爪切り |
許 ![]() 「虎痴殿、主公にお目通り願いたいのだがな」 「元譲殿ならわざわざオラに訊く事ないべ」 許 ![]() 「いやいや、虎痴殿が立っておるのに、勝手に入るわけにはいかんよ。あぁ虎痴殿も一緒にどうだ? あんこ玉をもらってきたぞ?」 「甘い物ですか?」 大きな体が期待に揺れている。自分より相当大きいこの男を、ついつい可愛いと思ってしまうのはこんな理由だ。 「あ、でもオラは今日お当番だし……」 「はは、ではまず主公にお伺いを立てるとしよう」 扉を開けて曹操に声をかけると、曹操は窓に向かって小さな体を更に小さく丸め、背を見せたまま振り返りもせずに返事をよこした。 「おお、何だ、差し入れか?」 「は。ところで主公、今ここには主公を含め四人ほどおりますが」 「うむ。虎痴も数に入れてやれ」 「は」 許 ![]() 許 ![]() 「何をしてるんですか?」 「ん? 足の爪を削…あっつ! 虎痴! お前が話しかけるから深爪をしたではないか!!」 「え!? す…すいません、あのオラその……」 可哀想なほど顔を赤く染めたり青く染めたりする許 ![]() 「大丈夫だよ、話しかけられなくたって主公、さっきからずっと深爪しまくってるもん」 「うるさいぞ、妙才!!」 見ると小刀を握った右手にも、足を押さえている左手にも、何本か爪先が赤く滲んでいる指がある。 「うわぁ痛そうだべ……」 「しかもガッタガタで! 主公、本当に細かいこと苦手ですよね」 「うるさいと言っとるのに! あぁくそ…」 儂はでかいことブチ上げる方が得意なんじゃとぶつぶつ言いながら、曹操はまだ爪を削っている。 「主公、爪は縦に避けますから、小刀は横に使わないとすぐに深爪をしますよ」 「話しかけるな」 「……ガタガタですな」 「うるさいっつーのに」 長身の夏侯コンビに、更に巨大な許 ![]() 「あぁうっとおしい! あっちで大人しく座っていろ!!」 刃物を持ったままいきなり曹操が振り返ったので、三人は反射的に飛び退いた。 「主公……。そういう危険な真似を文官の前でしてはダメですよ……?」 「人死にが出ますからね……」 「うるさい。あいつらはお前らみたいに無遠慮な真似はせんわい」 ようやく最後の爪を削り終えると、一息ついてからこれ以上からかわれてはかなわないとばかりにそそくさと沓を履く。夏侯惇がいつの間に用意させていたのか、水を張った盥を曹操に差し出した。 「だいたい、何で深爪くらいで儂がこんなにからかわれんといかんのだ」 「別にからかってなどおりませんよ。さ、召し上がりませんか?」 手を洗い終え、憮然と席に着くと、曹操は厳めしい表情を崩さずに長い楊枝であんこ玉を突き刺した。お茶はちょうどのタイミングで許 ![]() 「言っとくが、爪を削るのが苦手なのは儂だけじゃないぞ。お前ら今度子桓の指でも見てみるが良い」 「……子桓様ですか?」 「うむ。よく見るとあいつもよく深爪をこさえているからな」 あいつはそういういらんとこばっかり儂に似てと渋面を作って言いながら、引き合いに出せる人物がいることが曹操は少し嬉しそうだ。 だが三人はおかしな沈黙をしたまま顔を見合わせている。 「ん? 何だ?」 「いえ主公、それは少し情報が遅いようですな」 「何?」 少し言いづらそうに夏侯惇が続ける。 「最近、子桓様はそれはもう美しい爪をしていらっしゃますよ」 「なんだと!?」 曹操は思わず気色ばんだ。どうやらこの様子だと、曹操の「深爪仲間」は、息子の曹丕だけだったらしい。曹操は卓に掴みかからんばかりにして「いつの間にあいつはそんなコツを掴んだというのだ!」と夏侯惇にくってかかった。 「いや、多分末将は、あれは若君が削っているのではないと見ています。何しろ主公がこれだけかかってコツが掴めずにいるものを、お若い子桓様が掴まれたとは考えにくいですからな」 「何だそれは。なんだか至るところが嫌味だぞ……。