言焦の風

   



 朝儀が終わると、夏侯惇と夏侯淵は曹操に呼び出され、執務室に入ると意外な辞令を言い渡された。
「二人で豫州に行ってくれ」
「豫州にですか?二人で?」
 行軍であるなら、夏侯惇の下に付くのは張遼辺りだろうし、夏侯淵の下には張コウか徐晃辺りの武将がつけられるのが妥当だろう。まして豫州には今、何も問題はなかったはずだが……。
「いや、行軍ではない。名目は……そうだな、巡視で良い。正使が元譲で、副使が妙才だ」
 二人は顔を見合わせた。すぐに諾の返事がないことを不審に思い、曹操が「返事はどうした」と促す。
「いえ……畏れながら申し上げますが……妙才の位にあって、副使というのはいかがな物でしょうか……。正使に対して、副使の位が高すぎませんか?」
「ふむ…まぁそうなのだが……」
 曹操は小さく口を曲げると、実はな、と前置きした。
「父上の書き付けが見つかったのだ」
「お父上の?」
 夏侯淵が聞き返すと、曹操がちらりと夏侯淵を見て、「二伯で良いぞ」と意地悪く笑った。
 二伯・二叔は二番目の伯父・叔父に対する親称である。二人は子供の頃、曹崇のことを二伯・二叔と呼んでいた。そう呼ぶと、曹崇が無邪気に喜んだからだ。ちなみに、曹崇は次男であるから、長男の息子である夏侯惇にとって曹崇は二叔に当たり、三男の息子である夏侯淵にとっては二伯に当たる。
 先日夏侯淵が曹操の父親は次男なのにと言った事に対する当てこすりだろう。あの話はその場で忘れると言ったくせに……!
 一人事情を知らない夏侯惇が「何の話です?」と不審気な顔をしている。
「いや、何でもない。こちらの話だ」
 曹操の目が何かを含んでいる。夏侯惇は少しだけ眉根を寄せた。
「そう、それで、父上の書き付けだが。ただ一言、『父母は夏侯の墓に眠っている』と書かれていてな」
「……それは……」
 二人はどんな顔をして良いか分からなくなった。
 もちろん、曹崇は曹家の墓に眠っている。曹騰が亡くなった時に帝から土地を賜って建てられた、壮麗な墓廟だ。
 養父曹騰は邸宅を賜っていたと言っても、引退するまでのほとんどの時間を帝の側に侍っていた。邸宅に戻るのは夜の間だけで、そこには母と呼べる人もいない。曹崇は自分たちには分からない、寂しい思いをしてきたのだろう。実の両親を慕う気持ちが痛々しかった。
「そこで夏侯の宗廟に父上の報告をして、何か供物を捧げてきて欲しいのだ。他の誰にもこの事は任せられぬ故、二人で行ってきて欲しい。儂が行ければ一番良いのだが、そういうわけにもいかんしな。だが私用でお前達に動いてもらうのもなんだから、一応巡視の形を取って、道中の慰撫にも努めてくれ。詳しい事は追って沙汰する」
「はっ」
 二人が謹んで拝命すると、曹操は満足そうに頷いた。
 だが執務室を出ると、夏侯惇と夏侯淵は、二人で押し黙った。
「……何をたくらんでおられるのだ……?」
 夏侯惇の低い問いに、夏侯淵はギクリとした。
「主公ならばただ命ずれば良いものを、周りが絶対に口を挟めぬ言い訳まで用意して……。」
 二人とも、それぞれに心当たりがある。あの流れでこの流れなのだ。
「……都から離れた場所で、二人きりで話し合ってこいということか?しかもわざわざショウまで行って。ショウ……?子供の頃に戻って、気持ちの整理をしてこいということか?お前がバカな事ばかり言うからこんな事になったのだぞ」
 夏侯惇に睨まれて、夏侯淵は小さく謝りながら、目がどうしても泳いでしまう。
 いや元譲…!これ、絶対、やっちまえってことだと思うんだけど……!!さっき「二伯」とか言い出したのも、儂にケンカをふっかけてきたのだから分かってるなって事だよね!?これだけお膳立てしてやったんだから、まさか腰抜けではあるまいなって事だよね!?
 確かに元譲にいらん事は言ってないみたいだけど、だけどいらん事言う以上に、いらん事はしないでくれ!!頼むから……!!
