竹林を揺らす風 |
風の強い夜だった。賈が机に向かって書をしたためていると、竹林の向こうで馬のいななく声が聞こえた。いや、気のせいだろう。人の行き来がある場所ではないし、こんなに風の強い夜ではないか。 賈の屋敷は許昌の中心からは大分外れたところにある。人の出入りを嫌う賈には、静かなだけが取り柄で、不便でしかないこの町外れの屋敷が何処よりも住み易かった。 また書に顔を戻すと、しばらくして家人がそっと扉を叩いた。 「曹子桓様がお見えです」 「……そうか。お通ししてくれ」 「は」 何の前触れもない公子の訪問は、これが初めてのことではなかった。時々思い出した様にふらっと現れる曹丕は、いつもどこか思い詰めた目をして、賈の胸を痛ませた。 曹丕がこの屋敷を訪れたからといって、何をするでも、何を話すでもない。ただ何となく傍にいて、何となく帰っていく。 それは、いつもの事だった。いつも通りのことだった。 すぐに部屋に通された曹丕を見て、賈は何故曹丕が今日ここに来たのかを知った。 曹丕の形の良い唇の端が、赤く滲んで腫れていた。手首には軽く鬱血した痕が見える。髪や衣装こそきちんと整えられていたが、何があったのかは一目瞭然だった。 だが、それを見なかったように振る舞うのが賈である。 賈は軽く居ずまいを正すと、曹丕に席を勧めた。臣下が公子を迎えるにしてはあまりにもおざなりな対応だが、それがこの二人の作法だった。 「夜分に邪魔をする」 「構いませんよ。書を作っておりました故、何のおもてなしも出来ませんが」 「かまうな」 曹丕が座り込むと、賈はその様子を目の端で捉えてから、また筆を手にした。 「何かお飲みになりますか?」 「いや、いい」 「では、何かお召し上がりになりますか?」 「いい。仕事を続けてくれ」 「は」 墨の良い香りが辺りに立ちこめている。竹林を揺らす風の音が強い。 「海のほとりにいるようだ」 「子桓様、海をご存じなのですか?」 「いや、こんな音がするのだと……あぁ、誰が言ったのだったか……」 思い出せないことが残念なようにも、どうでも良いようにも聞こえる声で呟くと、曹丕はそのまま外を見た。月明かりに浮かぶ雲の流れが速い。多分、明日には黄砂が飛ぶだろう。 しばらくそうしてから、曹丕は出し抜けに口を開いた。 「文和、話をしてくれ」 「さて、何をお話しいたしましょうか」 「何でも良い。昔の話をしてくれ。昔の、何か面白い話を」 「面白い話と申しましても……」 賈はその昔董卓に仕え、董卓が死ぬと次いで李カクに仕え、これを裏切って張繍に仕えた経歴を持つ。三君共に曹操の敵であった。周りの声を気にしているのだろう、賈はその時の事の話をしたことがない。 「そうですね。面白いことなど、何もありませんでした」 「では今は」 「今も」 賈は書に目を向けたまま、素っ気なくそう答えた。曹丕はその無礼な返事に眉を寄せるどころか、どこか感心したような溜息をつくと、立てた膝に小さく頭を乗せた。 「主を替えるというのは、どういう気持ちがするものだろう」 「主と仰ぐに足らぬ者を見捨てるだけの事。大した事ではございません」 「……そうか」 主を替える。 もう一度、曹丕は口の中で小さく呟いた。どこか歌うような、夢見るような声だった。 「……俺も、どこか違う国へ行ってみたいと思うことがある」 「ほう」 聞き捨てにできない台詞を、曹丕はぼんやりと口にした。普段なら決してそんな事を口にする曹丕ではない。だが、誰にも言ったことのないその台詞を、曹丕は時々胸の中で夢想することがあった。 自分が曹家の第一子でなければ、と。 どこかよその国でただの人間として暮らしていたら、自分は果たしてどこまで事を成すことが出来たのだろう。例えば、呉の沢は百姓の出だという。百姓といっても許のような豪族ではなく、まさしくただ一介の百姓だ。自分がそんな家に生まれていたら、それでも自分の名は天下に聞こえただろうか。 そう、蜀の劉備。彼のように筵売りの家に生まれたら? 曹子桓が筵売り。この考えは悪くない……。 曹丕は思考の淵で小さく嗤った。こんな事は誰にも言えない。言ったが最後、皆がどんな反応をするか目に見えているではないか。 ……この男だから言えるのだ。 曹丕がそっと賈の姿を伺うと、賈はそれに気づいているのかいないのか、不意に口を開いた。 「もしも他国へ仕えるのであれば、身を慎むことが大切です」 「何?」 まさか返事を寄越すと思っていなかった賈が口を開けたので、曹丕は驚いたように顔を上げた。 賈は書から目を上げずに、当たり前のことを話しているかのような顔をして、淡々と先を続けた。 「他国へ仕えれるのであれば、あなたの経歴はまっさらになったと考えた方が宜しいでしょう。また、元の国を出奔して出てきたのであれば、再び同じことを繰り返すかもしれぬと、人は違う目であなたを見ます。それ故、身を慎むことが大切です」 まじめな顔でそういってから、賈はにやりと笑って見せた。その悪戯めいた笑顔に、曹丕も思わず笑い返した。 「そうだな。俺は丞相閣下の息子であるから文武に秀でているなどと言われているが、他国に仕えた時、それが何処まで通じるのか。真価が試される時だな」 「そういう意味ではありません。あなた様なら何処の国でもその点では問題ありますまい」 「俺は世辞は嫌いだ」 「誰が世辞など言うものですか」 二人はもう一度見つめ合うと、小さく笑った。 それから二人はまた何を話すでもなく、賈は書の続きをしたため、曹丕は雲の流れを目で追った。 どれだけそうしていたのだろう。馬が小さくいなないた。 「この風だ。馬を怯えさせては可哀相だな」 「もうお行きになりますか」 「あぁ。いきなり来てすまなかった」 「何のおかまいも致しませんで、申し訳ありませんでした」 礼をして顔を上げると、曹丕はじっと賈の姿を見つめていた。 何の表情も浮かんでいない曹丕の顔。この顔を見ると、いつもの冷たい無表情が「無表情を装った顔」なのだと気づく。 曹丕は子供のような顔をしていた。唇に血を滲ませながら、手首には屈服の証を刻んでおりながら、それでも曹丕の顔はまるで穢れを知らない子供のようだった。 あぁ、この人は……。 賈は口に上りかけた言葉をそっと飲み込むと、曹丕を門まで送っていった。 「また、いつでもおいで下さい」 曹丕は小さく頷くと、そのまま馬首を返して見えなくなった。 遠い蹄を聞きながら、賈は小さく呟いてみる。 「わたくしが、どこか別の場所へお連れいたしましょうか、子桓様」 あるいは曹丕は、賈がそう言い出すのを待っていたのかもしれない。 子供の目をした子桓様。あなたが自由に息をつける場所は、確かに此処ではないのだ。 決して告げることの出来ないその言葉を、賈はそっと飲み込んだ。 そうして、多くの物を身に纏わされた、本当は小さく儚い曹丕のことを、どこか誰も知らない二人だけの場所に連れ去ってしまいたいという自分の想いも、そっと胸の中にしまった。 風が強い。 竹林を渡る風の、何という強さか。 胸が痛むほどに……。 |
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