望  楼


 
 空は、真っ青に晴れ渡っていた。吉日を選び尽くしてはあったが、これだけの天気に恵まれれば、天がこの日をまことの吉日と告げていると、そう思えてならなかった。

 今日の佳き日。

 かけがえのない主、曹丕が人ならぬ身になった、この特別な日。 だが禅譲壇を下り城中に戻ると、曹丕はつまらなそうに溜め息をついた。

「お疲れですか? 陛下」

 本来ならば気軽に声をかけられる方ではなくなったというのに、曹丕は城内の祝賀の宴が始まるまで、司馬懿を伴って望楼へ出た。
 風が香の匂いを運んでくる。柔らかな日差しを浴びた曹丕は、愁いを含んだ眼差しで、遠く城下を眺めていた。

「陛下、か……」

 司馬懿の問いかけに、曹丕は上の空で呟いた。どこか、不機嫌そうでもある。

「幼い頃、皇帝とは天の位に属する身だと教えられたが、何も変わらぬな」
「何をおっしゃいます。尊い御身になられたというのに」
「では俺のどこが変わったというのだ。殿下が陛下になって、俺が朕になるだけのことだ」
「陛下…」

 曹丕が帝位に野心を持ったのは、ある日突然だったという。曹丕は張繍との戦で死んだ兄曹昂を、ただ一人の正当な跡継ぎだと、兄の死後まで思っているようだった。 曹昂が跡を継がぬなら、誰が継いでも同じことだと。父が気に入っているなら、幼い曹沖が跡を継げば良いではないかと考えるような、そんな節もあったと。それを聞いたとき、司馬懿は溜め息をついた。

 誰でも好きな者が跡を継げば良い。自分ではない、誰かが。

 曹丕と兄弟のように育ってきた曹真や郭亦は、曹丕はいつもどこか諦めたような、それでいて何かに逆らうような、そんな目で後継という立場を見ていたと言っていた。

 そしてある日を境に、急に野心を持ったのだ、と。

 それは、多分曹植と関係があるのだ。

 兄弟のように育っていても、そして血の繋がった他の兄弟でさえも近づけないほど固かった、同じ母親から生まれた四兄弟の絆。曹植も曹彰も曹熊も、本当に曹丕を慕っていた。そして曹丕も、心から三人の弟たちを愛していた。

 だがある日、唐突にその関係は終わったのだ、と。
 そしてその最初の亀裂は、まず曹丕と曹植の間に入ったのだ、と。

 頸木を入れたのが、どちらだったのかは確かではない。この関係を近くで見守ってきた二人も、それについては分からない、と頭を振った。だが、それを曹丕がしたとこととは、司馬懿には思えなかった。

 では曹植が。

 司馬懿は飾り立てられた曹丕の横顔を見つめた。うっとおしげに弁を払い、曹丕は忌々しげに舌を鳴らした。

「まだ儀式は続くのか」
「御意」
「皇帝など、こうした儀式に寄りかからねば、何の権威もないものだということだな」
「陛下、何ということを……」

 曹丕はある日を境に、帝位を望んだ。司馬懿の知っている曹丕は、既に野心を持った主だった。
 だが、主の望む物はそんなものではないのだ。

 力を。

 絶対的な、力を。

 望むことを全て叶える、純粋な力を。

 曹丕の瞳はあまりに暗く、望み続けた力を手に入れた今、絶望だけが渦巻いていた。
 曹彰は殺された。曹熊も。そして曹植は、自邑に籠もり、一歩も出てこようとしない。
 誰も入り込めぬほど愛し合った、四人だったのに。

「陛下、もうお時間です」
「……そうか」

 その時。

 身を翻す曹丕の裳裾が、小さな叫びを上げた。
「陛下!」
 欄干に裳裾が絡み、絹が小さく裂けたのだ。
「禅譲の御衣装に、何ということが!」
「良い、構うな」
「ですが陛下!」

 跪いたまま思案する司馬懿に、曹丕は興ざめた声をかけた。
「今日より他に着ることのない衣装だろう?」
「そうは言いましても……!」
 手を打って女官を呼ぼうとする司馬懿を、曹丕は手で制した。

「ならばこれは、朽ち果てるべき衣装だ」

 何を言われたのか分からなかった。窺うように見上げた視線の先に、ぞっとするほど冷たい曹丕の顔がある。
「……陛下」

 朽ち果てるべき衣装。

 朽ち果たすべき衣装。

 そう、朽ち滅ぼすために。何かを滅ぼし、亡き者にするために。その為にこの主は今ここにいる。

 凍りついた司馬懿に、曹丕はそっと嗤って見せた。

「もう着ることもない衣装のために、人の手を煩わせることもない。また不吉だなんだと言い出されるのも面倒だ。お前と俺が黙っていれば、こんな綻びなど誰も知らずに箱に詰められ、どうせ朽ち果てるだけの衣装だ。もう時間なのだろう? 皆を待たせては気の毒だ」

 とりつく島もない曹丕に、司馬懿は黙って従った。

 自分の知っている主は、すでにこの主だった。そして自分は、この主についていくと決めたのだ。

 風が香の匂いを吹き消した。



 そこにあるのは、ただ二人の足音のみ。

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