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| ■普通ということ | |
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| 普段から何気なく“普通”という言葉を使ってしまう。「普通そんなこと言わないよねぇ。」「普通はそんなことしないって。」「普通じゃないよねー。」 でも、“普通”ってどんなことなんだろう。 “普通”という言葉って便利な言葉だ。一般的な道徳観や社会通念を考えていくときには、「どうしてこうしなくちゃいけないのか」、「なぜこんなことをしてはいけないのか」と面倒くさい理屈をつけるより、「普通こうなの」といってしまったほうが簡単だし、妙な説得力がある。 だけど、その一方で“普通”という言葉ほど、あやふやでその時々で変化する言葉もないんじゃないだろうか。 |
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自分がその時加わっている集団の中の大多数にあてはまることが“普通”と呼ばれていると経験的に思う。だから、自分自身のもっている“普通”という観念が、他の集団に入ったときには“普通じゃない”ということになってしまったというという経験、きっと誰もがもっているんじゃないだろうか。 これが、違う文化の間で起こると、カルチャーショックということになると思うけど、そんな大げさなことじゃなくて、意外と日常的にわたしたちは“普通”という言葉に振り回されているんだと思う。 |
| “普通”という言葉は、本当に細かなことにまで使われる。 「“普通”、赤ちゃんは・・・」 「“普通”、ちっちゃい子は・・・」 「“普通”、男の子は・・・」 「“普通”、小学生は・・・」 こんな言葉にわたしはこれまで散々振り回されて来た。そして、今でもきっと振り回されている。 |
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“普通”という言葉の示す範囲が狭すぎるのだと今では少しは分かるけど、先輩ママに聞かされることや、育児書や育児雑誌で仕入れる情報に一喜一憂していたのは、この“普通”という範囲からはずれているのではないかということが気になって仕方がなかったからだった。背後に潜んでいるかも知れない病気というのももちろん大きな心配事だったけど、やはり、大多数からはずれちゃってるの?という怖さがあったのだと思う。 そんなわけで、“普通”の範疇に外れることの無いように、長男を必死で公園に連れ出してそこにいる子供たちと遊ぶようにうながしたり、○○式のワークブックをやらせてみたり(近所の子供たち、みんなやってたの・・)、今思い出すとずぼらなわたしにしてはかなり無理をしてがんばっていたものだった。 |
| でも、長男は「“普通”ちっちゃい男の子は・・・」という範疇からは少しはずれた本当にマイペースな子供だった。 公園に行ったって、自分の好きな遊びのうちは他の子供たちと遊んでいるのだが、少ししてそのグループが他の遊びに移っていったって、その遊びが自分の興味を引くものではないとけっしてついていこうとしなかった。あくまでも自分の好みの遊びを続けることの方が大事だった。ほかの子供たちがリーダー格の子供の後を満面の笑顔で、それこそよくある風景のように楽しくついて走っていくのに、ぽつねんと一人で好きな遊びを続けていた。いつもいつもみんなといっしょに楽しく遊べる子ではなかった。 |
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幼稚園に入ってもその傾向は強くて、よく勝手に幼稚園の中をさまよっていた。きちんと集団で行動できる子供から比べたら“普通”の範疇からは完全に外れた子供だった。自己中になってしまわないように、集団生活がまともにおくれるように、先生達にご迷惑をかけるたびに長男には必死で言い聞かせる毎日だった。そのかいあってかとりあえず集団生活はなんとか彼なりに人様に迷惑をかけないよう過ごしているらしいが、本質的にマイペースであることには変わりがない。こうなると、わたしにとって、それまでの“普通”の意味はどうでもいいものになっていかざるを得ない。それでも、時にはそんな“普通”という言葉に振り回されて、あせってしまっている自分がまだいるのだからやっかいだ。 |
| ついついほかの子供たちと比べてしまう。同じ年頃の男の子たちはみんなでつるんで自転車に乗って遊びに行くのに、長男がそんなことをするのは夏休みにプールに行くときぐらい。そもそも仲のいい子がいないわけではないが、大人数ではけっしてつるまないのだ。十人十色という言葉がわかりすぎるぐらいわかっていても、大丈夫なのかしら、ひょっとして世に言う引きこもりになるのではなかろうかと気になってしまう。 でも、こういった心配、実は意外とどのおかあさんも持っているものだということもだんだんに分かってきた。わたしだけじゃなかった。仲の良くなったお母さんとしみじみと子供の心配事などを話し合ううちに、どんな子供のおかあさんも、だれもが一般的な“普通”という言葉を気にして、多かれ少なかれ振り回されてしまっている。そして、やがて“普通”という言葉をある程度は無視していかざるを得なくなっていってる。 |
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これって考えてみると不思議なことだ。同じ情報を共有できる範囲はマスメディアの発達に伴ってどんどんと限りなく広がっている。なのに逆に“普通”という言葉の意味は画一化されて狭くなっている。なにも“普通”という言葉がいけないというわけじゃない。わたしたちはその言葉にあまりにも狭い意味しか見えなくなっている。もっと広い意味を見ることが出来たなら、きっともっと楽になれる。わたしたちには見えているところが狭すぎるのかもしれない。 |
| もちろん、自分勝手な自己中じゃ困る。これでいいのさと他人の迷惑を無視して、人からそこを指摘されれば逆ギレなんてのはもっての外だ。他人と関わるのは絶対いやと固すぎる防護壁を作ってしまうような弱さを、いいよいいよと容認する気持ちもない。 ただ、いろいろな社会的なルール、根本的な道徳上の問題、それさえがクリアできているのなら、そう、そのことを忘れずにいることが出来るのならば、多少の違いは気にしないでいたいと思う。“普通”という言葉を狭い狭い範疇にとらえて、びくびくするのはもうやめにしたいともがきながら思う。もっと違ったものをお互い認めあうことができればいい。そうすれば、もっと広く見えてくる。あまりにも一般的な、やもすると形骸と成り果てているかもしれない今現在の“普通”という言葉の範囲をもっと広げていきたい。狭い言葉なんかにけっして振り回されないように、子供たちや自分をも見つめていけたらいいなと思う。タフにそしてしなやかに生きていけたら本当にいいなと思うのである。 |
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| 2001.7.19 | |
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