も「十代の暴力」などと変えられて、場末の劇場へ追いやられたという。今でも非行映画に対する、このよぅな扱いほ変っていないはずだ。忘れられるのが非行映画の運命だとしても、僕にはどぅしても忘れ難いものばかりだ。
そこで、せめてキネ句で非行映画特集号でも出してくれないだろうか。任侠映画全集、寅さん、藤純子特集もけっこうだが、こんなのが一冊まぎれこんでもいいと思うが。
 特集号には、僕がひそかに「イーストサイド・ストーリィ」と呼んで(ゴダールのイースタン「東風」にひっかけたつもり)偏愛する「野良猫ロック・セックスハンター」に出ている、僕の大好きな梶芽衣子チャンのカラー・ポスターの付録をつけるべし!
 (豊橋市・19歳)

読者の映画評

    ポルノの帝王  藤田 真男 (キネマ旬報1972年5月上旬578号)

 たとえば、数年後あるいは十年後、池袋文芸坐がオールナイト5本立をしつこく続けていたとする。そして内藤誠全作品の上映なんてのをやったとする。プログラムには「ここに集めた××本の作品の上映は、いつも封切看板の左側の写真を撮り続けた内藤さんへの、ささやかな贈り物」とかなんとか書かれていることが想像される。いざ開映となると、タイトルに内藤誠と山城新伍の名が出る度に大きな拍手が起こるにちがいないのだ。
 とまァ、こんな想像は今のところ全く夢でしかないのだが、それにしても、鈴木清順の作品に野呂圭介がつきもののように、内藤作品には山城新伍という役者の存在は欠かせないものとなっているのは事実である。僕は「不良番長」の初期の作品は知らないのだが、友人の言によれば、このシリーズに於て山城新伍を強く押し出したのは、野田幸男ではなく内藤誠の功績だということだ。
 しかし、分裂したビートルズがちっとも面白くないのと同様に、「不良番長」のカポネ団のうちの梅宮=山城コンビだけによる「帝王」シリーズは、正直言って内藤誠の体質に合わなかった。が、この「ポルノの帝王」は植田峻が加わったこともあって、内藤誠の面目躍如たる傑作となった。まるで「河内カルメン・九州男児版」みたいだ。冒頭の夢のシーンは、「不良番長・手八丁口八丁」の忠治芝居のシーンと好一対となる。これまでの内藤誠だとこういう清順のマネみたいなことをすると、どうしてもアナクロ気味の田舎芝居になってしまったのだが、「手八丁口八丁」以来、かなり洗練されてきた。スタイルが問題なのではない。とはいうものの、こんな作家が常に一人ぐらいいなきゃ、プログラム・ピクチュアは面白くないのだ。
 内藤誠=梅宮、山城が、ロベール・アンリコ=リノ・バンチュラぐらいに老けこめば、その時こそ素晴らしい不良中年映画が出来るものと、僕は信じている。
(豊橋市・学生・20歳)

読者の映画評

   らしゃめんお万 彼岸花は散った  藤田 真男   (キネマ旬報1972年7月下旬583号)

 当初の日活ロマン・ポルノにあったとまどいとうしろめたさ以上のヤケクソじみた熱気と爽快さ、それは作品の出来に関らず何かの出現を獏と期待したぼくらの側にしかなかったものとは思えない……は、たちまち雲散解消。四畳半独立ピンクと2DKロマン・ポルノの<差>を何と勘違いしたか、西村昭五郎は木下恵介なみのアホらしいホームドラマに専念している。こんなものを三本立てで量産していては、「最後のロマン・ポルノ」のクランク・アップは予想以上に早くなるだろう。
 乞御期待、藤田敏八の「八月はエロスの匂い」はさておき、この悪しき状況を逆手にとることに最もよく成功した狂い咲きは、またしても死臭に敏感な大和屋竺が、俳優としてライターとして介入した「らしゃめんお万」二作ではあるまいか。もちろん、鈴木清順門下の曽根中生監督と、桜田門通いにもめげずにがんばっている岡田裕プロデューサーの力も無視はできない。おそらく日活ロマン・ポルノ数ある中で、正しくシリーズ番組といえる唯一の作品である。ということは、これは典型的プログラム・ピクチュアのあの手つきだ。<主題歌>の入れ方など実に巧みである。昭和初期、なぜか突如現わる野良猫ロック風ズベ公たち。バック音楽はウェスト・サイド物語風に。そして、またしてもハーフ。しかも金髪の女やくざ。考えてもみるがいい。大日本帝国の刑務所で三年の刑期を終えた金髪の女やくざなどという世にも奇っ怪な話は、碧眼のインディアン以上の驚きだ。
 シチュエーションは「野良猫ロック・セックスハンター」と同じく、はじめて「姉さん」と呼んで死んでいくお万の妹。その後、壺振りの半次とルーティン通りの殴り込み。これがまた奇妙だ。半次は盲目であり、白鞘の長ドス数本を片手にかかえ、一本また一本、抜き放っては確実に殺してゆく。更に、坊主頭にタキシードの前野霜一郎が、麿赤児や大久保鷹に及ぶべくもないが、悪役でがんばっている。
(豊橋市・学生・20歳)

読者の映画評

    日本暴力団殺しの盃    藤田 真男 (キネマ旬報1972年11月上旬590号)

 虚構と現実を隔てる薄皮一杖がふるえ出し、スクリーンのこちら側の暗闇をさえもビリビリ震憾させた「血桜三兄弟」のような、初めっから東映やくざ映画の軌道を外れている傑作は別としても、最近の東映作品は、ルーティンにのっとりつつも、確実に変質してきているようだ。
 小沢啓一らのサッバツとした暴力映画群の後に現われた、ういういしさとやさしさとしたたかさを備えた沢田幸弘の作品が、あらゆるやくざ映画のパターンを突破したように、東映やくざも、欄熟しきったパターンが徐々に崩壊し始め、その過渡期に例えば内藤誠のケッ作が現われ、今ようやく東映作品全体が方向転換を始めようとしているかにみえる。
 降旗康男の「殺しの盃」は、音楽ひとつとってみても全く東映離れしていて、ラストの道行は長谷部の「流血の抗争」を思わせる。沢田作品をガサツに焼直したような「博徒斬り込み隊」の、さァみてくれ!と言わんぱかりのストップ・モーションは「殺しの盃」からみれば、実に白々しいのだ。
 火を吹く銃口のアップで始まり、ライフルを幡えた鶴田浩二のロングで終る鮮やかさ。鶴田が金バッジを返してからラストヘ至るまでの、工藤明子との道行の展胴の見事さ。ホントに泣けてしまう。ラストはカメラがグッとひいて、ストップ・モーションで決まるのだが、心情的には、カメラがひくのではなく、ライフルの反助で、鶴田がフッ飛ぶかにみえる。
 この一瞬、この距離は、鶴田と救急車で運び去られて行く工藤明子との、男と女との、単なる別れをはるかに越え、限りなく遠い。
 このストップ・モーションの次の場面が、もしあったとすれば、完全なアウトローと化した鶴田は、一体どこへ運ばれて行くのだろぅか。それは、今後の東映やくざ映画の進む方向ともオーバー・ラップしている仁ちがいない。
(豊橋市・学生・20歳)

読者の映画評

     女囚さそり 第41雑居房   藤田 真男    (キネマ旬報1973年3月上旬600号)

 近来にない傑作、いや欠作だ。映画をみながらこれほど不愉快になったのは、中平康の「チミモーリョー」以来のことである。
 「さそり」第一作を、一時はべスト・テンに入る作品かと思ったりした僕は、とんでもないアヤマチを犯していた。ここで、そのオトシマエを着け、以後、伊藤俊也の作品はなるべくみないことにするのだ。
 佐藤純弥の作品は、しばしばシラケこそすれ、思い上がったいやらしさはない。しかし、伊藤俊也の作品(および彼自身の饒舌)には、実に不愉快な思いあがりがある。
 前作で、三原葉子が鬼婆にへンシンする漫画みたいなシーンがあって、ありゃ、ジョーダンかと思ったら、今度の新作をみると、どうも伊藤俊也は本気らしく、アノ手コノ手と大いに芝居がかった演出に終始し、それが逆に彼の無能ぶりをさらけ出し、この作品が単なるコケオドシ以外の何物でもないことを裏書きしている。
 伊藤俊也としては、通俗的エンタティンメントの中に、いまのこの「状況」をアナロジーし、それに対置するある種の「怨念」の具象としての「魔女」たる梶芽衣子に、その「状況」とやらを撃たせたつもりかもしれないが、それは全く成功していない。
 「さそり」には、「暴力脱獄」のクール・ハンド・ルークや「処女ゲバゲバ」の星にみられた、神話的なまでにナイーヴで原初的な、反抗の原形質は、カケラもない。
 たとえば、渡辺文雄が切り裂かれるシーンは、「春婦伝」のそれとは比べようもなく薄っぺらだ。まさにこの作品は、ペラペラの劇画週刊誌そのものであり、ヘタクソなカッティングは、劇画のコマ割りよりも矮小化し、見苦しいことこの上ない。
 ラストは、女囚全員が街を駆けて行く。こりゃ、第三作は刑務所対坑マラソン大会のオハナシだったりして、そのためのトレーニングだろうね、きっと。アラン・シリトーの長距離ランナーは、もっとリラックスしてるけどね。
 (豊橋市・学生・21歳)
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キネ旬ニューウェーヴ  『野良猫ロック・セックスハンター』の論理と構造  藤田真男 (キネマ旬報 543号 1971年2月下旬号)
キネ旬ニューウェーヴ  『無常』に描かれた生と死の問題  藤田真男 (キネマ旬報535号) 




 藤田 真男が1974年以降に書いた 映画短評   (編集・池田博明)

   すべてを網羅できていません。
   なにせ映画雑誌を収集していないもので。
   少しずつ拾っていきます。
   出典はキネマ旬報やイメージフォーラム
   『珍作ビデオのたのしみ』(1989年,青弓社)


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      BACK TO 日曜日にはTVを消せプログラム 



外国映画  (洋画)



       ヒズ・ガール・フライデー   アメリカ  1940年  藤田真男

 これは傑作中の傑作、珍品中の珍品、ゴマンと出ているビデオの中でも文字通り“幻のビデオ”といえる作品だ。日本では最近ごく小規模に上映されただけで、ほとんど未公開に近い。おまけにビデオの発売元がつぶれてしまったらしい、と書いたところで、他のメーカー(大陸書房)から1989年1月に再発売されることが決まった。しかも、たったの2200円という低価格だ。万歳!
 後にビリー・ワイルダーもリメイクした戯曲の映画化だが、この旧作のほうがモダンなのだから驚く。マドンナの「フーズ・ザット¥ガール」やスピルバーグの「1941」と同様、クレイジーな連中がトンチンカンなやりとりを展開する“スクリューボール・コメディ”の最高傑作だ。スクープのためなら殺人以外のどんなことでもやってのける新聞記者、アナーキストの脱獄犯、無責任きわまりない警察署長、市長らがまきおこす爆笑の連鎖反応。機関銃の弾丸のように飛び交うセリフの十字砲火(世界一セリフの多い映画だそうだ)、脱線したジェットコースターさながら、すさまじいスピードで突っ走る画面から火花がほとばしる。コメディの頂点がおここにある。

   監督・製作 ハワード・ホークス  脚本 チャールズ・レデラー  
   原作 ベン・ヘクト、チャールズ・マッカーサー(舞台劇「フロント・ページ」より)
   出演 ケーリー・グラント、ロザリンド・ラッセル

『珍作ビデオのたのしみ』より   【DVDあり】

        ラヴ・ハッピー   アメリカ  1949年   藤田真男

Love Happy  マルクス兄弟の映画の中でも一番つまらない作品である、と断言する評論家が多いらしい。どうしてそんなことをいうのか、全く不可解だ。古い映画の評価というのは、傑作にしろ駄作にしろ一度評価が定まると、それが動かし難い事実になってしまうことがあるようだ。だから評論家のいうことをあまり信じてはいけない。この「ラヴ・ハッピー」も僕にとっては、傑作といわれる「オペラは踊る」なんかよりよっぽど現代的で面白い映画だった。といっても、僕にはグルーチョ・マルクスの早口英語のギャグが全く分からないせいもあって、彼の出番がほとんどないこの作品のほうが面白く見えるのかもしれない。いずれにしても僕はハーポ・マルクスの漫画チックな視覚的ギャグのほうが好きなのだ。この作品はハーポの原案、主演で、彼の多芸多才ぶりが大いに楽しめる。
 ドラエもんのポケットみたいに何でも出てくるハーポのコート、電話を通しての読唇術、口がきけないのでいくら拷問されてもダオヤのありかを白状しないギャグ、ハーポが奏でるハープの美しいメロディー・・・これがつまらないというのは一体どんなつまらない人間なんだろう?

