「無常」に描かれた生と死の問題    
               藤田真男
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「キネマ旬報」第535号:46-47
 ”実相寺昭雄の追求したタブーの世界" 
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ホームページ作成者・池田博明



          「無常」に描かれた生と死の問題 

                藤田真男

      近親相姦と人間社会

 欧米(特にイギリス)の映画界には、TVから多くの才能が続々と生れているが、日本ではこれまで五社英雄などのような、一部の娯楽映画だけに限られていた。しかし、TBSの実相寺昭雄が映画界入りして、少しは希望が湧いてきたように思える。
 
 実相寺昭雄。彼のTV作品で僕が見たのは「ウルトラマン」「ウルトラセブン」のうちの何本かと、最近の「フィフス・ディメンション・ショー」ぐらいしかないので、彼のこれまでのTVにおける実績については何の知識も持たずに、彼の劇場用映画第ニ作「無常」を見た。ロードショウ館の大画面に映されたスタンダードサイズの映画は、まるで巨大なブラウン館のようでもあった。しかし、縦横に移動し、パンするカメラは、スタジオを飛び出した、実相寺監督そのものであった。

 この作品には、三つのポイントがある。それは姉弟の近親相姦であり、主人公と僧侶との問答であり、いま一つは老婆の出現である。今村昌平の「神々の深き欲望」にもあったが、姉弟間(兄妹間)の近親相姦は大洪水神話とともに、広く世界各地に存在する創生神話によく見られる題材である(アダムとイヴも兄妹と考えられる)

 近親相姦は、未開社会にあってはタブーにより、また文明社会にあっては生物学に裏付けられた(!)法によって禁じられているが、僕の考えでは前者は近親婚が部族を世界創造期の状態に退行させるのを恐れてのことであり、後者も同様に近親婚が社会を閉鎖し、萎縮させ、遂には自滅させるのを恐れてのことであろうと思う。文明社会の経済を支え、拡大させて来たのは絶えざる贈与、交換、略奪、搾取であるのだから・・・。(現代ではこれらは全く組織化されているが)
 
 「社会」なしには生きられない人間だけが、近親婚をしないのは以上の理由による。だから法(宗教、道徳なども含めて)が、それを禁止した。僧侶の荻野が、いみじくも言っている。「君達は、姉と弟の間柄で・・・畜生にも劣るわ
 
 主人公正夫は「行く先々に地獄を作ってゆく」(荻野)が、彼は「悪」をためしているのではない。姉と抱擁しながら正夫は、こう言った。「自然なんや・・・二人がこうなるのが一番自然なことや」

      エロスとタナトス

 数千年の昔から、人類にとって最大の問題はエロス(生)とタナトス(死)である。すべてはそこから派生している。時間=歴史を発見して、「死すべき存在」となったギリシャ人が、父殺し(タナトス−世代交替)を、母との姦通(永遠のエロス)を、悲劇として描いたのはそのためである。人間は死ぬために、次々と生れてくる、それから逃れるべく、オイディポースは両眼をつぶした(去勢)。
 
 「無常」のラスト近くで、主人公正夫は一体どこへ行ったのだろうか? おそらく、彼はオイディポースが果たせなかったことをやろうとしたのである。つまり、老婆(彼女は、たぶんしたたかな生(性)の権化であろう)とともに、怪魚(死)をどこかへ運び去った。そして彼は、ラスト・シーンの赤ン坊に生まれ変わったはずである。(ラストに赤ン坊が出てくるというのは「アポロンの地獄」と丁度、逆になっていて面白い)

 正夫が荻野との問答との中で「我々は、人類は存続すべきだという妄念に捉われすぎている」と言いながら姉との間に生れた子供を可愛がり、また二人目の子供を作ろうとしたり、老婆を手伝ったりするのは一見、矛盾しているかのようでもあるが、そうではない。