まぁいい。しかしあの子桓が体に刃物を当てさせるとなると……。五年も前なら子建当たりがしてそうだが、今のあいつらでは無理だろうし……」 なんだかんだ言ってこの父親はよく見ているなと、その場にいる曹操以外の全員が苦笑する。だが曹操は考え事に夢中で、三人の様子に気が回っていないようだ。 曹操は何度か「いやしかし」とか「でもあいつしか」などと口の中で呟いてから、上目遣いに三人を見つめた。 「……仲達か?」 「おそらく」 「ふむ…」 楊枝を持ったまま、曹操は腕を組んで唸った。最高級の蜀錦で作った服にあんこが付いたが、思案中の曹操にとってそんなことは些細なことだ。 「もうそこまで手なずけたか。儂は三年はかかると思とったがな」 司馬懿を曹丕につけて、まだ二年とちょっとしか経っていない。 年嵩の息子達は皆、下らない家臣共のせいで疑い深くなっているが、曹丕のそれは人間不信と言っても良い。用心深いのに越したことはないが、度を超した警戒心は臣下の反感しか買わないことを曹操は身をもって知っていた。 だからその不信感を解く第一歩になればと「二心のない人間」であり「曹操に関心のない人間」である司馬懿を曹丕につけてみたのだが、まさかこれほどまで早くに手なずけるとは……。 「仲達殿は優しいから、子桓様も一緒に居れてきっと嬉しいべ」 許 ![]() 「優しいというよりも、やはりあの忠義心は目を見張る物があります。心酔しきっていると言っても差し支えはないでしょう」 その後を夏侯惇が受けた。 「ま、子桓様はお綺麗な方ですからね。主公のご子息と言うことを抜いても、子桓様の歓心を買いたい人間は結構いるんじゃないですか?」 更に後を継いだ夏侯淵の楽天的な台詞に、曹操が溜息をつく。 「そんな奴が周りに五人もおったら、子桓もあそこまで人間不信になったりせんわ」 「あ…」 夏侯淵が気まずげに「すいません、軽率でした……」と謝るのを横目で見てから、曹操は、だが今度は少し色合いの違う溜息をついた。 「まぁしかし、何にしても僥倖であることには間違いないな」 曹丕が見ればきっと我が目を疑うであろう父親の顔で、曹操は満足そうに頷いた。この顔を1度で良いから実際に見せてあげれば良いのに、という3人の思いは、しかし言えば必ず曹操の機嫌を損ねるので口に出せずにいるのだけれど……。 「ん? 待てよ?」 少しぬるくなってきたお茶を口に含みながら、曹操ははたと動きを止めた。 「話がずれて忘れるところだったが、それじゃあやっぱり子桓は爪を削るのがへたくそなのだろう?」 ……いきなり何をこのオヤジは嬉しそうに言い出すのか……。 3人は一瞬話の展開について行かれず、「はぁ…」と曖昧な返事をするのが精一杯だった。 「ではやっぱり儂だけ爪のことで槍玉に挙げられるのは不本意ではないか!」 「なら主公も誰ぞに爪を削らせたらいかがですか?」 夏侯惇がなんとか正気に戻って切り返す。曹操はその言葉にほんの少し考え込んでから「では元譲が削ってくれ」と詰め寄った。 「末将はご辞退申し上げます」 「自分で言い出したくせに何だそれは」 「もし万が一深爪でも作った日には、主公に何と言っていじめられるか分からないではありませんか」 「儂がいつお前をいじめたと言うのだ」 「この展開から行けば必ずいじめられますよ。第一、末将も爪は妻が削ってくれますので、所帯を持って以来、自分ではあまり爪の手入れをしたことがありません」 きっぱりと言い放った夏侯惇の顔を、曹操は一瞬ぽかんと見つめた。慌てて夏侯淵を振り返ると、「俺も同じくです」と情けない顔で笑っている。 「虎痴は!?」 「オラんとこのは髪いじったり爪いじったりするのが好きで、背中だってオラに洗わせたことがないべ」 「じゃあ今まで自分で爪削っとったのは儂だけか!? 儂はまじめに自分のことは自分でしとったのに、それでお前らにからかわれたと言うのか!??!?」 