形のない月



 月が雲に隠れていた。今日の月が何日の月かを考えてみたが、天文に詳しくない呂蒙にはよく分からない。確か、半月よりはもう少し経っていたような気がするのだが……。
 どんよりと暑い夜。月のない空を眺めながら歩いていると、向こうから人影が浮かび上がってきた。少女かと思うような小さな影だったが、近づいて来るにしたがって段々線がしっかりとし、子供かと思ったら凌統だった。

「あ、子明殿」
「やぁ」

 呂蒙は笑顔で手を挙げたが、手を挙げた後でここが甘寧の屋敷の近くであることが気にかかった。
 甘寧の家の近くでこんな夜中に凌統に会うなんて、どう考えても偶然の訳がない……。
 見れば凌統は心なしか慌てているようにも見えた。なんて分かり易い子だろう……。

「公績、こんな時間にどこへ行くの?」
 呂蒙はこういう時でも決して笑顔を崩さない。ポーカーフェイスが顔から剥がれなくなって、もう何年になるのだろうか。
「え…あの、えっと、べ、別にどこって訳じゃ……」
 この狼狽えよう。どう考えても甘寧の所に行くのだろう。
 ただ訪れるだけならば、呂蒙だってどうとも思わない。甘寧と凌統が仲良くなれば、呉国は国の懸案を一つ片づけたとも言えるだろう。

 だが、最近の凌統が甘寧の屋敷を訪ねることには、必ずある目的がある。だからこそ、こんなに狼狽えているのだ。

 呂蒙は辺りを見回して、ふと何かを思いついたように笑顔を見せた。
「あれ? ここって興覇のうちの近くだよね」
「え!? あ、いやあの、別に通りかかっただけで……」
「そう? 俺はこれから興覇の所に遊びに行こうかと思ってるんだけど、公績も一緒にどう?」

 来れるはずがない。そう思って凌統を見ると、凌統は驚いたように呂蒙を見つめていた。

「何?」
「あの、もう夜も遅いのに、どうしてあいつのうちになんて行くんですか?」
 凌統の可愛らしい眉間に、薄く皺が寄っている。

 ……興覇を好きだという自覚もないくせに、独占欲だけはあるらしい……
 凌統が甘寧を訪れて何をしているのか知っている呂蒙は、自分たちの関係を全く知らない凌統の、だからこその独占欲を憎んだ。

 本来、呂蒙の方こそが独占欲の強い男である。他人が甘寧に触ることすら許せないのに、甘寧の心の中にはこの子供のための特別な領域がある。呂蒙には、それが許せなかった。
 呂蒙は凌統に向かって優しく微笑んだ。

 ――――獲物を狙う虎のように。

「碁の続きを打ちに行くんだよ。この間はどうしても投了することが出来なかったからね。仕事の準備をしていたらこんな時間になっちゃったけど、早く決着をつけないと気持ち悪いでしょう? 公績も一緒においでよ」
「……でも、お邪魔でしょうから……」
「大丈夫だよ。お酒とか呑みながらだから、公績も来るといいよ」
 凌統の顔が赤い。 悔しそうに下唇を噛みしめている。

 来れるはずがない。そう思いながら、呂蒙は優しく凌統を誘った。

「あの、子明殿、俺が甘寧のこと憎んでいることはご存じでしょう?」
「知ってるよ」
「じゃあなんでそんなこと言うんですか!?」
「だから言うんだよ」
 凌統の憤った肩に優しく手を置いてやる。慰めるように。凌統は少し困ったような愛らしい顔で呂蒙を見つめた。

 可愛らしい子だ。呂蒙だって、甘寧に出会う前は凌統のことが好きだった。体の関係の有無は構わない、凌統が甘寧のことを好きでさえなければ、そして甘寧が凌統を大切にさえ思っていなければ、きっと今でも素直に可愛いと思えていただろう。

 ……だが、今はもうあの頃の自分ではない。呂蒙は甘寧を愛していて、そして甘寧にとってこの子は特別なのだ。自分の体を与えてやり、そしてきっと自分の命だって与えてやれるほど、甘寧にとって凌統は大切なのだ。

 ……その点では、呂蒙よりも凌統を大切な程に……。


だから、呂蒙は凌統が憎かった。これがただの嫉妬であることは分かっている。それでも、どうしても呂蒙は自分の感情を殺すことが出来なかった。

「……どういうことですか?」
 肩に手を置いたまま黙ってしまった呂蒙の沈黙を、答えを求められていると勘違いしたのだろう、思いつけない自分を反省するように、凌統は申し訳なさそうに小首を傾げた。
 呂蒙は苦笑したように肩をすくめて見せた。
「あのね、公績。君が興覇を憎んでいることを知らない人はこの国の中にはいないよね。でも、君も興覇も、この国にとってすごく大切なんだよ。二人の仲が良くなれば良いなって思わない人が、一人でもいると思う?」
「……それは……」
「じゃあ俺がどうして君を誘うかも分かるだろう?」
「……分かります。でも、遊びに行ったからって、甘寧は俺のことをバカにして子供扱いしかしないし、俺はあいつのこと見てるだけで腹が立つし、余計仲が悪くなるだけです!」
「あぁ、興覇が君を子供扱いするから腹が立つんだ?」