    監督 デビッド・ミラー   製作 メアリー・ピックフォード、レスター・コー^ワン
    出演  ハーポ、チコ&グルーチョ・マルクス、ベラ・エレン、
         マリリン・モンロー、レイモンド・バー  

『珍作ビデオのたのしみ』より  【DVDあり】

         ポパイ   アメリカ 1980年  藤田真男

 誰もが知っているコミック・ヒーローの映画化だが、アメリカでの評価は最低、アルトマン信者の多い日本でも見事に無視された(しかもカットされての公開だった。ビデオもカット版だ)。
 しかしこれは漫画を人間がフツウに演じただけの子供向けミュージカルなどではない。僕にとってがロバート・アルトマン監督のベスト・スリーび入る怪作、傑作だ。役者たちが漫画そっくりのメイクで怪演すれば、彼らの住む町(大オープンセットが壮観!)も、たちまちシュールな異次元空間と化す。これはまさに日常を超越したサーカスそのもの。すべては荒唐無稽にゆがみ、変容しつづける。針金のようなオリーブの体、丸太のようなポパイの腕は完璧なリアリティを備え、彼らはもはや漫画でも人間でもない。特に凄いのは赤ん坊のスウィーピーだ。彼は顔面がゆがんでいるのだ! この人間ばなれした可愛い赤ん坊は、何とアルトマンの孫で、顔のゆがみは一時的な小児病だそうだ。ニルソンの懐かしい歌声にも心がなごむ。テープだと意外にフツウの画面に見えてしますので、できれば画質がよくてノーカットの輸入盤LDで見るほうがいい。

     監督 ロバート・アルトマン   脚本 ジュールズ・ファイファー 
     撮影 ジョゼッペ・ロトウンノ  音楽 ハリー・ニルソン
     出演 ロビン・ウィリアムス、シェリー。デュボール、ポール・ドゥーリー

『珍作ビデオのたのしみ』より  【中古VHS】

        マペットめざせブロードウェイ!  アメリカ 1984年  藤田真男

 人間以上に表情豊かな人形(マペット)と驚異的な特撮を駆使したミュージカル・コメデイの大傑作!
 「セサミ・ストリート」の生みの親ジム・ヘンソンと「スター・ウォーズ/帝国の逆襲」でヨーダを動かしたフランク・オズがコンビを組み、TVやSFではできないハイブロウで楽しい作品に仕上げている。「マペット」シリーズは三本あって、第一作「マペット・ムービー」(日本版LDは絶版)は「雨に唄えば」のような映画作りの過程を描いた作品。オーソン・ウェルズ、メル・ブルックス、スティーヴ・マーティンら、信じられないほどの豪華ゲストが出演。第二作(未発売)はエスター・ウィリアムズの水中ミュージカル「百万弗の人魚」のパロディをまじえた犯罪コメディ。これもあっけにとられる。そして第三作が「めざせブロードウェイ!」だ。これはミュージカルのバックステージもので、「踊る大紐育」のようにニューヨーク・ロケを敢行。人間にまじって街の中を右往左往する人形たちの名演技は、どんなコメディアンもかなわない。ゲストはライザ・ミネリ、ブルック・シールズ他、三作とも未公開だが、古き良きMGMミュージカル・ファンなら必見!
 
     監督・人形操演 フランク・オズ  製作総指揮・人形操演 ジム・ヘンソン
     脚本 フランク・オズ、トム・バチェット、ジェイ・ターセス 
     出演 グレゴリー・ハインズ、ニューヨーク市長

『珍作ビデオのたのしみ』より  【中古VHS】

         スパイナルタップ     アメリカ  1984年  藤田真男

 「ザ・ラットルズ」と同じく架空のロックバンドを追いかけたパロディ・ドキュメンタリーなのだが、あちらがビートルスのパロディであったのに対し、こちらは初めから存在しないバンドを、さも実在するかのようにデッチ上げている点が違っている。だからもっと面白いのかというと、そうでもない。この映画が面白いのは、ロブ・ライナー監督自身が、ドキュメンタリーの監督として(変名というか役名で)出演している点にある。ライナーのファンなら必見の珍品。
 ロブ・ライナーは青春映画「スタンド・バイ・ミー」で一躍有名になった若手監督だが、本来はコメディ畑の人なのだ。「或る夜の出来事」をリメイクした「シュア・シング」という傑作もある。そのコメディ・センスは父親ゆずりのもので、父子共作もあるそうだ。父親とは知る人ぞ知るカール・ライナー(「四つ数えろ」)監督のこと。ロブ・ライナーが落ち目のバンド“スパイナルタップ”に同行取材する。今では父親そっくりのハゲ頭だが、この頃は長髪! 旅から旅へのドサ回りバンドが流れ流れて日本へ。なぜか神戸公演でバカウケというオチもおもろい。

     監督 ロブ・ライナー  脚本・音楽・主演 マイケル・マッキーン、
     クリストファー・ゲスト、ハリー・シアラー、ロブ・ライナー

『珍作ビデオのたのしみ』より

         ザ・グレート・ファイター   アメリカ  1984年  藤田真男

 この映画の監督は日本では全く無名。劇場公開された作品はわずか一、二本。ビデオではやたらに出ているのだが、ほとんどはTVムービーだ。だからもうちょっと予算があれば、もっと面白くなるのになあという作品ばかりだ。金はないけど、キャリアと才能では負けない、ということを照明してみせたのが「ザ・グレート・ファイター」である。これも監督の出身地カナダで撮影されたTVムービーなのだが、今どきこんな面白い西部劇には劇場ではお目にかかれない。
 サム・ペキナp−作品の常連だったジェームズ・コバーンが出演していることからも、明らかにペキンパー西部劇を意識し、オマージュを捧げていることが分かる。老いぼれガンマンと酔いどれ保安官の宿命の対決(原題は「銃を抜け!」という意味)、というパターンをさわやかな笑いでひっくり返してみせる手腕はお見事! しかも単なるパロディではなく、一人の少年の純真な目を通して、時代遅れのポンコツたちを本物のヒ−ローとして蘇らせるのだ。少年と一緒に拍手を送りたくなる心憎いラスト。それにしてもカナダには優秀な映画人が埋もれているものだ。

     監督 スティーブン・H・スターン   脚本 スタンリー・マン
     出演 カーク・ダグラス、ジェームズ・コバーン、
          アレクサンドラ・バスティド、グレアム・ジャービス

『珍作ビデオの「たのしみ』より

         赤い靴をはいた男の子   アメリカ  1985年  藤田真男

赤い靴をはいた男の子  トム・ハンクス主演のコメデキは実に多い。よくまあ、こんなに仕事ができるものだ。公開されない作品も多いところをみると、いまひとつ決定打に欠けるようだ。だがこの作品は未公開ながら凡打にあらず、芸達者な共演陣にも助けられて、巻き込まれ型スパイ・コメディの快作となった。
 フランス映画「ノッポで金髪で片方だけ黒い靴をはいている男」のリメイクである。題名の男の子(子供ではないのだが)に扮するのがトム・ハンクス。彼はバイオリン奏者。友人のティナpニ奏者(ジョン・ベルーシの実弟ジムが好演)のイタズラで、片方だけ赤い靴をはいて空港に到着。このヘンな男を尾行、美女を接近させる。オリジナル版のミレーユ・ダルクと同じく、背中がぱっくり開いたドレス(その昔、中村晃子もマネしてた)を着たロリ・シンガーが、やたらに色っぽい。誤解が誤解を生んで「ファール・プレイ」みたいな追っかけになるのだが、「ファール・プレイ」よりもはるかにスマートでメリハリがきいている。題名からは想像もつかない楽しさだ。

     監督 スタン・ドラゴティ  原作 イヴ・ロベール、フランシス・ベベール
     出演 トム・ハンクス、ジム・ベルーシ、ロリ・シンガー、チャールズ・ダーニング、
         ダブニー・コールマン

『珍作ビデオのたのしみ』より   【DVDあり】

         ビッグ・トラブル   アメリカ  1985年  藤田真男

 「殺人者たち」「グロリア」などでコワモテの性格俳優、監督として知られるジョン・カサベテスが、こんなに軽くて明るい犯罪コメディを撮ったというところが、何よりも驚きだ。人は見かけによらないものだ。この映画の登場人物たちもそうだ。完全犯罪を計画実行するくせに、全員どこか間が抜けていて、結局、本当の悪人は一人もいない。誰も傷つかず、誰も死なない。
 アラン・アーキン扮する主人公はマジメだけが取り得の保険セールスマン。音楽家志望の三つ子の息子たちが、そろって名門エール大学のの入試に合格する。ところがアーキンはちっとも嬉しくない。何度計算してみても学費が足りないのだ。同じエール大出身の社長に相談するが、社長室の大金庫の中には金製品がうなっているくせにビタ一文出そうとしない。そこへ死期の迫った冒険家(実はサギ師)の妻が、夫を事故死と見せかけて保険金をだまし取ろうという計画を持ちかけてくる。
 ストーリーは二転、三転し、軽やかなクラシック音楽に乗せてアレヨアレヨと意外な方向へ転がっていく。各キャラクターの魅力がイマイチだが、気持ちよく笑ってだまされる小品だ。

     監督 ジョン・カサベテス  脚本 ウォーレン・ボーグル  音楽 ビル・コンティ
     出演 アラン・アーキン、ピーター・フォーク、チャールズ・ダーニング、
         ロバート・スタック、ベバリー・ダンジェロ

『珍作ビデオのたのしみ』より

         ヘブンリー・キッド  アメリカ 1985年  藤田真男

 イギリス映画の傑作ファンタジー「天国への階段」を小粒にしたような青春コメディだ。大傑作ではないが、最後まであきずに楽しませてくれる。
 「理由なき反抗:の六〇年代。自動車レースで死んだ不良少年の幽霊が、天国行きの切符を手に入れるために地上へ舞い戻る。天国へ行けない幽霊は地下鉄に乗って永遠にさまよい続けるのだ。地上では二十数年の時が流れ、町の様子も一変していて、カルチャー・ショックを受ける。不良のたまり場は今やゲイバーになっている。このへんは「バック・トゥ・ザ・フューチャー」みたいに笑わせる。天国行きの条件は一人のひ弱な少年を見守り自信を持たせること。幽霊の姿は誰にも見えないのでチグハグな騒動が起こる。このへんは「天国から来たチャンピオン」ですな。幽霊の行動を監視する天使に扮したリチャード・マリガン(「小さな巨人」のカスター将軍やYVコメディ「ソープ」のオヤジを演じた迷優)が、酸いも甘いも噛分けたようないい味を出している。天使がバイクに乗っているのもおかしい。ラストはエスカレーターで昇天。あと味もさわやか。

     監督・脚本 ケーリー・メドウェイ  共同脚本 マーティン・コープランド
     出演 ルイス・スミス、ジェイソン・ゲドリック、リチャード・マリガン、マーク・メトカーフ

『珍作ビデオのたのしみ』より


         007カジノロワイヤル   アメリカ  1987年  藤田真男

 007のデビュー小説を映画化したパロディ超大作だ。映画化ではショーン・コネリー主演「ドクター・ノオ」に先を越されてしまったが、コネリー版をはるかにしのぐ制作費を投じた豪華ケンラン、荒唐無稽、奇想天外、支離滅裂なパロディ版として完成されたのがこの作品である。
 引退した本家本元ジェームズ・ボンド(いまや貴族として優雅に暮らしている)が、米英仏ソ各国情報部の依頼でカムバック・世界征服を企らむ犯罪組織の目をくらましために、男女五人の新ボンドも登場。敵の首領ドクター・ノアは、各国首脳を替え玉ロボットとすり替えたうえ、自分より背の高い男を抹殺し、世界中の美女を独占しようと計画中。このチビ、ハゲ、メガネのコンプレックスのかたまりを演じるのがウディ・アレン。当時のアレンは、このように分相応の役をやっていたのだ。手品の妙技を披露する怪優オーソン・ウェルズはじめ豪華なゲストと美女の群れが大挙出演。
 画質の良さはピカイチのRCAビデオなのに、この作品に鍵って画面が古ぼけているのは残念。この映画のばかばかしいほどの豪華さは、大スクリーンで見てこそ面白いようだ。