 夏侯惇の横顔を盗み見た。
 正使と副使……。俺、ひょっとして控えの間で寝るの?元譲の?いや待て……ちょ……本当に俺のなけなしの理性が……!!
「なんだ妙才、すごい顔だぞ」
 夏侯惇が自分を見る。右目の睫毛が長い。クラクラして、夏侯淵はどっと汗が噴き出すのを感じた。
「いや……いくら何でも、こんな事のために豫州まで行って来いとは、主公はいちいちやる事が半端ないなって思って……」
「全くだ……」
 夏侯惇はやっと夏侯淵から目を離して、溜息をついた。
「……だが、命令は命令だ。典軍校尉を副使に据えるとは気の毒だが、仕方あるまい」
「いや、俺そういうのはどうでも……」
 頭の中で、曹操の台詞が何度も何度も蘇る。
『……お前は今までに一度も、元譲の方がお前に惚れていると、思ったことはないのか?』
『人生は一度きりだ。もしも元譲がお前に惚れていたとして、それでもお前は今のままで良いのか?』
『元譲が恐れているのは、お前との交わりではない。お前が子供過ぎることだ』
 ぶるぶるっと首を振る。そんな事があるわけない。あの元譲が、まさかそんな……。
「妙才?」
「いや……ごめん、豫州に行くとなると、取りあえず仕事の整理しないといけないから、もう行くわ……」
「そうだな」
 夏侯惇が頷いて自分の執務室へ去っていくと、夏侯淵は一瞬曹操の執務室に駆け込もうかと思った。しかし曹操の口から命令が出てしまった以上、もう覆す事はできないのだ。
 どうしよう……。
 手のひらが冷たくなった。
 このまま時が止まって、出立の日が来なければいいと、真剣に思った。



「元嗣、話がある」
 執務室に戻るなり、夏侯惇は副官の韓浩を呼び出した。曹操から豫州行きの任務を受けた話をすると、韓浩はほんの僅かに目を見開き、暫く何事かを考え込んでいるような顔をした。
「どうした元嗣?」
「いえ」
「とにかく留守の間、部隊を任せたぞ」
「……」
 珍しく、韓浩が返事をしない。
「元嗣?」
「……将軍、失礼してもよろしいでしょうか?」
「何だ、どうした?」
「失礼いたします」
 夏侯惇の問いに答える事も、それ以前に部隊を任せると言ったのに、それに返事をする事もしないでさっさと出ていった韓浩に、一瞬何事かと思ったが、出ていった物は仕方ない。後で話を聞くとして、夏侯惇は取りあえず卓に着いて大きく唸った。
「……俺と妙才で、ショウへ……?」
 あの日曹操は、『もう誤魔化しようのないところに来ているのではないのか』と迫った。『妙才はお前を得ようとする。必ずだ』とも。それがいきなり、この展開か。まるでお膳立てでもしているように……。
 夏侯淵に触れられた頬に手を当てる。
 あの時、夏侯淵は見知らぬ男のような顔をしていた。何かきっかけがあったら、簡単に自分たちの関係は変わるのだと、その顔が告げていた。
「俺が正使で、妙才が副使だと……?いや、副使と言っても相手は妙才だ。まさか県令達も、副使に正使の控えの間をあてがう事はしないよな……?」
 そこまで考えて、夏侯惇は思わず赤くなった。俺は何の心配をしているのだ?巡視だ。巡視に行くだけだ。他の事は考えるな。
 頬に触れた手は熱かった。
 その手の熱さを、夏侯惇は忘れようと首を振った。



 夏侯惇の元を辞すると、韓浩はすぐに曹操の執務室に向かった。護衛の者に取り次ぎを頼むと、韓浩の剣幕に少しだけ驚いたように、護衛兵はすぐ取り次ぎに行った。
「閣下」
「何だ、妙才の奴でもまた来たか?」
「いえ、韓護軍が面会を願い出ております」
「元嗣が?何だ?通せ」
「はっ」
 韓浩が自分から面会を求めるなど、今まで無かった事である。豫州行きの事と無関係ではあるまい。入ってきた韓浩は、厳しい顔をしていた。韓浩は自分から曹操に物を言える立場ではない。よほどの覚悟であろう。
「どうした」
「畏れながら、お願いしたき儀があってまかり越しました」
「何だ」
「豫州への巡視の件、某を随行に加えていただけませんか」
「ん?お前を随行に?何だ、それでなくても妙才を副使にしたといってわいのわいの言われているのに、今度は護軍のお前を随行に?」
 からかうように言ったのに、韓浩はやけに張りつめた顔をしていた。
「どうしたのだ、元嗣。まさか元譲の身の回りの世話は自分でないとできないとか言うつもりか?」
「御意」
「ん?」