「……ですからからかってませんって……」 火が点いてしまった曹操には、もう夏侯惇の声など届かない。 「だいたい夫婦でそんな事するのって、それって普通の事なのか!??!?」 「……まぁ、身の回りのことはたいがい妻に任せておりますが……。やはり妻以外のものに刃物を使われるのはあまり気持ちのいいものではありませんからな」 ですから主公もご夫人方のうちどなたかに削らせてはという提案は、半分も言わないうちに却下された。それはそうだろう。曹操にとって女性は華であって実用の為のものではない。第一刃物を任せられるほど心やすい女性がいるのなら、こんなに家庭がごたごたしたりするものか。 「むぅ……、何だか儂は今日価値観の転換を求められている気がするぞ……」 「いや主公、たかが爪のことではありませんか」 「うぅむ……」 「そう難しく考えられずとも……」 「うぅむ……いや、元譲、それならばなおさら儂の爪を削ってくれ」 「いえ末将は……」 曹操は少し唇を突きだして夏侯惇を睨みつけた。 「お前らがそんなずるしとるのに、儂だけまじめに自分で削っとったらバカみたいじゃないか!」 「ずるって……」 「それにお前ら仲良く爪なんか削らせて! これじゃぁまるで儂だけひとりぽっちみたいじゃないか!!」 ……ひとりぽっち……? もういい年こいてるくせに、何て可愛いことを言い出すんだかと、3人は密かに口元を緩ませた。 「とにかく、これは命令だからな!」 ……こんな爪くらいのことで伝家の宝刀を抜かれてしまうと夏侯惇もどう返事をして良いのやら分からないが、とにかく命令は命令だ。拝手の礼を取ると「謹んでお受けいたします」と、丁寧に頭を下げた。 朝議が終わり、退室しようとした曹丕は、いきなり曹操に呼び止められた。何か仕事の話だろうか。 曹丕は型どおりの礼をして、父親の前に進み出た。 「子桓、両手をここに出してみろ。甲の方を上にしてだぞ」 「は?」 何のことだろうかといぶかしみながら曹丕が両手を差し出すと、曹操はは綺麗に整った息子の指先を見ながらふむ、と頷いた。 曹操の後ろに控えている夏侯惇・夏侯淵は事情を知っているだけに、笑いをこらえるのに苦心しているようだった。曹丕と、彼の後ろ数歩の所で控えている司馬懿が神妙な顔をしているので、余計におかしくて仕方がない。 「ふむ…。綺麗に手入れしているな」 「……ありがとうございます……」 何かの気まぐれだろうか。父は時々こうした気まぐれを起こすが、曹丕はそんな父にどう対応したらいいのか分からず、いつも以上に緊張してしまうのだ。だが、こういうときの曹操は自分の考えにばかり夢中で、息子のそんな様子に気がつくことは少ない。 曹操はもう一度頷くと、今度は自分の手を曹丕に見えるようにかざした。 「どうだ?」 「…は…」 父が自分に何を求めているのかまるで分からない。どうだというのだから、指先や爪について何か言うべきだろうか……? 見たところささくれなども特に出来ていないし、爪だって普通の爪のようだが……。 「丞相閣下の爪は丸く綺麗に整えられていると思いますが……」 その台詞は父の気に入ったらしく、曹操は即座に「そうだろう!?」と目を輝かせた。 「やはり元譲、これからもお前に頼むからな。うむ。子桓、呼び止めて済まなかったな。もう行っても良いぞ」 「……は、失礼いたします……」 上機嫌な父が夏侯惇・夏侯淵を連れてその場から去るのを、曹丕と司馬懿は頭を下げて見送った。そしてその場から完全に3人が見えなくなると、どちらからともなく2人は顔を見合わせる。 「……今のはどういう意味だ……?」 「……すいません子桓様、わたくしも何がなにやら……」 白昼夢でも見ていたのだろうか。 狐に抓まれた様な気持ちで、2人はいつまでもいつまでもその場に立ちつくしていた……。 |
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