      監督 ジョン・ヒューストンほか  原作 イアン・フレミング  
      撮影 ニコラス・ローグほか  音楽 バート・バカラック
      出演 デビッド・ニーヴン、ピーター・セラーズ、アーシュラ・アンドレス

『珍作ビデオのたのしみ』より 【DVDあり】

         ミニミニ大作戦   イギリス   1969年  藤田真男

 人を食った映画だ。、アフィアの本場イタリアへ乗り込んだイギリスの大泥棒たちが、輸送中の金塊強奪を計画。犯罪者の意地をかけたマフィアと国家の威信を賭けたイタリア警察の脅迫、妨害、追跡を尻目に、まんまと金塊をかっぱらう。イギリス人の知能と大胆さには、所詮イタリア人ごときがかなうはずもない、というイタリア人をコケにしまくった国辱映画なのに、大掛かりなロケにも全面協力しているのだから、まったく節操も貞操もない国民には困ったもんだ。
 計画の首謀者は服役中の犯罪王。この老紳士は囚人や看守たちの絶大な尊敬を集める謎の人物で、独房には女王陛下のピンナップをベタベタ貼っている愛国者。彼のところに出所したばかりの泥棒が力を借りに来る。犯罪王はポンド危機を救うために(?)イタリアの金塊を奪う計画を指揮する。こうして犯罪のプロがイタリアに乗り込むのだが、彼らも愛国的な泥棒さんたちで、逃走用のミニクーパーは英国旗と同じ赤・白・青の三台。これがイタリア車を煙に巻いてビルの屋根、フィアット社のテスト・コース、階段、下水道とトリックなしで走りまわるのだからケッサク。

      監督 ピーター・コリンソン  脚本 トロイ・ケネディ・マーティン
      音楽 クインシー・ジョーンズ  出演 マイケル・ケイン、ノエル・カワード、
       ラフ・バローネ、ロッサノ・ブラッツィ

『珍作ビデオのあのしみ』より 【DVDあり】
        
        ザ・ラットルズ   イギリス  1978年  藤田真男

ラットルズ ラットルズとはビートルスをもじった架空のバンドであり、この映画はビートルズの歌、映画、結成から解散までの歴史やゴシップを笑い飛ばす空前絶後のパロディ・ドキュメンタリーだ。
 ビートルズもどきの曲を作るだけでも大変な作業だと思うが、アルバムジャケット、キャラクターグッズ、新聞、雑誌、ニュース映画、ビートルズ映画まで完璧にデッチ上げているのだからハンパではない。アニメ映画「イエロー・サブマリン」のパロディ版まで作るに至っては、感心するのを通り越して呆れ果ててしまう。ラットルズの経営のでたらめぶりを突撃取材するのは元ビートルズのジョージ・ハリソン本人(よくやる!)、ラットルズ解散の真相を証言するのはミック・ジャガー。一人何役も兼ねて出ずっぱりの大活躍を見せるのはモンティ・パイソンのエリック・アイドル。モンテキのメンバーでは他にマイケル・ペイリンも出演しているが、ゲストのほとんどは「サタデー・ナイト・ライブ」のレギュラー陣で、ジョン・ベルーシ、ダン・エイクロイド、ビル・マレー、ギルダ・ラドナーらが怪演・こんな豪華な顔ぶれの共演は二度と見られないだろう。

      監督・脚本・主演 エリック・アイドル   出演 ジョン・ホルジー、リッキー・ファッター、
      ニール・イニス、ジョージ・ハリソン、ポール・サイモン、ミック・ジャガー、ジョン・ベルーシ

『珍作ビデオのたのしみ』より   【中古VHS】

        アイスクリーム・コネクション   イギリス  1984年  藤田真男

 いわくいい難い不思議な魅力を持ったファンタジー・コメディだ。「ローカル・ヒーロー」のビル・フォーサイズ監督、と聞けばピンと来る人もいるはず・しかも「ローカル・ヒーロー」と同じく“ダイアー・ストレイツ”のマーク・ノップラー音楽と聞けば期待に胸が踊るはず。
 この映画は「ローカル・ヒーロー」を見てからでないと、少し取っ付きにくいかもしれない。主人公は女に逃げられてウジウジしているダメ男、そのためフォーサイスを“スコットランドのウディ・アレンなどと呼ぶ馬鹿者もいるわけだが、不思議な叙情、たまらないせつなさ、浮世ばなれしたおかしさが溶けあったフォーサイスの世界は、むしろロバート・アルトマンに近いものだ。
 帰宅途中のダメ男の車を。ウサギのマスコットをつけたアイスクリーム売りのバンが追い越す。バンの中から美女が微笑みかける。男はフラフラとついて行く。トンネルを抜けると、時間が停止したような黄昏の風景が広がる。そこはアリスが迷い込んだ不思議の国、バンは三月ウサギだったのだ。奇妙な夢の中でホンワカとした心地よさに包まれる愛すべき映画である。

      監督・脚本 ビル・フォーサイス  音楽 マーク・ノップラー(ダイアー・ストレイツ)
      撮影 クリス・メンゲス  出演 ビル・パターソン、
      エレノア・デビッド、ロベルト・ベルナルディ

『珍作ニデオのたのしみ』より

         大統領の誘拐  1980年 カナダ・アメリカ   藤田真男

 カナダ映画は小粒でピリリと辛い。この作品はエリオット・グールドが主演した犯罪アクションの傑作「サイレント・パートナー」と同じく、カナダのトロント市で撮影されていて、舞台になるショッピング・モールも同じ場所らしい。トロント市は映画撮影に対してよっぽど協力的なのだろう。野次馬がひしめくショッピング・モール前で爆弾をポンポン爆発させるハデなロケである。
 トロント市を訪問中の米大統領が、軍資金を要求するテロリストに誘拐される。ただの誘拐ではない。犯人は自分の体に爆弾を巻きつけて、大統領の腕に手錠をかける。あっという間の出来事で警備隊も意表をつかれる。何とアタマのいい犯人だろう。これで逃亡するかと思いきや、犯人は大統領を連れて装甲車の中に立てこもる。車にはわずかな衝撃でも爆発する特殊爆弾が仕込まれていて救出は不可能、とサスペンスフルな展開は、小粒ながらも「ジャガーノート」に匹敵する。
 さらに面白いのは、最後まで泰然としている大統領、大統領が死ねばその後釜に座れるという複雑な心境の副大統領をはじめ、主役から端役にいたるまでの人物描写の的確さと厚みだ。

       監督 ジョージ・メンダラク  原作 チャールズ・テンプルトン
       出演 ウィリアム・シャトナー、ハル・ホルブルック、バン・ジョンソン
           エバ・ガードナー、ミゲル・フェルナンデス

『珍作ビデオのたのしみ』より


          ダーク・スター   1974年  アメリカ    藤田真男

 ジョン・カーペンターの映画は一見、どれも単純明快だ。そこで単純な人は勘違いする。ひどい批評があった・「ハロウィン」のラストで、殺されたブギーマンが忽然と姿を消したのはおかしいというのだ。一体、こいつがフツウの殺人鬼に見えるだろうか? ブギーマンは「ザ・フォッグ」の幽霊のように常識を超えたものとして描かれているのだから。しかもシーツ一枚と包丁一本であれだけの恐怖感を出せるところこそ、カーペンター演出の安っぽさではなく、すごさなのだ。「ザ・フォッグ」には超常現象に関する深い造詣もうかがえるが、単なるオカルト・ホラーというわけでもない。すなわちカーペンターは殺人鬼、幽霊、エイリアン、カンフー映画などのパターンを熟知したうえでヒネリを加え、ジャンルを超えた全く新しい映画を作り出す才能の持ち主なのだ。
 「ダーク・スター」は、そのカーペンターの記念すべき長編デビュー作だ。ここでは宇宙探検映画のパターンが見事にひっくり返される。宇宙開拓の露払いとして邪魔な惑星を爆破しながら進むヨレヨレの偵察船ダーク・スター号の悲喜劇が、カントリー音楽にのせて描かれる怪作だ。

       監督・脚本・製作・音楽 ジョン・カーペンター  
       共同脚本・美術・編集・特撮  ダン・オバノン
       ミニチュア製作 グレッグ・ジーン
       出演 ダン・オバノン、ブライアン・ナレル、ドレ・バヒッチ

『珍作ビデオのたのしみ』より  p.82


          デモン・シード   1977年 アメリカ   藤田真男

 コンピュータが自我を持つという設定のSFは多いが、この「デモン・シード」は「地球爆破作戦」と並ぶ傑作・・・・とは言い切れない、妙ないかがわしさをも備えた異色作だ。
 極秘裏に開発された超コンピュータ“プロテウス”が完成。合成細胞を組み込んだ文字通りの人工細胞は、その知識と自我をどこまでも肥大させてゆく。“箱から出たい”というプロテウスの望みを、生みの親の科学者は一笑に付す。プロテウスはコンピュータ制御の科学者宅を乗っ取り、妻を監禁して自分の子供を産ませようとする。奇怪な胎児が誕生し、プロテウスは自滅するが・・・・。
 これはフランケンシュタイン博士と怪物のバリエーションだが、怪物=プロテウスが自己増殖するというヒネリが斬新。グロテスクなだけでなくリアリティもある。演出はスタイリッシュでシャープ。プロテウスの分身の金属塊の輝きと幾何学的な形が不気味に美しい(モダンアートの彫刻みたいなペニスつき!)。プロテウスの声を演じたのはロバート・ボーン。この監督の未公開作「ホワイト・アイズ」もビデオで見られるが、こちらはスタイルだけが空回りした失敗作だった。

       監督 ドナルド・キャメル  原作 ディーン・R・クーンツ  
       音楽 ジェリー・フィールディング  撮影 ビル・バトラー
       出演 ジュリー・クリスティ、フリッツ・ウィーバー

『珍作ビデオのたのしみ』より p.83

          エメラルド・フォレスト  1985年 アメリカ  藤田真男

エメラルドフォレスト  プリミティブで神話的なイマジネーションを現代に蘇らせる作家としては、漫画家の諸星大二郎と、この映画の監督ジョン・ブアマンが双璧だろう。諸星の作品には明らかにブアマンの影響も見られるが、「エメラルド・フォレスト」に関しては逆にブアマンが諸星の「オンゴロの仮面」「大いなる復活」を読んだのではないかと思われるほど、両者は酷似している。それはもちろん、二人の天才の想像力と文化人類学的な共通の知識、世界観から生まれた偶然の一致なのだが。
 白人の少年がアマゾンの森で姿を消す。父親は十年間、少年の行方を捜しつづけ、未知の原住民の一員となった息子に再会する、というストーリーだが、「ターザン」もどきのノンキな冒険映画ではない。少年は呪術によって白人(森を食い尽くす白蟻と呼ばれる)のダムを破壊し、文明に背を向けて森の奥へと逃れ、そこで真の世界のアダムとイブになる。少年を演じたのは監督の息子だ。
 聖なる森の霊が我々の心に潜む夢見る力をかきたて、ブラジル音楽の快いリズムが全身を包み、熱い太古の血をたぎらせる。やわな文明批評ではない。ナイーブで力強い反文明映画だ。

       監督 ジョン・ブアマン  脚本 ロスポ・バレンバーグ  音楽 ジュニア・ホムリッチ
       出演 パワーズ・ブース、チャーリー・ブアマン、メグ・フォスター、ディラ・パス