 韓浩の睨むような顔を暫く眺めていた。何が言いたいのだ……?暫くそうしていると、曹操は「あ!」と叫び声を上げた。
「そうか!」
「それです!」
 韓浩が身を乗り出す。
「それは儂も考えてなかったぞ……!」
「これは戦と同じです。あらゆる事態を想定してください。事は精神的な問題なのです。いつもの将軍方と同じようには考えないでいただきたい!」
 曹操はまじまじと韓浩を見た。こいつも大概夏侯惇の事となると、何でもお見通しだな……。
「いや、でもその通りだ。分かった、供物をショウまで運ばねばならんから、その輜重隊長にお前を任じよう。後は随時良きに計らってくれ」
「ありがたく存じます」
 礼をして出ていこうとする韓浩を、曹操は呼び止めた。
「お前、此度の事はどう思う?」
「某は、将軍の私生活はどうでも良いのです。ただ、将軍の名に疵を付けるわけにはいきません」
 それだけ言うと、韓浩は頭を下げて出ていった。
「……あいつ、元譲のお袋か……?」
 もちろん、本物の母親はあんな人ではないが……。いや、そうでもないか。物事のけじめに厳しい人だから、ここに元譲の母上がいらしたら、儂もぶん殴られるかもしれん……。
 そういえば、子供の頃にあんまりいたずらをしすぎて、夏侯惇の母親に手の甲を叩かれた事があった。そんな事をされたのは初めてだったので曹操はえらく驚いたのだが、一緒にいた夏侯惇と夏侯淵は頭にゲンコツをもらっていたのに、馴れているのか平気な顔をしていた。夏侯惇がすぐに手を出すのは夏侯の血などではなく、絶対あの母親の影響だ……。
 心の中で、曹操はそっと、暫く会っていない二人の母親に手を合わせて謝った。それでも、儂はこのままで良いとは思えないのだ。
 夏侯惇と夏侯淵の母親は、よく似た顔をした、一つ違いの姉妹だった。夏侯惇の母親とは違って、夏侯淵の母親はよく泣く人だったように記憶している。……きっと儂、泣かれるな……。いや、絶対泣くわ、あの人……。
 先の展開を想像して、曹操はちょっとだけ顔をしかめた。うまくいって欲しいような、いって欲しくないような、自分の気持ちも複雑である。
 まぁ、後はなるようになるだろう。うまくいかずに殴り合って帰ってきたとしても、それならそれで良い。とにかく、腹の中の物を一度全部吐き出して、その上で収まるべき所へ収まって欲しいというのが、曹操の本音だった。
「ショウにいた頃から好きだった、か……」
 ショウにいた頃の二人がどのような蜜月を過ごしていたのか、自分は知らないのだ。なんだか、すごく寂しい気がするのはどうしてだろうか……。



 出立の日が来なければいいと思っていたのは夏侯惇も夏侯淵も同じだったが、容赦なく日程は迫り、とうとうその日を迎えた。夏侯惇と夏侯淵はお互い気まずい顔をして、あまり顔を合わせないようにしながら曹操の見送りを受けた。曹操を睨みつけたい気持ちだったがもちろんそんな事はできないので、余計に腹が立つ。しかも韓浩が輜重隊長とは。俺の留守中どうするつもりなのだ。曹操を睨みつけられない分、夏侯惇は韓浩を睨みつけたが、韓浩はいつも通りの無表情を貫いていた。
 道中では、村々で困った事がないか、橋や堤に不備はないか、役人に理不尽な事を言われていないか等を聞き、麦などを分けたりして慰撫に努めた。こういうとき、夏侯惇も夏侯淵も、あまり強面でないので村人達も気楽に口をきいてくれて、お優しい将軍様だと褒めそやされたりする。これが曹仁や于禁辺りだと、怖がって近寄ってももらえなかったとこぼしたりするのだ。
 夜は慰撫の延長で、富農の家や荘園の当主の家に宿を借りた。慰撫があるので、一日の行程はそれほど進まない。村の中の事だし、伝令があらかじめ無駄な饗応は一切禁ずる旨を伝えてあるので、居心地はそう悪くなかった。部屋は雑魚寝の事もあったが、逆にその方が気楽だった。ヘタに二人だけ別室を宛がわれたりすると、変に気詰まりで口も聞かず、二人とも後ろを向いて眠った。夜中に、相手の打った寝返りに、どきりとして目を覚ました。意識しすぎているのは分かっていたが、どうしていいのか分からなかった。
 話をするどころではなかった。壁の薄い民家で、隣の部屋に他の奴がいると思うと、ろくに話もできなかった。
 まんじりともしないまま行程は進み、初めての県城にやっと到着した。
 二人とも、思わずつばを飲み込んだ。