 荻野に向って「あんた、私の話を聞いて是非とも反論しなければあかん義務がある」と言う正夫には、法(宗教)を越えているという自信がありありと見受けられるのである。「荻野さん、あんた私に嫉妬してはるんと違いますか」。つまり、正夫は荻野に宗教から見た生=死、善=悪が何の価値も持たないことを思い知らせようとしたまでのことである。
 
 ヨーロッパ人がこの映画を見たなら、あるいは荻野と正夫を神と悪魔になぞらえてしまうかもしれないが、幸い(?)日本には悪魔信仰の伝統がない。だからこそこの作品が生まれ得たのかもしれない。正夫が生死、善悪を越えられたのもそのおかげである。

 この作品では、初めにも書いたように、正夫は次々と「地獄を作ってゆく」が、正夫自身においては、善=悪が「自然なんや」という言葉に止揚されているのである。

       超越視点から見た人間

 僕はこの映画を見ながら、三島由紀夫の「美しい星」というSF小説を思い出していた。この小説の中に、人類を滅亡させようと企む白鳥座六十一番星の未知の惑星から来た宇宙人と、人類を救おうとする太陽系の家族の家長(火星人)が討論する場面があるのだが、それが「無常」での正夫と荻野の問答を思わせるのである。白鳥座の宇宙人は言う、「われわれは人類を愛しておりますから、あなたのように、しゃにむに人類を存続させようとは努めません」。結局この家族は死期の近い父を連れて円盤に乗って「昇天」して行くのだが、地球を去る間際、父は「何とかやってくさ、人間は」とつぶやくのである。
 
 話は変わるが、「華やかな魔女たち」のパゾリーニ篇「月から見た世界」のラストで、パゾリーニは「生きていても、死んでいても、大したちがいはない」という少々冗談めかした「教訓」を与えている。また、フランスの国策映画などと言われた「頭上の脅威」というSF映画も、空飛ぶ円盤の出現が人類を破滅から統一へ導くという話である。

 三島にしろパゾリ−ニにしろ、宗教や政治を超越した「宇宙的視点」から眺めた人間を描くことにより、生と死の問題に突っ込んでいる。それが「無常」においては「宇宙」ではなく「自然」という形をとったまでのことである。この作品の中では「男と女」に関しても語られているので、それにも少し触れておこう。

 ここに出てくる女は・・・娼婦にしろ、姉にしろ、令子にしろ・・・すべてセックスそのものであり、正夫の言葉を借りれば「品物」であり「好奇心の強い動物」である。

 姉の場合、正夫は他の女と別格に考えているようであるが、それは彼の中に「法」を犯し「自然」に転化しようとする意識があるからにすぎず、姉も所詮はただの女にすぎない。仏像に命をかけたり、自殺したり、議論をしたりしている男に比べ、女は「ええなあ、ええなあ」とセックスに耽り、子供をあやして喜んでいる。

 男があくせくして文明を歴史を芸術を作っている間、女はひたすら子供を生産し続けた。若松孝ニが言っていた、「一ケの人間を世に生み出すということは非常に不幸な行為なのだ」

 この映画で、唯一おもしろおかしかったのは、令子と康弘が抱き合い、もつれ合っているシーンであった。どこからかラジオ体操の音楽が聞えて、「ハイ、次は胸の運動! 一・ニ・三・四・・・」なんてラジオに合わせ二人が、モゾモゾやるんだから、これは爆笑ものなのだが、場内はシーンと静まり返ってしまった。やはり、こういう作品はロード・ショウ上映すべきではないようだ。

 僕は実相寺監督に次回作として、三島の「美しい星」を映画化してもらいたいものだ。(”ウルトラマン”の経験を生かす機会だヨ!) 最後にどォでもいいようなことだが、この映画を見た方に「サンデー毎日劇画特集」第三号に掲載されている粟津潔のマンガを見るようオススメする。ま、見てのお楽しみというところです。

    (当時 学生・18歳)

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