『珍作ビデオのたのしみ』より p.89 【DVDあり】

          フェイズIV 戦慄!昆虫パニック  1974年 英国   藤田真男

フェイズIV  ヒッチコックの「めまい」「サイコ」、キューブリックの「スパルタカス」「シャイニング」などのタイトル・デザイナーとして知られるソウル・バスが監督(長篇デビュー)したパニックSF映画だが、並みのパニック映画ではない。バスは「サイコ」の有名なシャワー殺人シーンのコンテも立てているが、あのシーンの計算されつくした緻密な演出を全面展開したといえるのがこの作品だ。
 砂漠の中の研究所、密閉された白いドームは惑星の探査基地を思わせる。突然変異によって進化を始めた蟻の群れと生物学者とが互いの全知を傾けて攻防をくり広げる。蟻は完璧な軍隊組織と奇想天外な兵器を作り、人間の攻撃に対抗して女王蜂がより強い新種を産んで反撃する。
 驚異的な蟻の演技(!)と極小の世界を捉えた撮影技術に目を見張らされる。それはまさに小宇宙だ。一分の狂いもなく設計された精密機械か建築物のように硬質で、スリリングで、美しい。
 バスのすぐれたデザイン・センスを知るには、さまざまな技法を駆使した」ザッツ・エンタティンメント2」のタイトル(ちょっとした短篇ぐらいの長さがある)を見るのもいいだろう。

       監督 ソウル・バス  脚本 メイヨ・サイモン  撮影 ディック・ブッシュ
       出演 ナイジェル¥ダベンポート、マイケル・マーフィ、リン・フレデリック

『珍作ビデオのたのしみ』より p.95 【中古VHS】

          ザ・ラスト・ウェーブ  1977年 オーストラリア  藤田真男
 
Last Wave ピーター・ウィアー監督のオーストラリア時代の作品であり、おそらく最高傑作だろう。この作品が「刑事ジョン・ブック/目撃者」や「モスキート・コースト」の原点になったものと思われるが、ウィアーの“未開と文明”観はハリウッドにからめとられてしまったようにも思われる。
 舞台はシドニー。白人の弁護士が原住民アボリジニの起こした事件を担当したことから、近代都市の地下に横たわる太古の暗黒が蘇り始める。前兆として、各地で不吉な超常現象が頻発する。弁護士の夢の中に大洪水のイメージが現れる。人も車も水に呑まれる。意識下の衝動が彼を謎の地下洞窟へと導いてゆく。この過程が「未知との遭遇」のようにスリリングだ。迷宮のような洞窟の壁にアボリジニの予言を描いた古代の壁画を発見する。地球の胎内を思わせる洞窟をくぐり抜けた彼の眼前に海原が迫り、人類の終末を幻視する。ラスト・ウェーブ=大洪水神話の再来である。
 人類はこうしてまた海に帰ったほうがいいのではないかという気にさせるほど、この終末のイメージは鮮烈だ。ただしビデオの画質は鮮明とは言い難い。パッケージのイラストも拙劣。

        監督・脚本 ピーター・ウィアー  
        共同脚本 トニー・モフェット、ペイトルー・ポウペスク
        出演 リチャード・チェンバレン、オリビア・ハムネット 
 
『珍作ビデオのたのしみ』より p.98  【DVDあり】

          アトミック・カフェ   1982年 アメリカ   藤田真男

 キューブリック監督の「博士の異常な愛情」を思わせる反核パリディ・ドキュメンタリーだ。
 一九四〇年〜五〇年代にかけてアメリカでは原発、原水爆、核戦争などに関するキャンペーン映画や教育映画が盛んに作られた。その目的は核を否定するのではなく、誇らしげに肯定し、“放射能は恐くない。恐いのはソ連だ!”と訴えることにあった。これらのフィルムには、米政府、米軍、マスコミが国民をだますためにデッチ上げた嘘八百が並べられている。例えば、原爆がピカッと爆発しても、その場にパッと伏せれば大丈夫。死の灰を浴びてハゲ頭になっても、髪はすぐまた生えてくるから大丈夫、といったアホらしさ。だますほうも。だまされるほうも、全くオメデタイ。
 そのオメデタぶりを、当時のフィルムを編集してパロディ仕立てにしてあるわけだが、これがもう、あっけにとられるほど面白い。ただオメデタイだけではない。原爆の秘密をソ連に渡したアメリカ人科学者が処刑される。その模様をラジオで生中継するという恐ろしさを、アメリカ人はオメデタさの裏に持っている。このムチャクチャな国民性こそブラック・ユーモアである。

        製作・監督 ケビン・ラファティ、ピアース・ラファティ、ジェーン・ローダー

『珍作ビデオのたのしみ』より p.170

          トレジャー in メキシコ  1985年 アメリカ  藤田真男

 イギリスの作家、脚本家アラン・シャープの監督デビュー作だ。脚本作品にはリチャード・フライシャー監督「ラスト・ラン」、ピーター・フォンダ監督「さすらいのカウボーイ」、ロバート・アルドリッチ監督「ワイルドアパッチ」、サム・ペキンパ−監督「バイオレント・サタデー」といった傑作があるが、ほとんどの人は彼の名を知らないだろう。このデビュー作も日本では未公開。ビデオでは「インディ・ジョーンズ」の亜流みたいな邦題をつけられてしまったが、これは宝捜しの冒険映画などではない。「小さな宝物 Little Treasure」という原題には、宝そのものよりも“大切な何か”の暗喩が含まれている。ここでの宝捜しの旅は「ラスト・ラン」や「さすらいのカウボーイ」と同様に“観念の旅”なのだ。
 男はメキシコの村から村へと旅する流れ者の巡回映写興行師。女は死にかけの父に呼ばれて遺産を受け取りに来たドサ回りのストリッパー。遺産とは父がどこかに埋めたという大金だった・・・・。
 野外スクリーンに映し出されるフィルムの影の、何ともいえぬはかなさ。それこど人生=旅=夢=小さな宝物=映画そのものなのだ。バート・ランカスターの友情出演も嬉しい。

        監督・脚本 アラン・シャープ  製作総指揮 ジョアンナ・ランカスター
        製作 ハーブ・ジャフェ  出演 テッド・ダンソン、マーゴット・キダー
            バート・ランカスター

『珍作ビデオのたのしみ』より p.171

          マーク・トゥエインの大冒険  1985年 アメリカ  藤田真男

 手足の生えた干しブドウが踊るカリフォルニア・レーズンのCMで一躍有名になったのが、アニメ作家ウィル・ビントンだ。CMで使われたレーズンはクレイ(粘土)でできた人形だが、自由自在に加工、着色できる特殊粘土なのだ。それを一コマずつ動かしてはアニメを作る。大変な作業だ。この技法はクレイメーションと呼ばれ、映画「オズ」の一部でも使われていた。
 「マーク・トゥエインの大冒険」は、全編クレイメーションで撮影された長篇アニメだ。登場する人物、動物、植物、家具、書物、飛行船、雲、炎、川、滝。それらすべてがカラフルな粘土でできている。波打つ水面、流星の嵐、これが粘土だとは信じられない。あいた口がふさがらない。
 アメリカ最大の作家マーク・トゥエインは、ハレー彗星接近の年に生まれ、再接近した一九一〇年に筆を折り、死んだという不思議な人だ。この映画はトゥエインとトム・ソーヤーとハックたちが飛行船で彗星を追いかける冒険ファンタジーだ。製作には三年もの歳月が費やされた。スタッフはそれほどまでにトゥエインを愛し、心からのオマージュを捧げているのである。

        監督 ウィル・ビントン  脚本 スーザン・シャドバーン  音楽 ビリー・スクラム

『珍作ビデオのたのしみ』より p.172  【DVDあり】


          ファンタスティック・タイム・マシン  1985年 アメリカ  藤田真男

 すべてのSFファンが家宝にすべきSF映画アンソロジーの最高傑作である。
 現代SF映画の父、故ジョージ・パルの作品と生涯を、さまざまなゲストの証言をまじえて紹介したビデオだが、まずそのゲストの顔ぶれがすごい。スタッフでは天体画の第一人者チェスリー・ボンステル、「宇宙戦争」の円盤を作ったアルバート・ノザキ、アニメ「ウッドペッカー」の作者ウォルター・ランツ等々。パルの影響を受けた映画人ではロバート・ワイズ、レイ・ハリーハウゼン等々。作家のブラッドベリ。多くの主演者たち。とても書ききれない。タイムマシンの模型などを持参して語るゲストたちのなかで、ジョー・ダンテだけはゴジラやカネゴン(!)の人形を持ってきて見せびらかしているのがおかしい。
 「月世界征服」「タイムマシン」などのSF映画、初期の人形アニメなど、パルのほとんど全作品を見られるだけでも貴重なビデオだ。自らタイムマシンに乗っているパルの笑顔で終わるラストが泣かせる。そう、パルが死んでも、彼が残した映画は時間を超えて永遠に生き続けるのだ。

        監督・脚本・製作 アーノルド・レイレイボビット
        収録作品 パペトーン・シリーズ、月世界征服、地球最後の日、宇宙戦争
              タイムマシン、親指トム、ラオ博士の七つの顔  その他

『珍作ビデオのたのしみ』より p.173


          ベスト・オブ・ジョン・ベルーシ  USA 1985年 藤田真男
ネムタくん(中央が三蔵)  
 二十世紀最高の天才コメディアン、故ジョン・ベルーシの八方破れの魅力と多才な芸を凝縮したビデオであり、彼が出演した人気バラエティ番組「サタディ・ナイト・ライブ」の総集編だ。
 ジョン・ベルーシは、何をしなくても、ただそこにいるのを見ているだけでおかしい。こんな人間ばなれしたコメディアンは、他にはいない。彼は漫画の世界からそのまま飛び出してきたような非現実的なキャラクターを持っていた。吾妻ひでおのギャグ漫画の名脇役“三蔵”こそ、ベルーシの元の姿ではなかったのかと思えるほどだ。吾妻作品「ネムタくん」における三蔵の、得体の知れぬ怪物的キャラクター、常識を超えたギャグのパワーはまさにベルーシそのものだ。
 このビデオの中でベルーシは、さまざまな人物に扮して大熱演を見せる。三船敏郎風サムライ、人生相談するゴッドファーザー、ダイエット中のエリザベス・テイラー、レイ・チャールズのモノマネをするベートーベン・・・・そのどれもが他人にはマネのできない天才的な芸になっている、
 脚本家・俳優のバック・ヘンリー、監督のロブ・ライナーなど意外なゲストも登場する。

   監督 デイブ・ウィルソン  出演 ジョン・ベルーシ、ダン・アイクロイド、
   チェビー・チェイス、ビル・マレー、ギルダ・ラドナー、エリオット・グールド

『珍作ビデオのたのしみ』より   p.174 【2007年に改訂版DVDあり】


          ヒトラー   1977年  西ドイツ  藤田真男

 西ドイツではヒトラーとナチスは、今もタブーとされている。プラモデルのコンテストにも、ナチス・ドイツ等の兵器は出品してはいけないそうだ。ドイツ人は何事も徹底的にやるのである。たとえ反戦的な内容であっても、ナチス・ドイツ軍が登場する戦争映画を作ることは難しかった。だからサム・ペキンパー監督がドイツに渡って撮った「戦争のはらわた」(ドイツ兵が悪役ではなく主役として登場)は画期的な作品であり、ドイツでは大ヒットして続編まで作られた。
 「戦争のはらわた」の翌年に製作されたのが、ドキュメンタリー大作「ヒトラー」だ。ドイツ人が自らの手でヒトラーとナチスの全貌を明らかにした初めての映画だろう。ヒトラーがいかにして国民を煽動していったのか、その方法と歴史を解剖し分析してゆく過程は、これまたドイツ人らしい徹底ぶりだ。第二次大戦の記録映画を見慣れた人でも、この作品には驚かされるだろう。
 ヒトラーの愛人エバ・ブラウンが撮影したホーム・ムービーやナチス記念式典の記録映画は、数十年前のものとは思えぬ鮮明なカラーである。ドイツの映画技術にも驚かされる。

    監督 ヨアヒム・C・フェスト、クリスチャン・ヘレンドエルフェル 脚本 フェスト

『珍作ビデオのたのしみ』より p.178


          オスカー・フィッシンガーの世界 1927-65年 ドイツ・アメリカ  藤田真男

 世の中じは広い。人間の想像力は宇宙のように無限だ。全くとんでもないことを考えつく人たちがいるものだ。そんな驚くべき未知の映像作家に出会えるのが、レーザー・ディスクの「映像の先駆者」シリーズだ。一枚に一人の作家の代表作を収めたシリーズが、現在までに七枚出ている。
 「オスカー・フィッシンガーの世界」は、万華鏡のような色彩が乱舞する超モダンな抽象アニメ。ガラス板に描いた油絵を一コマずつ動かした恐るべき作品もある。見ている気が遠くなり色彩の渦に吸い込まれていくようなトリップ感覚を味わえる。アニメの極限を示した傑作だ。
 「チャールズ&レイ・イームズの世界」には、宇宙の果てから地球、そして原子の世界までを一気にズームアップして見せる作品がある。スポーツドリンクのCMは、これの稚拙なパクリなのだ。
 「アレクサンダー・アレクセイエフ&クレア・パーカーの世界」は、百万本(!)のピンの影を動かすピンボード・アニメだ。これらはどれも永遠に輝きつづける宝石のように美しい貴重な、とても人間業とは思えない映像ばかりだ。それが一枚わずか九千八百円。安い!