 ここが、決戦の場に見えた。



「ようこそおいで下さいました」
 県城に着くと、県令を始め、県の官吏共が雁首を揃えて、門の外まで出迎えに来ていた。よくまぁここまで揃えたなと言いたくなるような、大行列だ。これでは今日は、役所が何の機能も果たしていないと、言っているようなものではないか。
「……なんか、嫌な予感がしないか?」
 夏侯惇が嫌そうな顔をすると、夏侯淵も眉をしかめて頷いた。案の定、県城の中に案内されてから、荷ほどきもそこそこに歓迎の宴が始まった。あれほど無駄な饗宴は禁止だと言ってあるのに、バカみたいに豪華な宴だった。
「……閣下の宴だってこれほど派手ではないぞ」
「ああ、閣下は何事も倹約を旨とされているからな」
「こんな宴を開けるのだ。よほど裕福な県なのだろう」
「道中の村々はそうでもないように見えたぞ?」
「それはおかしな話だな。明日から色々と検分する所が増えたのではないか?」
「第一長旅の我々を労ってくれようというのなら、今日くらいはゆっくりさせてもらった方がよほど気が利いているのにな」
 聞こえよがしに同じ顔が顔を寄せ合って交互に言いまくっているので、県令達の顔が段々蒼くなっていった。
「そうおっしゃられますな、将軍。名にしおう二将軍が来られたので舞い上がっておられるのですよ」
 韓浩が助け船を出すと、県令達は額をこすりつけんばかりにして謝意を表した。
「だが、よもや将軍方に、いらぬ心遣いなどをしようとは思っておりますまいな?それは将軍方の最も逆鱗に触れる所であり、当然司空閣下の逆鱗でもあると、もちろんお心得でありましょう。将軍方は閣下の覚えめでたい立場であるだけに、お怒りが閣下の元に至るのも、稲妻のごとき速さでありますよ?」
「は…ははぁっ!」
 慌てて数人の官吏達が立ち去っていくのが見えた。二人の部屋に山と積まれた金銀玉宝やら女やらを慌てて片付けに行ったのだろう。
「ふんっ」
 夏侯淵が聞こえよがしに鼻を鳴らして酒を煽った。二人とも、豪華な馳走にはわざと箸を付けずに、酒ばかり煽っている。いい加減気まずい雰囲気になってきたので、宴はすぐにお開きとなった。
 部屋に案内されるとさすがに夏侯淵の部屋はちゃんと別にあつらえてあって、二人は何となくほっとして、部屋の前で別れた。
 だが。
 曹操が旅を仕立てた目的を考えると、このまま話し合いもせずにいて良いのかと、夏侯惇は少し悩んだ。あれは、単純に話し合ってこいという事かもしれない。いや、でも……。
『妙才はお前を得ようとする。必ずだ』
 夏侯惇は残された右目をきつく閉じた。曹操の言葉は予言のようで恐ろしかった。絶対に、夏侯淵とだけはそういう事になるまいと、固く誓っているのに。
 部屋に入ると、夏侯惇は早々に夜着に着替えた。驚いたことに、敷布は絹だった。皇帝でもあるまいに。忌々しさに額がぴくぴくと攣きつった。あぁくそ、もう寝てしまおう。何も考えずに、さっさと寝てしまおう……。
 夏侯惇は布団に入って目を閉じた。なかなか、眠りは訪れそうにはなかった。宴が早くに切り上がった分、夜は長かった。まんじりともしないまま、時間だけが過ぎていった。



 同じ頃、夏侯淵は一人、臥牀の縁に座って曹操の言葉を思い出していた。毎日のように、その言葉は頭の中に響いて、夏侯淵にのしかかる。
『……お前は今までに一度も、元譲の方がお前に惚れていると、思ったことはないのか?』
『人生は一度きりだ。もしも元譲がお前に惚れていたとして、それでもお前は今のままで良いのか?』
『元譲が恐れているのは、お前との交わりではない。お前が子供過ぎることだ』
 考えれば考えるほど、苦しくなる。
 曹操がそう言ったのだ。曹操が、夏侯惇が自分に惚れているのではないか、と。人の心を見透かし、予言者のように全てを見通す、あの曹操が。
「まさか、元譲がそんな……」
 だが、弱い心は甘い水を求める。もしや、と思うと居ても立ってもいられなかった。
 村の宿で、夏侯惇と二人、同じ部屋で眠った。朝まで自分は眠れなかったが、背後の夏侯惇も眠っている気配はなかった。夏侯惇も、少なくとも自分を意識しているのだ。
 いや違う。あれは、俺が何かしでかすんじゃないかと警戒していたのだ。そうだ。元譲がそんな事を思うわけ無いじゃないか……。あぁ、でももし……。いや、やめろ。考えるな……!