     監督 オスカー・フィッシンガー  収録作品 オプテイカル・ポエム、ラジオダイナミックス、
      青の組曲、モ−ションペインティング ほか

『珍作ビデオのたのしみ』より p.178

           渡る世間にツバぺっぺっ!  1984年  イギリス 藤田真男

 あらゆる権威にツバを吐きかけるブラック・ジョークとパロディのオンパレードだ。遠慮会釈のない悪意、皮肉、風刺の辛らつさは、かの「モンティ・パイソン」をしのぐほどだ。日本では皇室をパロディにもできないが、こういうものを作れるのが真の知性、洗練された文明というものだ。
 英米ソ連をはじめ世界各国の首脳陣、英国王室、ローマ法王から歌手、映画スターまで、上下左右人種民族の差別なく、徹底的にコケにされている。チャールズ王子の息子が「早く王様になりたい!」と父を脅迫する。バーブラ・ストライサンドはヨダレを垂らしてネバネバと絶唱する。演じるのはまるで生きているような人形たち。しかもグロテスクなデフォルメは名誉毀損もの。替え歌は本人よりもうまいぐらいで、このモノマネ芸だけでも大いに笑わせてくれる。
 冒頭でレーガンの脳ミソが自由を求めて逃亡。脳なしボケ老人レーガンは、最後に核ミサイル発射ボタンを押してしまう。全員が「ウィー・アー・ザ・ワールド」の替え歌を合唱し、ウディ・アレンが“生と死”についてくだらない解説をするなかで、人類はめでたく全滅する。オシマイ。

     監督 ゴードン・エルスベリー、ピーター・ハリス、ジョン・ストラウド
     脚本 ロブ・グラント、ダグ・ネイラー  人形製作 ラック&フェロー

『珍作ビデオのたのしみ』より p.181  【中古ビデオで「2」があった】


           カッコーの啼く夜/別離  1980年 韓国  藤田真男

 すべての韓国映画はメロドラマである。といっても過言ではない。主人公の男女は決まって暗い過去を背負い、事あるごとに回想にふけるというのが韓国映画の鉄則だ。それは数百年にわたって儒教に縛られた暗い国民性のゆえの悲しい定めであろうか? 一度見るのは珍しくて面白いだろうが、はっきりいってほとんどは駄作だ。唯一の例外が鄭鎮宇(チョン・ジンウ)監督だ。回想形式のメロドラマという点は同じなのだが、彼の描く悲恋物語はその純粋さ、素朴さ、美しさ、哀しさにおいて他を圧倒している。「カッコーの啼く夜/別離」「愛の望郷/激流を超えて」「マーニム/愛の風」「娼婦物語/激愛」の四作がビデオ化されているが「カッコーのなく夜」がベストだ。
 旅芸人の母に捨てられた少女が、木こりの男に拾われて成長する。この二人の牧歌的な愛と悲劇的な別れを、古典のような格調と洗練されたタッチで描く。ブレッソンの「少女ムシェット」のような純粋さ、寡黙さが胸を打つ。ヒロインを演じた丁允姫(チョン・ユンヒ)は容姿、キャラクターとも夏目雅子を思わせる美しさだ。「愛の望郷」も彼女が主演。両方ともヌードを披露。

     監督 鄭鎮宇 脚本 鄭飛石  原作 金剛潤  撮影 鄭雲教 
     出演 丁允姫、李大根、金信哉

『珍作ビデオのたのしみ』より p.182  【レンタル店にあり】

      黒い土の少女   藤田 真男 (キネマ旬報2008年4月上旬1504号)
 
 英語の題名では「黒い土の少女とともに」となっている。少女とともにいるのは誰なのだろう?
 冒頭、少女は廃屋に残された古い鏡に映る自分自身の姿を見つめている。画面の外から少女の名を呼ぶ女の声がする。少女は声のしたのうを振り向くが、誰もいない。机に顔伏せて眠っていた少女が目を覚まして振り向くが、そこにも誰もいない。夢だったのか。夢のなかで少女の名を呼んだのは誰なのだろう?
 9歳の少女は知恵遅れの兄と小学校に通い、閉山の危機が迫る炭鉱で真っ黒になって働く父と暮らしている。母はいない。仕事帰りの父と子供たちがバス停で出会って家路につく。バスが去ったバス停に、黒いコートの女が立つ。
 これは、ひょっとしてロベール・ブレッソンの「少女ムシェット」のような映画なのだろうか、と予感が走る。カメラは救いのない父子の姿をじっと見つめ続けるばかりだ。
 父が暗い坑内から地上へ出てきて以後のショットは、ほとんどすべてが固定カメラで撮影されている。ただし三脚は使わず、わずかに揺れ続けながら手持ちカメラがじっと立ちつくす。パン・ショットもいくつかあるが、それはカメラが人間のようにゆっくりと「首を振る」という感じだ。エンディング・タイトル以外には音楽はない。ゆっくりとピアノのキイを叩く音が、何度か短く響くだけだ。セリフと過剰な演技も極力、排除され、あるのは視線だけだ。
 絶望して酒びたりの父に黙って少女はバスに乗り、兄を養護学校へ連れていく。車内で黒いコートの女と一瞬、視線を交わすが、言葉は交わさない。女は死の天使なのか、あるいは少女の母の幻なのか。それとも未来の少女自身なのか。すると、夢のなかで少女の名を呼んだのも未来の彼女自身だったのか? そう思って冒頭のシーンを振り返ると、なにか堪らない気持ちがこみ上げてくる。
 その後、すべてを失った父に猫いらずを飲ませた少女は、黒いコートの女が立っていたのと似たバス停に同じように立ちつくす。カメラも少女を見つめて立ちつくす。少女の視線の先にいるのは誰なのだろう?
 ブレッソンのような映画は、作ろうとしても容易に作れるものではないと思う。ブレッソンのような映画を独力で作る(多額の負債もあるらしい)監督が、まさか韓国から現れようとは思いもよらなかった。「少女ムシェット」と同様、一度見たら心の底にいつまでも残る映画だ。
 長篇第5作「黒い土の少女」が日本初公開作となったチョン・スイル監督は1959年生まれ。ポン・ジュノ監督ら「386世代」の先駆をなした「文化院世代」の最後にあたるのだろう。欧米の大使館附属の文化院で映画を見て学んだ世代である。フランス文化院に通いつめたチョン監督が最も尊敬する監督は、ブレッソンとタルコフスキーだという。

【jコメント】2008年の僕のベストワンは韓国映画「黒い土の少女」、DVDではTVシリーズ「13 サーティーン」のジョー・ダンテ篇でした(藤田真男、2009年1月1日)

        非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎  藤田 真男
        (キネマ旬報2008年2008年4月下旬 1505号)

 「たしかに大勢の有名な聖者は、ウィリアム・ジェイムズの言葉でいえば“病める魂”であった」(J・フーパー、D・テレシー『3ポンドの宇宙・脳と心の迷路』)
 生涯を孤独と極貧のうちにすごしたヘンリー・ダガーは1973年、シカゴの救貧院で81年の生涯を閉じた。「哀れな聖人」を自認した生前の彼は神と葛藤しながらも毎日、カトリック教会へ通い、病院の雑役夫として働き、狭いアパートの一室に戻ると複数の声色で罵声を発し、ほとんど部屋に閉じこもっていた。無害でおとなしく、無名で平凡な老人だった。
 ダーガーの死後、ゴミに埋もれた部屋から大量の原稿と絵が見つかり、家主夫婦はそれらを長い間、部屋ごと保存していた。のちにアパートは解体されたが、ダーガーの部屋はシカゴのアウトサイダー・アートの施設に復元展示されているという。アウトサイダー・アートとは、本来は売買や芸術文化のためではなく作者が自身のためだけに行った自発的表現を意味するらしい(その意味では須田克剋太画伯の作品なども含まれるかもしれない)が、今では主に精神障害者の作品を意味するという。
 映画『非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎』には解体前のダーガーの部屋が記録され、彼の日記、自伝、1万5千ページを超す小説『非現実の王国で』の抜粋と数百万枚の挿絵のアニメ化、家主や隣人の証言によって彼の人生と作品の概要が紹介されている。
 小説『非現実の王国で』は、子供奴隷を虐待する邪悪な大人たちに対する、伝説の子供十字軍のような少女たちとキリスト教徒軍の戦いを描いた黙示録的な妄想の産物だ。挿絵は」きいちのぬりえ」にラクガキをしたような絵柄だが(絵のなかの裸の少女たちは男性器を持っている)、パノラマ画のように一枚が3メートルもある。もし。これが子供のラクガキだったら、とっくにゴミ箱に捨てられていたに違いない。
 僕には、こういう「アート」を「鑑賞」する趣味は無いし、オークションで高値を付ける連中の気が知れないが、ダーガーその人については、さまざまな思いがめぐる。彼はトゥレット症候群(音声チック、汚言症)か、幼年期の虐待に端を発する多重人格であったかもしれない。いや、むしろ側頭葉癲癇患者に見られるドストエフスキー症候群が顕著かもしれない。
 が、監督はダーガーの人格や作品の芸術的価値について、あえて詮索しない。隣人の女性は「世間で言う狂人じゃなかったわ。ちゃんと生活してたもの。貧しいと狂人、金持ちだと変人。彼は貧しいから“狂人”だったの」と語り、家主の未亡人は「夫は彼にとても関心を抱いていた。でも、答は探さなかった。疑問はあっても答があるとは限らないって」と語る。
 非現実の王国を築くことでダーガーが狂気の一歩手前で踏みとどまっていたのだとしあたら、脆弱さと同時に強靭さを併せもつ脳と心の不思議を思わずにはいられない。
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日本映画  (邦画)
 

       青年の樹  藤田 真男  (キネマ旬報1977年6月下旬710号)

 映画をみ終って、最初に思い浮かんだのは、「大深刻は、大軽薄に裏づけよ」という大和屋竺の言葉と、かつての藤田敏八の非行少年映画、例えば「陽の出の叫び」であった。あの頃の藤田敏八が、この映画を撮ったなら、おそらく大和屋のいうような、軽薄に大の字がつく快作になったかもしれない。現在の藤田敏八に、そのような映画を望むことは無理かとも思えるが。
 以前、人伝てに聞いた話なので、本当のところは定かでないが、松本正志のデビュー作「戦争を知らない子供たち」をみた藤田と大和屋が、映画の出来に腹を立てて途中で試写室を出てしまったという。その話を聞いたとぎ、もしそれが本当だったらとても残念なことだと悲しく思い、何かの間違いであってほしいと今でも思っている。
 大和屋竺にとっては「戦争を知らない子供たち」以来5年ぶり、二度目の東宝青春映画の脚本が、この「青年の樹」ということになる。石原慎太郎の原作で、大和屋の脚本というのは、北山修のフォークソングにも劣らぬ異和感を抱かせる取合せではある。「戦争を知らない子供たち」のときは、あの歌が大嫌いだからやってみたのだ、と大和屋はいっていたが、今回のも同じ理由なのだろうか。
 「青年の樹」は「戦争を知らない子供たち」のような軽薄の裏づけに欠けるとはいえ、ここ数年間の東宝青春映画の中では、久々の佳作といっていいだろう。それは、いかに東宝作品が総じて低調かという証しでもあるが。一時、河崎義祐がリメイクものの中にも、現代的なセンスを垣間みせたこともあるが、「青年の樹」と併映の「若い人」はひどいとしかいいようがなく、松本正志の復活を期待するばかり。
 「青年の樹」の主人公たちは、「赤い鳥逃げた?」の如く、内田朝雄から、世の中ウハウハ渡って行けるもんじゃないよ。などといわれるまでもなく、軽薄ぶったポーズも甘えも捨てている。といって、必要以上に深刻ぶってもみえない。いくつかのアクシデントをはさみ、軽いスケッチのような描写をコラージュさせながら、映画は進行する。西村潔の演出は、「死ぬにはまだ早い」 「白昼の興撃」の頃から思えば、ずいぶん肩の力が抜けて、ある意味では声高に叫ぶより説得力をもつようになった。三人の主人公たちは、現在置かれている場所から、彼らの意志とは関わりなく、各々が異なる方向へ伸びようとしている。それ故に、彼らは成長することを躊躇しているようだ。
 今いるのは、本来の自分ではないし、本来の場所でもないように感じられる。そのまま枝を伸ばせば、彼らは遠く離れて互いを、そして自分たちを見失ってしまうだろう。かといって、大人たちにとって代われば、そこが自分たちの在るべき場になるとも信じてはいない。
 白いスーツを血に染めて、伊吹二朗は黒沢年男と全く同じポーズで死んで行く。子守唄が流れる。闇に浮かぶ電話ボックス。美しいシーンだ。彼らは、一度死ぬことによって、はじめて根っこの方で目にみえぬ絆を結ぶ。伊吹二朗の死にオーバーラップして、三浦友和が眠りから覚めて立ち上がり、方向も定めず、しかし自らの意志とカで駈け出すラスト・シーンには、再生の感動が息づいている、といっても過大評価にはなるまい。
 「われわれはなにかのふりをするとそのものになってしまう、だからなにのふりをするかは慎重に選はなくてはいけない」(カート・ヴォネガット・ジュニア「母なる夜」)
  (東宝映画作品=東宝配給*封切日四月二九日*上映時間一蒔間三四分*紹介第七〇八号)


      エロチックな関係  藤田 真男  (キネマ旬報1978年8月下旬741号)

 柔らかい光の中に人形の首。八の字眉毛に、ちょっとしまりのない口もと。誰だったかなァ、と思っている内、「詩人の魂」みたいなメロディのシャンソンが流れてタイトルが終わる。そしてカメラが引くと、トレンチ・コートのポケットに両手をつっ込んで、電気スタンドの下に佇んでいる二頭身半ほどの可愛らしいその人形は、フィリップ・マーロウことハンフリー・ボガートでありました。
 この薄汚ない部屋の主は檜垣浩太郎(内田裕也)。職業、私立探偵。となりでショート・ケーキをパクついている美女は、秘書で情婦のミキ(加山麗子)。なんと、これは探偵映画なのであります。
 いささか珍妙なタイトルからしても、「危険な関係」のヒットにあやかって、ポルノに仕立てられそうなフランス・ミステリをもう一本、というので選ばれた題材だと思われる。したがって、もともと本格探偵ハ一ドボイルドは望むべくもないけれど、ボギーの人形(これが実に味のある顔をしている)、バーボン、駐車違反のステッヵT―、主人公の吐く気 の利いたモノローグ(これはあまり成功していなくて残念)等々に、長谷部監督のスタイリストぶりの片鱗をみて楽しむことはできる。なにしろ、長谷部監督と宍戸錠は、ハードボイルドものについて話し始めると、とどまるところを知らないという。 内田裕也は、決して悪くはないが、ここは尾藤イサオに探偵をやってもらいたかった。「破壊!」のTV放映で、ロバート・ブレークの吹ぎ替えを、尾藤イサオが思いきり投げやりに好演しているのをみてすっかり感心してしまったけれど、あの尾藤イサオこそこの映画にふさわしい。
 浮気調査をする内に、尾行している女に惚れてしまうというのは「フォロー・ミー」のトポル探偵と同様。そして、いつもお菓子をムシャムシャ食べているのはミキである。と思ったのだが、これはレイモン・マルローの原作でも同じ設定らしく、原作の秘書は体重95キロの怪物みたいな女だそぅだ。あれだけ食べてりゃ、95キロにならないのが不思議なほどだし、そういうことなら探偵が秘書にウンザリする理由もよくわかる。映画のミキは、いささか牲欲過剰なのと、探偵が自分の考えで行動しようとすると「あたしに相談もしないで!」と怒ったりする保護者気取りが玉に傷だが、なかなか可愛い女として描かれている。帰らぬ探偵を待って事務所で夜を明かしたりするいいところもあるし、事件を解決して探偵を救うのも彼女なのだ。探偵が「考えることはミキに任せよう」と眩くあたり、このコンビの性格は、ホームズとワトソンよりも、ブッチとサンダンス・キッドを思わせる。或いは、エッタとサンダンスの性格も含んでいるかもしれない。原作離れに徹した方が、もっと面白いキャラクターが生まれるようにも思える。できればシリーズで、今後の二人の活躍をみせてもらいたいものだ。
 (日活作品封切日七月八日*上映時間一時間三三分*紹介第七四〇号)


今号の問題作批評

    ルパン三世    藤田 真男  (キネマ旬報1979年2月上旬753号)
       多国籍アクションに終った唯一の誤算

 ルパンと次元がバイクでピラミッドの中から脱出するシーン。風で飛ばされそうになった帽子を、次元があわてて手でおさえる。TVの旧シリーズからみているファンを喜ばせようというスタッフの心づかいであろう。一頃の丈芸座オールナイトなら「よーし」と声がかかるところだ。
 というのは、旧シリーズでは何時いかなるときでも目深にかぶった帽子を決して脱がなかった次元が、あろうことか新シリーズでは帽子を脱いで、その素顔を満天下にさらしてしまったのである。ここれは重大なコード違反だ。誰が決めたことでもない。次元が自らに課したコードだ。次元の帽子が落ちるのは、次元が死ぬときだけだと。ところがメルビル映画の男たちと違い、次元はマシガの中の不-死のヒーローであるから、彼の帽子は永遠に落ちるはずはないのである。そこを再確認させただけでも劇場版を作った価値はあった、などと思うのは他愛ないファン心理だが、まずはスタッフに敬意を表する。
 難点もある。原作をしのぐキャラクターを創造した大塚康生作画監督による旧シリーズを通りこして、モンキー・パンチの原作までキャラクター・デザインが逆戻りしたのは目をつぶるとしても、無国籍アクションでなく多国籍アクションに終ってしまったのは、新シリーズから引き継いだ誤算ではないか。それ故、銭形は官費で(途中から自費だけど)世界旅行している単なる三枚目にみえてしまうし、五右エ門は「ヘンな日本人」から「ヘンな外人」へと価値が下落してしまう。
 銭形はロードランナーを追い続けるコヨーテの如く、不条埋な空間を走り続けるべき存在であり、だからこそ彼もまた氷遠に不死なのだ。五右ヱ門は東映任侠映画の如く「それでも日本人か!」と問い続け、ルパンは日活アクションの如く「日本人であると同時に、無国籍である」と弁証法的解答を示すべきなのだ。
 音楽にしても旧シリーズの山下毅雄ならば、その辺をもっと心得ているのだが(降旗康男作品におげる超モダンな音楽がヤクザ映画を止揚していたように)、大野雄二にとってルバンの証明はちと難題であったようだ。ストーリーだけ先走って、キャラクター描写や音楽が遅れをとったといぅところか。
 色彩も少し安っぽい。Bランクの東京現像所だから、ではないはずだ。旧シリーズはいい感じにバランスがとれていた。「宇宙海賊キャプテン・ハーロック」での清順映画を思わせる斬新な色彩処理は、発色の悪さを補って余りあるほどだ。要はエ夫とアイディア。旧シリーズではアクション場面に白コマを入れたりして迫力を出していたが、古い手法もうまく使えば効果は大きい。手作りなんだから、どんな荒唐無稽なことだってやれるはずだ。その荒唐無稽のリアリティを保証するのは量感と質感である。これは特撮にもいえることだ。動きやスケールとともにアニメの命だと思う。それが描けて初めて、斬鉄剣が鉄を斬れるのである。
 「ホルスの大冒険」での氷のマンモス(「指輪物語」のじゅうを思わせる怪物)や岩石巨人、「アルプスの少女ハイジ」での雪、「未来少年コナン」での空飛ぶ要塞ギガントや厚い雲の海など、大塚康生の量感と質感の描写力は、どんな物質を描いても見事なものである。あの大型トレーラーやラストのロケットに、ギガント級の力を持たせることができたなら、と惜しまれる(作画監督・花島義夫、大塚康生は監修のみ)。
 モノがモノとしての力を得てこそ、それに対する人間も生きてくるとすれば、すなわちコナン少年が手と足と頭だけでギガントを落としたときのように、ルパンがオモチャみたいな武器だけで巨大な敵を倒すというラストのアイディア(脚本・大和屋竺)も、更に生きてくるはずである。であれば「ホットロック」のような人間味漂う爽やかな余韻を残す明朗快活なアクションとしても成功したに違いない。
 あえてケチもつけたが、何はともあれ掛け値なしホンモノの劇場長編アニメとして、十分に楽しめる作品だ。


       歌ふ狸御殿  (大映 1942年)   藤田 真男

 戦時中に作られたミュージカル映画(!)だ。公開は太平洋戦争開戦の翌年。開戦から半年目までは、大日本帝国陸空海軍は連戦連勝(というより正面から米英連合軍と戦ったことがない)、その後三年間は連戦連敗になるのだが、勝ってるうちは日本中が浮かれ、はしゃfぎまくっていたのだろう。そうでなければ、こんなバカバカしい映画が作られるはずがない。それともこれは暗い時代から逃避しようとした庶民たちのはかない夢から生まれたアダ花なのか? ともかくこの異常にノーテンキな大衆娯楽映画は大ヒットを記録し、戦後も大映オールスターでリメイクされている。
 ストーリーは「シンデレラ」そのもの(というのもあきれる)のだが、お姫様もお城の家来たちも正体はタヌキなのだ! キヌタ姫、タヌ吉郎の恋の腹つづみがポンポコポン!なのだ。
 リメイク版も木村恵吾監督で、市川雷蔵、勝新太郎、若尾文子らがキンキラキンのカラー大画面でタヌキを演じた珍品中の珍品だ。長らく絶版になっていた、そのリメイク版「初春狸御殿」が八九年一月末に大映ビデオから再発売されたので、こちらも必見! ポンポコポン!

  監督 木村恵吾  出演 高山広子、宮城千賀子、草笛美子、雲井八重子

『珍作ビデオのたのしみ』1989年より


     エノケンのとび助冒険旅行 (新東宝・エノケンプロ 1949年)   藤田 真男

 十年前に出た『大特撮/日本特撮映画史』という本の中に“二度と見ることの出来そうにない名作”として、「エノケンのとび助冒険旅行」が詳しく紹介されている。十年前には、ほとんど忘れられた“幻の名作”だったのだ。この映画が作られたのは、僕が生まれる少し目のことで、劇場では見たことがない。幼い頃、家にきたばかりのTVで初めて見て、こんな面白い映画があるのかと思った。♪アタマも軽く〜というエノケン(榎本健一)の歌も、いっぺんで覚えてしまった。
 三十年近くたって、ビデオで再見できた。エノケンの歌も、毒グモの精も、大ガマも、みんな記憶のままだった。それほどこの映画は子供心に強く訴えたのだろう。一見、稚拙に見える怪物やセットも。杉浦茂の漫画のように奇妙キテレツなワンダーランドで魔法の光を放っていたのだ。
 戦後のエノケンは面白くないという人が多い。本当にそうなのだろうか? 僕自身の体験でいえば、エノケンは“喜劇王”である以前に、子供の心をひきつける不思議な魅力を持っていた。だからこそ、こんなにチャーミングなファンタジーを作れたのだと思うのだが。
 