 考えすぎて、死んでしまいそうだ。ダメだ、もう耐えられない……!
 夏侯淵は立ち上がった。
 心臓が早鐘のようだった。
 夏侯惇の部屋の前に立ち、そっと扉を叩く。中からは何も聞こえない。もう寝たのだろうか……。もう一度、今度はもう少し強く叩いてみた。やはり、応答はない。夏侯淵は少し安堵して、部屋に戻ろうとした。
 だが。
 その時、僅かに扉が開いた。
「……どうした?」
 夏侯淵は扉の中に夏侯惇を見て、狼狽えた。
 ……俺は、何をしようとしている……?
 ……何のために、ここに来たのだ……?
「いや……その……」
 夏侯惇は既に夜着に着替えていた。白い夜着が、目に眩しかった。
「寝てた?ごめん、それなら明日で良いんだ……」
「お前はまだ軍装のままか?」
「あ、いや、うん……。ちょっと、考えていたものだから……」
 夏侯惇は扉を大きく開いた。
「……そうだな。入ってくれ」
「え、でも……」
「……どこかで話し合わないといけないのだ。お互いこんなでは任務にも支障が出る。外に聞こえても面倒だ。早く入れ」
「あ…うん……」
 中に入ると、臥牀の上に夏侯惇が今まで横になっていた跡を見つけて、何となく狼狽えた。頭に血が上る。いや、違う。そうだ。話し合えと言われているのだ。話し合えと。
 夏侯惇が酒を注ぎ、盃を寄越してきた。二人は黙って酒を飲んだ。何を話して良いのか、どこから切り出して良いのか、まるで分からなかった。ただ黙って酒を過ごしていたが、そのうち沈黙に耐えかねて、夏侯淵が口火を切った。
「……元譲は、主公に何か言われた?」
「……お前は?」
「俺は……」
 言えない。そんな事、言えるはずがない。暫く二人は、また押し黙った。目を逸らしたまま、今度口を開いたのは夏侯惇だった。
「……主公は、誰かが俺を得ようとするなら、その前にお前が俺を得ようとするだろう、と。誰が俺などを得ようとするというのか。バカバカしい……」
 夏侯淵は頬がかっと熱くなるのを感じた。そうだ。主公が元譲と話をしたのは、俺と話をする前だ。あの時主公は、俺が子供の独占欲で元譲を欲しがっているだけだと思っていた。元譲もそう思っていると。誤解を解いておけ、とも言われた。
 夏侯淵は口の中が乾いて、もう一度酒を飲んだ。
「……俺は、主公に、いつから元譲に惚れているのかと訊かれた。その想いは肉欲を伴っているのか、とも」
「!」
 夏侯惇はさすがに顔を上げて、夏侯淵を見た。
「何てことを訊くんだ、バカバカしい!」
「バカバカしくなんてない!」
 咄嗟に、夏侯淵は夏侯惇の腕を掴んだ。夏侯惇の目に、驚愕と怯えの色が見えた。何をされるのか、分かっているからこその怯えか……!
 ダメだ、目眩がする……!! 
「俺は主公に、ショウにいた頃から元譲が好きだったと、肉欲という物を知ったときからその対象が元譲でなかった事はないと答えたんだ!」
「バカな!お前はいつも俺の事を……」
「そうだよ!元譲に知られたら終わりだと思っていたから、元譲が俺をバカで手のかかる弟だと信じるように、ずっと元譲をただ慕っている振りをしていたんだ!元譲、気付かなかっただろう!?俺がお前をどんな目で見ているか、全く気付かなかったんだろう!?」
 夏侯淵がいきなり夏侯惇を横抱きに抱き上げた。
「妙才!?」
 夏侯惇の体は、思っていたよりもずっと自分の腕に馴染んだ。そのまま臥牀の上に転がし、上から覆い被さる。
「妙才、このバカ!何頭に血を上らせてるんだ!」
「この旅だって、何事もなくやり過ごそうと思った。元譲を傷つけたくなかった。でも、俺は元譲を愛してるんだ!」
「目を醒ませ、このバカ!」
 殴ってやろうと振り上げた手は、夏侯淵に掴まれた。
「……元譲、俺の方が、力は強い」
 押し殺したような声。ぞっと、背筋を恐怖が這い上がる。
 そのまま唇をふさがれた。夏侯淵の唇。夏侯淵の舌。信じられなかった。こんな事が、現実に起こるなど……!
「やめっ……!」
 どれだけもがいても、夏侯淵の体はびくりとも動かなかった。
「んっ……んんーっ!!」
 夏侯淵の肩を押し返そうとすればするほど、強く舌を絡まれた。噛み切ってやろうかと思ったが、それができるほど夏侯淵を突き放せない自分を、夏侯惇は知っている。
 唇を奪いながら、夏侯淵の手が夜着の中に潜り込んでくる。素肌の背中に、夏侯淵の腕を感じた。
「嫌だ、妙才!」
 強く胸を殴りつけると、夏侯淵の体がやっと離れた。
「っ!はぁっ、はぁっ!」
 互いに肩で息をしている。夏侯淵は一度立ち上がった。やっと考え直したのかと、夏侯惇は夜着の袷をたぐり寄せ、臥牀の端に身を寄せた。
 ガシャッ
 音に目を上げると、夏侯淵が腰に佩いていた剣を帯から外していた。
「……妙才……?」
 その剣を、夏侯惇の目の前に突き出す。
「これ、使って」
「何……?」
「どうしても嫌だったら、これを使って」
「な、何言って……!」
「俺は、元譲に痛い思いとかさせたくないし、ひどい事とかしたくないんだ。だからどうしても俺が嫌だったら、これを使ってくれ。使い方は知ってるだろう?」
「バカな事言うな!」
 まるで夏侯惇の言う事など聞こえていないように、夏侯淵は鎧を外した。それから、思い出したように剣を鞘から抜く。
「……いよいよとなったら、元譲も鞘から剣を抜く余裕なんてないよね。ほら、このまま手元に置いておけば良い」
「妙才、そんなことまでするくらいなら、やめればいいだろう?」
「やめない」
「妙才!」
「俺はずっと、元譲にこの気持ちを知られるまいと思ってきた。だが、打ち明けたからには、もう我慢はしない」
 逃げようとした夏侯惇の肩を掴むと、そのまま敷布に縫い止める。そして、その右側に、抜き身の剣を置いた。
「俺を軽蔑するなら軽蔑して良い。でも元譲が本気で俺を嫌うなら、俺は死んだ方が良いんだ。どうしても嫌なら、その剣を使え。躊躇わなくて良い」
 震える顔を、両手で包み込まれ、左目に唇を落とされた。今まで一度でも、夏侯淵がこの疵に触れた事はなかったのに。
「元譲、愛している」
「……ふざけるな!」
 唇がもう一度ふさがれる。痛いほど顎を掴まれ、抵抗を奪われた。だが、そんな風に掴まれなくても、夏侯惇は震えて、抵抗できなくなっていた。
 手を伸ばせば握れるところに、抜き身の剣がある。本当に嫌なら、これを使えと。ただその一言で、夏侯惇は全ての抵抗を封じられた。
 音を立てて唇が離れると、夏侯淵はもう一度左目にキスをした。丹念に、丹念に、傷口に舌を這わせる。
「やめろ」
「いやだ」
 そのまま、耳に歯を立てられる。ゾクゾクと体が震えた。