   監督 中川信夫  製作 野口久光  原案 清水昆  脚本 山本嘉次郎 
   音楽 早坂文雄  出演 榎本健一、ダイゴ幸江、花島喜世子

『珍作ビデオのたのしみ』より

     九十九本目の生娘  (新東宝) 1959年  藤田 真男

 一部マニアには有名な今はなき新東宝エログロ路線の一本である。単なる変態エログロではない。これまた一部マニアには有名な「ウィッカーマン」(クリストファー・リー主演)を思わせる猟奇ミステリー映画なのだ。ポスターにはグラマー女優・三原葉子がスリップ(当時はシュミーズといった。何と懐かしい響き!)一枚で水車に逆さに縛られている拷問シーンの写真が出ているが、残念ながらここまでSMチックなシーンは本編にはない。これはあくまでも誇大宣伝用のサービスなのだ。とはいえ、イケニエの女が木に吊るされて刀で刺し殺されるシーンは猟奇的な迫力満点だ。
 東北の山奥の神社で十年に一度、刀鍛冶の一族が妖刀を作る秘密の儀式を行う。刀の焼き入れには誘拐してきた処女の生血が使われ、今年はついに九十九本目の悲願が成就する。
 こんなアブナイ映画は今では作ることもTV放映も難しいだろう。ビデオの雑誌や年鑑にもほとんど紹介されていないし、レンタル屋にもあまり出回っていない。入手したい人は日本映像へ。同社では新東宝の戦争映画、エノケン作品なども発売中。
  
    監督 曲谷守平  原作 大河内常平 脚本 高久進、藤島二郎  音楽 松村禎三
    出演 菅原文太 三原葉子 沼田曜一 五月藤江 松浦浪路 芝田新 矢代京子

『珍作ビデオのたのしみ』より

     殺しの烙印   (日活) 1967年  藤田 真男

 鈴木清順監督、最後の日活アクションだ。この作品の後“わけのわからん映画ばかり作る”との理由で、鈴木清順監督は日活を解雇された。脚本に参加し、殺し屋の一人を演じた大和屋竺(当時は日活の助監督)が、意外な美声で主題歌まで歌っている。この歌に映画のエッセンスがある。
 ♪男前の殺し屋は 香水の匂いがした “でっかい指輪をはめてるな”
  “安かねえんだ” “安心しろ、そいつには当てねえよ” (銃声) 
   曲がったネクタイを 気にして死んだ
  二番の歌詞でも殺し屋同士の対決が歌われる。そして三番は、映画のラストに歌われる。
 ♪蒼い顔の殺し屋は 見覚えがあった “誰だ、どこかで見た顔だな” “・・・・・”
  “やるか?!” (銃声) 鏡の向こうに 砕けて消えた
  殺し屋のランキングを昇りつめ、ついに幻のナンバーワン=神を倒したと思った殺し屋は、鏡に映った自分の影を撃っただけだった。そして彼は、“ナンバーワンは俺だ!”と叫びながら倒れる。メシの匂いが好きな殺し屋と、死だけを望む亡霊のような女の、おかしくて哀しい物語。

    監督 鈴木清順  脚本 具流八郎(大和屋竺、田中陽造、曽根中生、木村威夫、
    岡田裕、鈴木清順ら八人の共同ペンネーム)  撮影 永塚一栄  音楽 山本直純
    出演 宍戸錠、南原宏治 真理アンヌ

『珍作ビデオのたのしみ』より  【DVDあり】

      殺人狂時代    (東宝) 1967年  藤田 真男

 誰でも一度や二度は、人を殺したいと思ったことがあるはずだ。その夢を実行し、殺人を芸術にまで高めた男が、この映画に登場する、彼は殺し屋を集め、秘密組織を作る。主人公の前に次々と殺し屋が現れ、様々な殺しのテクニックで対決する。このあたりは「殺しの烙印」に似た楽しさだ。この殺人組織は、その名も“人口調節審議会”という。
 原作は都筑道夫の『なめくじに聞いてみろ』。最初は日活で映画化の予定だったが、企画が流れた。何年か後に岡本喜八が東宝で映画化したが、一時オクラ入り。公開はされたが全くヒットせず、岡本監督はしばらく仕事をホサれてしまったという。つくづく不運な映画である。
 仲代達矢はこのスットボケた主人公を演じるには新劇くさくて軽妙さには欠けるが、対する殺人狂の天本英世(岡本作品の常連で「仮面ライダー」の死神博士も有名)は、ドンピシャのはまり役。彼が経営する精神病院のセットも、ガウディの建築みたいな奇っ怪なデザイン。ナチス残党や戦時中に紛失したダイヤもからんでのミステリー・アクション・コメディの快作だ。

    監督 岡本喜八  製作 田中友幸、角田健一郎   原作  都筑道夫
    脚本 山崎忠昭、小川英、岡本喜八
    出演 仲代達矢 天本英世 団令子 砂塚秀夫 

『珍作ビデオのたのしみ』より   【DVDあり】

      荒野のダッチワイフ   (国映・大和屋プロ)  1967年   藤田 真男

 大和屋竺が「処女ゲバゲバ」の脚本を書く二年前に監督した作品で、マカロニ・ウェスタン風ハードボイルド・ヤクザ映画仕立てのピンク映画、というのは表向きで、その実体は摩訶不思議な不条理幻想映画である。「処女ゲバゲバ」が神話にヒントを得ているのに対し、こちらはアンブローズ・ビアスの幻想小説にヒントを得たという。ビアスの原作は一人の兵士が死の間際に見た夢を描いたもので、ロベール・アンリコが「ふくろうの河」として映画化し、「ミステリー・ゾーン」(「トワイライト・ゾーン」)の一話として放映された。
 大和屋作品では、殺し屋が死の間際の夢のなかで復讐を果たそうとするのだが(彼は自分が死んだことを知らない)、その夢と現実とが入れ子細工のような複雑な構造になっていて、P・K・ディックのSF小説「ユービック」や押井守のアニメ「うる星やつら2」に似た迷宮彷徨が展開される。
 ジョン・ブアマン監督の傑作ハードボイルド映画「ポイント・ブランク」も全く同じ構造を持っているが、これが大和屋作品と同じ年に製作されたというのは、実に不可思議な暗合だ。

    監督・脚本 大和屋竺  撮影 甲斐一  音楽 相倉久人  作曲・演奏 山下洋輔
    照明助手 小栗康平  
    出演  港雄一  津崎公平  山本昌平  山谷初男  野上正義  辰巳典子
         渡みき  麿赤児  大久保鷹

『珍作ビデオのたのしみ』より   【DVDあり】

     処女ゲバゲバ   (若松プロ)  1969年   藤田 真男

 当時として「処女ゲバゲバ」という奇っ怪な題名はまさに革命的だった。いや、その衝撃は未だに失われていない。題名だけでなく作品そのものも正真正銘、永遠不滅の偉大なる怪作だ。
 ゲバゲバとはバラエティ番組「ゲバゲバ90分」から生まれた流行語。本来はゲバルト=闘争を意味する学生運動用語で、デモ隊の手にする武器(角材)はゲバ棒と呼ばれた。この映画の中で使われるゲバ棒は、主人公が“ボス”を撲殺する一本のバット。脚本を書いた大和屋竺は、民俗学者フレイザーの『金枝篇』に書かれたタブーにまつわる神話にヒントを得たという。金枝=バットは冒すべからざる“神”を倒すための武器なのだ。当時、学生運動のバイブルであった吉本隆明『共同幻想論』など、このバットの一撃の前では屁みたいなものである、などと書いても一体どんな映画なのか、見当もつかないだろう。その名づけようのない混沌こそ、この映画の魅力なのだ。
 これは出口なき荒野を舞台にした神殺しの実験である。大いなる破壊と幻滅の惨劇である。青空の場面だけが、切ないほど美しいカラーである。これは、ピンク映画である。

    監督・製作 若松孝二  脚本 出口出 (大和屋竺)  撮影 伊東英男
    音楽 音楽集団迷宮世界  
    出演 谷川俊之 芦川絵里 林美樹 大和屋竺

『珍作ビデオのたのしみ』より   【DVDあり】

     狼の紋章   (東宝)  1973年   藤田 真男

 「荒野のダッチワイフ」の大和屋竺と並んで、日本でもっとも不遇な映画監督が、この「狼の紋章」の松本正志である。まず、デビュー作「戦争を知らない子供たち」が長い間オクラになっていた。こんな監督は珍しい。この不遇なデビュー作の脚本には大和屋竺も参加していて、北山修の原作とはかけ離れた逆説的で過激な作品になった。ラストの桜吹雪(日本の象徴)の不吉なまでの美しさ! 戦後日本に対する、どうしようもない怒りと苛立ち。松本正志はその名の通り、あまりにも正しすぎる志の人である。「狼の紋章」もまた。狼人間に託した志の映画なのだ。
 無機質な建物、白い日の丸、宙空に浮かぶ不思議な月、ドアの向こうの緑の草原、超低予算ながら、鈴木清順“美学”をしのぐ非日常空間を作り出した斬新な美術にハッとさせられる。狼じゃなくてシェパード犬じゃないか、などとぬかす奴らはルーカスに洗脳されてアメ公に尻尾を振る非国民、いや犬ころである。犬ころに狼人間の孤高な志は分かるまい。白い学生服を着て日本刀を振り回す権力の犬=松田優作が「うる星やつら」の面堂終太郎みたいで面白い。

    監督 松本正志  製作 田中友幸  原作  平井和正  
    脚本 福田純、石森史郎、松本正志  美術 竹中和雄
    出演 志垣太郎  安芸晶子 松田優作 加藤小夜子 
        本田みち子 沢井正延 黒沢年男
 
『珍作ビデオのたのしみ』より 【DVDあり】
 
     戦争の犬たち  (アサルトプロ) 1980年   藤田 真男

 監督の土方鉄人は和光大学在学中に“風流韻事の会”という軍事研究同好会を組織して、校庭で本格的な軍事訓練をくり広げるかたわら、趣味の戦争アクション映画を撮っていた(その一本「特攻任侠自衛隊」もビデオ発売中。
。和光大学にはこういうヘンなグループがいくつもあって、梁山泊さながらだったというからオソロシイ。土方鉄人の“鉄人”はジンギス・カンの幼名“テムジン”からとった芸名(?)だ。その名に恥じぬ壮大な夢と野望への第一歩が「戦争の犬たち」なのだ。
 土方の心意気に感じた並木座(東京の名画座)の支配人が、私財を投げうって制作費を提供。スタッフ、キャストも義勇兵士さながら、山奥で合宿しての撮影はゲリラそのもの。撮影中は軍隊用語が飛び交い、武器や装備は本物(沖縄の米軍払い下げと手作り)が使用された。
 お話は単純な人質救出傭兵アクションなのだが、千葉かどこかの山の中がちゃんと東南アジアのジャングルに見えて、自主映画の安っぽさはみじんもない。本気で戦争ごっこをやってのける遊び心のたのしさ、これぞ“風流韻事”の極意なのだ。無粋な人間には分かるまい。

    監督・脚本 土方鉄人  製作 小泉作一、飯島洋一    撮影 伊東英男
    音楽 泉谷しげる  出演  飯島洋一、青木義朗、清水宏、港雄一、椎谷健治
    安岡力也、たこ八郎、泉谷しげる、草薙幸二郎、佐藤慶

『珍作ビデオのたのしみ』より

     日本 空からの縦断  1984年  電通   藤田真男

 沖縄の南端から北海道の北端まで、日本列島を空から撮影した奇妙な映画だ。どこが奇妙なのかというと、カメラの視点だろう。衛星写真よりも低く、航空写真よりも高い飛行高度は、高からず低からず、ツトム・ヤマシタの瞑想的な音楽に乗って滑るように飛び続ける。
 森も川も街も手にとるように見えながら、どこか非現実的だ。自然と人工の境界線上に浮かぶ巨大な箱庭、あるいは日本列島の実物大ジオラマ(模型)のようにも見える。しかも長い長い一本のフィルムを使い、全編切れ目のないワンシーン=ワンカットで撮影したかのようなスリル、スピード、サスペンス。フツウの人間は、こんなふうに日本列島を眺めることは一生できないはずだ。
 沖縄の青く輝く海に白い入道雲が逆さに映っているウソみたいな美しさ、かと思うと、うす汚れた大都市にひしめく家、家、家。ああ、あわれな日本人どもはこんなところで生きておるのか、と思った自分もそこにいるのだが、肉体から遊離した自分の意識が、神と人間との中間的な存在となって空から見下ろしているようなヨガ的快感(?)を覚える、不思議なビデオだ。