「んっ……」
「……元譲、耳、良いの?」
「違っ!」
 囁く夏侯淵の声が、興奮に掠れている。そのまま、また耳をしゃぶられ、首筋に歯を立てられた。夜着をはだけられ、脇腹を辿られる。
「妙才、妙才やめてくれ……俺達、こんなんじゃないだろう?」
 乱れた袍の袷から、夏侯淵の裸の胸が見える。その胸から逃れるように、夏侯惇はきつく目を閉じた。夏侯淵の胸が、自分の胸に合わせられる。裸の胸の感触に、目眩がした。
「妙才、やめなさい」
「いやだ」
 そのまま、下半身をこすりつけられた。硬く、屹立している。絶望的な気持ちになった。胸の突起をしゃぶられ、歯を立てられる。エナメル質のなめらかな感触が、余計に震えを誘った。
「元譲……」
「!」
 そのまま、夏侯淵の手が下半身に伸びてきた。すでに、夏侯惇のそこも彼の意思に反して興奮にうち震えていた。
「元譲のこれに、一度で良いから触れてみたかった……」
「やめろっ!」
「俺が初めて夢精したとき、夢の中でこれに触れたんだ。元譲のだって、そう思ったら、それだけで達った……」
 何の躊躇いもなく、夏侯淵はそこに唇をつけた。
「はっ……!!」
「元譲、感じる……?」
「嫌だ!」
 そのまま、口の中に深く咥え込まれた。丹念に舌を這わせ、軽く歯を立てて、きつく吸い上げる。辺りに、ジュブジュブと卑猥な音が響いた。
「やめろ!頼むから!」
 夏侯惇が顔を覆って叫んでも、夏侯淵は愛撫を緩めようとはしなかった。
「あっ、あぁ……みょうさ……妙才、いやだ……んんんっ!」
 達きそうになって目を強く瞑ったとき、ふと愛撫がやんだ。ほっとした反面、放出を止められた辛さに下半身が痺れた。
「はぁっ、はぁっ」
 夏侯淵が、脇卓から灯り壺を引き寄せいていた。
「……妙才……?」
 壺の中に、指を浸す。
「……なに……?」
 ぽちゃりと、油の音がする。
「……お前……何してるんだ……?」
「……分かってるから訊くんだろう……?」
 咄嗟に臥牀から飛び降りようとした夏侯惇を、夏侯淵が片腕で抱え上げる。
「嫌だ!嫌だ妙才!頼む!お願いだ……!」
 悲鳴のような哀願は、唇で塞がれた。
「嫌なら、そいつを使え」
「できるわけ無いだろう!?」
「だったら元譲は、今日俺のものになる」
「無茶苦茶だ……!」
 夏侯淵の手が伸びて、剣の束を夏侯惇の手に握らせたが、夏侯惇はそれを振り払った。
「妙才、妙才やめてくれ……んっ!」
 再び、口に含まれた。先ほどから放出を求めていたそこは、情けないほど夏侯淵の唇を待っていた。
「や……っ!やめろ……!!っんん!!」
 頭の中が真っ赤になった。きつく目を閉じた時、後ろに鋭い痛みが走った。
「!」
 指を挿れられたと気付いたのは、暫くしてからだった。
「……!!」
 叫びは声にならなかった。嫌悪感に涙が出る。くっと指が曲がると、全身に痺れるような感覚が走った。
「っあ!」
 短い叫びと一緒に、夏侯惇は達った。
「……っはっ、はぁっ、はぁっ」
 呆然と、夏侯惇は自分の下半身と、その上にかがむ夏侯淵を見つめた。
 こぼしたくもないのに、悔しくて涙がこぼれた。
「……元譲」
「も、もう、良いだろう……?こんな……こんなのは、嫌だ……!」
「元譲、俺が、まだ満足していないよ……?」
 夏侯惇は力なく首を振った。
「許してくれ……もう、もう許し……んっ!」
 まだ声を震わせている夏侯惇の腰を抱えると、夏侯淵は夏侯惇を俯せにして、尻だけを高く持ち上げた。
「いやだ!」
 夏侯淵はそこに口を付けた。ぴちゃぴちゃと音を立てて舐めたてる。時々舌を差し込むと、敷布に顔を埋めた夏侯惇が、くぐもった悲鳴を上げた。
「何で……何でこんな事……!?」
「ずっと、したかったんだよ……!」
「嘘だ!俺が主公の枕席に侍っているなんて、ただの噂話だ!お前だって信じてる訳じゃないんだろう!?」