    企画 勝田祥三  構成 松岡正剛  制作 神領勝男  音楽 ツトム・ヤマシタ

『珍作ビデオのたのしみ』より p.183


     タイムカプセル ’60   1987年 LD   藤田真男
 
 このディスクの中には、一九六〇年代がそのまんまつまっている。タイムカプセルのフタを開ければ、その時代の空気や気分までもが見えてくる。映像は当時のニュース映画のコラージュだが、ニュースといっても世相風俗を捉えた街ネタが多い。芸者がカツラのまま水上スキーを楽しみました、といったアホらしいニュースだ。まるで「猿の惑星」を見ているようなおかしな光景だ。しかしそこに、高度成長期の日本と日本人のけなげさ、いじましさ、ばかばかしさ、なさけなさ、その他もろもろがクッキリと浮かび上がる。社会科の教科書みたいに退屈な解説は一切なし。バックに流れるヒット曲の数々が、当時の日本人の心情を見事に物語る。植木等、ザ・ピーナッツ、坂本九、弘田三枝子、伊東ゆかり、岡林信康など全二十六曲。この選曲のセンスもグッド!
 七〇年安保闘争の不発と体育会系スポ根賛歌「これが青春だ」で幕を閉じる十年間は、夢のまた夢・最後のダメ押しに富士山がドーンと出る皮肉たっぷりの心憎い演出。懐かしがり、大笑いしながら見終わった後、何ともいえぬ切なさで胸が一杯になる。テープも発売中。

     演出 中野裕之  プロデューサー 奥田良一、桜井敦、高橋理
     収録曲  アカシアの雨がやむとき、月影のナポリ、上を向いて歩こう、
       無責任一代男、恋のバカンス、恋のハレルヤ、或る日突然 ほか 

『珍作ビデオのたのしみ』より p.184

      機動警察パトレイバー OVA版  1988年 バンダイ・東北新社 藤田真男

 不条理SFギャグ・sニメ映画の大傑作「うる星やつら2/ビューティフル・ドリーマー」の押井守監督の最新作だ。最初はTVシリーズとして企画されたらしいが、紆余曲折の末に(?)オリジナル・ビデオ・アニメとしてついに堂々完成。まあ、こんな大胆不敵なアニメを放映するTV局があろうはずもない。
 僕も実際に見るまでは、単なる巨大ロボット・アニメのパロディ版ぐらいに思っていたが、その予想は見事に裏切られた。一、ニ話はギャグまじりのロボット・アニメだが、これは導入部。といってもこれを見ないと人物と時代設定が分からないので、やはり順番に全六話を見てほしい。
 近未来の東京。作業用ロボット=レイバーを使った犯罪に対抗して警視庁ロボット部隊=パトレイバー隊を編成、こいつらが「うる星やつら」そのままみたいな常識外れの連中、第三話は突然! 「ゴジラ」のパロディだ。第五、六話は何と! 鈴木清順監督「けんかえれじい」のパロディ、いや、それ以上のものだ。オリジナルに拮抗するだけの驚くべきパワーと高い志を持った政治フィクションなのだ。とにかく、だまされたと思って見て欲しい。

     監督 押井守  原作・キャラクター原案 ゆうきまさみ  原作・脚本 伊藤和典
     声の出演 古川登志夫、冨永みーな、千葉繁

『珍作ビデオのたのしみ』より  p.186 【VHSあり】
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藤田真男 インタビュー記事

  相米慎二監督インタビュー【pdfファイル】  『台風クラブ』  『翔んだカップル』

  押井守監督インタビュー【pdfファイル】  『うる星やつら ビューティフル・ドリーマー』

  原田芳雄 インタビュー【pdfファイル】   『ツィゴイネルワイゼン』 1980年
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参考論文
キネ旬ニュー・ウェーブ

     「非行少年映画」についての小論    原田 泰  (キネマ旬報1972年3月上旬573号)

    文芸坐の心意気に

 藤田真男君の書いていたように、日活のパンクによってあらわれる影響の中で最も困ったことは、いわゆる「非行もの」の映画がほとんど姿を消すことに違いありません。げれども、そんなとき、池袋文芸座が「日本映画戦後史・日活篇」と銘うって、日活二ュー・アクション40本を先頭に、数力月にわたるオール・ナいト興行をうとうというのほ、まことに見上げた心意気であり、まったくもってうれしい企画です。さて、以下は、オール・ナイト興行の第一夜を飾る日活「非行少年映画」4本と丈芸座の心意気にささげる、ぼくのささやかな「非行少年映画」論です。

 「非行少年」「非行少年・陽の出の叫び」 「非行少年・若者の砦」「八月の濡れた砂」と並べると川辺和夫監督の「非行少年」は、非行少年についての予備知識を観客に与えるといった感じになる。このこと自体、4本いっしょに見る場合には強みなのだが、これ1本取り出すと、少年非行についての概括的な一般報告といった感じは、この作品の致命的な弱さになる。非行の原因を受験地獄とする見方は正しい見解であるにはしても、よくいわれていることを映画によってなぞっただけだという感じがしてしまうのだ。とはいえ、あらあらしい躍動感にあふれたカメラワークと、少年たちのキャラクターをとらえる張りつめた神経には恐るべきものがある。ラスト近く、学校の屋上から飛びおりて自殺する少年の姿には、ほとんどこの映画の一般報告的性格を突きぬけるものがあった。
 少年たちのリーダー、河上が最後につかまって少年院に送られるとき、彼はじっと列車の外をみていたが、手錠につながれた彼は、そこから何を見ていたのだろうか。何を見ていたっていい。大人の指し示す方向なんか、絶対に見てやるんじゃないぞ。
 「陽の出の叫び」 「若者の砦」「八月の濡れた砂」は、すべて藤田倣八監督の作品だが、ぼくの一番好きなのは「陽の出の叫び」である。これは、快活なデタラメさをもったまぎれもない傑作だ。「八月の濡れた砂」と「陽の出の叫び」を見ると。敏八さんてのは、つくづくサッカー・ボールが好ぎなのだなと思うのだが、「八月の濡れた砂」の空高く飛んだザッカ一・ボールが校舎のガラス窓を割って、クレジット・タイトルに至る美しいシーンとはまるで違って、「陽の出の叫び」の主人公、純が蹴るサッカー・ボ一ルは、少年院を出た彼に渡されたふろしき包みでしかないのだ。むろん、それは低くバウンドするしかない。若者のたくましく美しい足によって蹴られ、空高く飛ぶべきサッカ一・ボールなど、実はどこにもありはしないのだ。だからといって、純は絶望などしない。ふてぶてしくも瓢々と、そんな状況をつきくずしてしまおうというのだ。少年院から出てきた純は、まじめに働らいて立派な人間になろうというのでもなく、でっかいことをやって非行少年として出世しようというのでもなく、まさしく、そうするしかないような形で生きてゆく。ダイヤモンドになるはずが、実は灰でしかなかったチブルスキーのようにでもなく、50年代の偉大なアメリカの中ですねているジェームス・ディーンのようにでもなく、あえて言うなら「勝手にしやがれ」のミシェル・ポワキャールのように。そして、純のこんな生き方にこそ、現代の、ぼくらの青春を抽く可能性は豊かにひらげていると思うのだ。ところで純は、やはりチブルスキ一にも似ている。傷口から流れる血を見ながら、警官に追われて逃げるシ一ンなんか「灰とダイヤモンド」を思わせる。
しかし、なんと言っても、この映画で最も忘れ難い印象を残すのは、昔の仲間に刺された彼が、腹に刺さったドスもそのままに、少年院時代世話になった教師の家で、思いをよせる娘のいるその家で、人も呼ばずにただひとり、うず高く積まれた新聞紙をちぎっては自分の上にかけてゆくシ一ンだ。チブルスキーのようには、そこで死すべきゴミの山も見い出せず、自らの魂をなぐさめるべく、ちぎった新聞紙に埋ずもれて、何も言わずに死んでしまうかもしれないのだ。アラゴンが「勝手にしやがれ」について言ったように、やはりここにも、「深く、深く、そして深い」ものがあるのだ。

   純から「純」へ?

 「陽の出の叫び」に較べると、「若者の砦」と「八月の濡れた砂」は、ぼくにはあまり手ばなしでは好きになれない作品だ。その理由は、一言でいうなら、非行の影に複雑な家庭環境あり、といったよけいなシチュエ一ションの設定が、悲劇の本質を見失なわせると思うからだ。なによりもぼくは、「非行少年・陽の出の叫び」の単純さと純粋さをこそ愛したい。
 「若者の砦」で真に感動的だったのは、ばくにとっては、「甘ったれるな、自分のキバは自分でみがけ」という、60年代非行少年から、70年代非行少年へのメッセージを伝えるところだけだった。
 「八月の濡れた砂」の若者たちが何をしたのか、と言えば、「優等生のカップルと同じ疎外された若者である姉妹」を傷つけたにすぎず、 「結局身勝手な弱い者いじめなのだ」というのが、「八月」によせられた周磨要氏の批判であり、それはその通りに違いないのだが、人間の疎外状況がそう簡単に、現実の合理的な変革志向とはならないことに、むしろ真に恐るべき問題が存在するのだろう。とはいえ、この事実の積極的な面もあって、それは、あんまり話がウマクいくような合理的変革はアヤシゲなところがあると告げることだろう。だから、「若者の砦」で梶芽衣子チャン扮する高校生の闘士が「そんな手段であなたの怒りを表現するってことが残念なのよ」と言っても、石橋正次の演ずる非行少年は納得するわけにいかなかったのだ。また、「陽の出の叫び」の純も純の犯したミスによってひきおこされた職場の事故をバネにして、待遇改善を要求する労組の方針に対しては、「オレの証言がそんなに影響を持つような闘争は組んだって仕方がない」とどうしても言ってみなければならなかったのだろう。したがって、「八月の濡れた砂」を批判するとすれば、その視点は、現状打開への盲目的な衝動と、それがもつ意義の絶望性を、作者たちがどれほど深く見つめているかということになる。
 あまりにも、あまりにもカッコのよい心中などを選んでしまった若者たちのヨットを一転して大俯瞰するラスト・シーンは、彼らの無邪気な絶望を批判しているには違いないが、その批判はそう深いものとは、ぼくには思われない。これはやはり、「八月の濡れた砂」の甘くものうくたゆたうメロディにも似た、やはり甘美なラスト・シーンにすぎない。これよりはむしろ、いっぱしなやくざの口を聞く中学生たちのいキがった言動が、所詮は失笑の対象にしかなりえないということを鮮やかに示す「非行少年」の方が、はるかに鋭どいものを持っていたと思う。

 率直に言わせてもらえば、藤田監督のこれらの「非行少年映画しにおけるすべての暴力は、アクション画の主人公だから暴力をふるうといった感じがどうしてもつきまとい、それ以外のいかなるものによっても表現できない自己の衝動を噴出させるものとしての暴力という感じがやはり希薄なのだ。暴力に根源的なものとして性格があたえていないから、そのように表現される暴力の無意義牲を見つめる目は、深くなりようがないと思えるのだ。しかし、そのことは必ずしも彼の欠陥にはならないと思う。暴力以外にも、現代の日本の青春のおかれた根源的な危機をかいま見せる方法はあるのであり、その打開の可能性の一面を示す方法はあるからである。その意味で、「陽の出の叫び」の、夕陽にむかって「もうバクチをしません、タカりをしません、ゴウカンをしません、コッカ・シャカイの役に立つリッパな人間になります」と誓う彼の言葉が、コッカ・シャカイなどという言葉をナンセンスの域にまで化していたし、それへの裏返しにすぎない非行少年としてのひとかどの人物になろうという生ぎ方への深く、苦く、切ない思いの表現に達していたことは記憶されるべきである。
 ぼくの思いつきによれば、「非行少年映画」には、「かわいい非行少年の映画」「恐るべき非行少年の映画」「ふたしかな非行少年の映画」の三種がある。そして、それぞれの最高傑作は、トリフォーの「大人は判ってくれない」、ブニュエルの「忘れられた人々」、そして藤田敏八の「非行少年・陽の出の叫び」なのだ。むろん、分類する必要もなく、文句なく最高の「非行少年映画」、いや、飯島哲夫氏式に<少年>=<非行>映画というべき映画はジャン・ヴィゴの「操行ゼロ」に違いないが、ここはとりあえず、まぎれもない日本の青春のおかれた状況を描く可能性は、この第三番目の「非行少年映画」にあると主張したい。藤田敏八監督の次回作「純」は、この第三番目の「非行少年映画」のようだ。心から期待する。純と「純」の一致だげでも、ぼくの心をときめかせるに足るものだ。

(東京都・学生・21歳)
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