 後ろを責めながら、前にも指を這わせる。先走りがしたたって、妙才の指がネチャリと音を立てた。
「そうだね、信じてないよ」
「じゃあどうしてこんな事……!!」
「言っただろう?ずっとこうしたかったんだって!」
 唇を離すと、また、指を挿れる。
「ふっ…!」
 暫くそうしてかき混ぜ、夏侯惇の前立腺の位置を確かめる。
「んんっ!やだ……嫌だ、妙才……!」
 時々、体がぶるぶると震えると、夏侯淵は執拗にそこを攻めた。
「ここ?ここが良いの?」
「嫌だって言ってるだろう……!?」
 夏侯淵はそこをぐるりとかき混ぜて反応を確かめてから、指を二本、三本と増やしていった。
「元譲」
「んんっ、う、ふぅ…っ!」
「元譲、前からと後ろから、どっちが良い?」
「なに…?」
「後ろからする方が楽らしいけど、顔が見えないのは俺が嫌だ。前からしても良い?」
「!」
 腰を抱えられ、仰向けにされた瞬間、夏侯惇は夏侯淵を蹴りつけて逃げようとした。だが、一瞬早く足を掴まれた。
「だから、体術とかも俺の方が強いんだって!剣の稽古ばっかりしてないで、少しは体術もやっておけば良かったね」
「やってたよ!」
 魏軍の中でも、夏侯淵の体術はずば抜けていた。多分、許チョや、今は亡き典韋より他に、体術で彼に敵う者はいないだろう。
「そうだったね。でもほら、俺は元譲が先生を招いて勉強してる間も、武術の稽古しかしてなかったからさ」
「威張れた事か!!」
「ははは、本当だ。でも」
 夏侯淵の手が、無遠慮に夏侯惇の足を開いていく。
「少しは役に立ったね……」
 ひたりと、自分のものを夏侯惇の蕾に押し当てる。夏侯惇の顔がさっと白くなった。
「覚悟は、良い……?」
「……やめろ……」
 ふっと、夏侯淵は笑った。ここまで来て、本当にやめられると思っている夏侯惇の方こそ、まるで子供だ。
「……お前は、俺を他人に取られたくないだけなんだろう……?だったらこんな事しなくても、元から俺はお前の物じゃないか!二人は同じ物だと言ったのはお前だぞ!」
「だから、同じ物になりたいんだよ」
「なに……?」
「互いの半分が互いの半分を求めて、一つになりたいと思うのは仕方のないことだと思わない?」
「なに言って……」
「俺達は同じ物。互いの半分。最初から、そういう意味だったんだよ!」
 強く、ねじ込まれた。散々指でなぶられ、押し広げられたそこに、油のぬめりを借りて、それは躊躇わずに入り込んできた。圧迫感と痛みと、それ以上の絶望感に、夏侯惇は声にならない悲鳴を上げた。
「っつ、きつっ…、元譲、力抜いて……!」
「―――――――っ!」
「元譲!」
 四肢を強ばらせている夏侯惇の力を抜こうと、夏侯淵は力なく項垂れている夏侯惇自身に手を伸ばした。
「元譲、俺を見て。俺を見て……!」
「っはぁ、はぁっ、はっ…んんっ!」
「落ち着いて!過呼吸になるから、ゆっくり息を吐いて……!」
 優しくしごいてやりながら、それでも夏侯淵は侵入をやめはしなかった。ゆっくりと、少しずつ、夏侯惇の体が辛くないように……。
「……駄目だ、駄目……、やめてくれ……」
「元譲、全部入ったよ」
「……っ!」
 そのまま、軽く揺する。夏侯惇が先ほど反応した所をもう一度、今度は自分自身で抉ってやる。
「んんっ!」
「元譲……、ごめん、動くよ。多分俺、加減とかできないから……!」
「や……っ!」
 苦しくてもがいた。その手を掴んで、夏侯淵は自分の首に導いた。何かにしがみつきたくて、夏侯惇はきつく腕を絡め、苦しさに爪を立てた。
「元譲、元譲、好きだ……!あぁ、信じられない……俺、今元譲を抱いてるんだ……!」
 夏侯淵が愛しさに口づけても、夏侯惇にはもう分からなかった。途中で、意識を手放したのだ。


   


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