 優しい呂蒙の顔から言われると、こんな台詞も凌統を思いやる台詞に聞こえてしまうらしい。凌統は小さく下を向いて、「確かに大人びた態度ではないと分かっていますけど……」と小さく呟いた。
「そうだよね。興覇の態度にはかなり問題があるよね」
「そうなんです!!」
「じゃあ興覇にはちゃんと注意するから、公績も興覇にあんまりきつく当たらないでね」
「……はい……」

 凌統は少しばつが悪そうに下を向いた。
 素直な子だ。これで凌統は甘寧に腹を立てるたび、呂蒙に注意されたことを思い出すだろう。思い出して、嫌悪感に浸るだろう。

 ……いい気味だ。

「あの、俺もう帰っても良いですか?」
「うん。呼び止めてすまなかったね。でも今度本当に、一緒に興覇の家に遊びに行こうね」
「……はい」
 行けるわけがない。
 去っていく凌統の後ろ姿を見つめながら、呂蒙は昏い瞳で笑った。



 甘寧の屋敷に入ろうとすると、彼の手下達が呂蒙を見て妙に狼狽えた。甘寧の手下が頭の恋人である呂蒙を嫌っているのは最初からなので普段は気にしないのだが、「睨まれる」事はあっても「狼狽えられる」筈がない。
 出迎えた家宰(彼だけは主公に命ぜられて甘寧の屋敷に仕えるようになったので、唯一甘寧のシンパではない人間である)が、すまなさそうに頭を下げた。
「今日おいでになるとは思っていませんでしたので、その、主は今日は……」
 言い終わる前に、家宰は口を閉じた。呂蒙の顔が段々険しくなっていく。その顔を認めると、家宰はそれ以上何も告げずに、甘寧の元へ取次に行った。

 呂蒙がこんなに人を怯えさせるのも珍しい。いつも甘寧の屋敷では、手下達の手前、情けない顔をして愛想笑いを浮かべいてるのが常である。だが、今日の呂蒙は周りも声が掛けづらい。

 とは言っても、甘寧の懐刀である何名かはそんな呂蒙を冷ややかに眺めていた。
「今日はいつもより余計に怒ってるぜ、旦那」
「あのガキが絡んでるからだろ。んなに気にくわねぇなら頭から手ぇ引けっつうの!」
「頭に可愛がられてるからっていい気になりやがって」
 聞こえよがしに悪態をつく古参の手下を鋭い目つきで一瞥すると、家宰が戻ってくるのも待たず、呂蒙は甘寧の部屋のドアを開けた。

「将軍……」
 慌てたように家宰が甘寧と呂蒙の間に立った。いくら呂蒙と甘寧が特別の関係にあるとはいえ、案内も待たずに部屋に入ってくるのはあまりにも礼に反している。
 呂蒙の顔は強張ったように震えていた。
「……よう、子明」
 甘寧は寝台の上にいた。気怠げに乱れた髪を掻き上げ、小さく溜息をついている。

「……さっき、そこであの子に会ったよ」
「あぁ……」
 呂蒙が家宰に目で出ていくように合図すると、家宰は心配そうに頭を下げて扉を閉めた。
「俺はてっきりここに来ようとしているのかと思ったけど、帰る途中だったわけだ?」
「知らねぇよ」

 甘寧の首筋に、くっきりと歯形が残っている。不自然に赤い。……血が滲んでいるのだ……。
 そっと呂蒙は近づいて、寝台の脇に立った。甘寧は不自然なほどゆったりと、長い手足を寝台の上に伸ばしていた。顔は上げているのに、決して呂蒙の方を見ようとはしない。
 血の滲む首筋を指でそっとつついてみる。甘寧はイヤそうに眉をしかめたが、その手を振り払うような真似はしなかった。

「あの子、どんな風に興覇のこと抱くの?」
「……」
「興覇」
 呂蒙の厳しくて強い声。甘寧はそれでも答えようとはしなかった。
「……そう」

 呂蒙はひときわ低く深い声を出すと、いきなりその傷跡に爪を立てた。

「いっ!」
「この位には痛かった? それとももっと?」
「帰れ…!」
「へぇ。あの子にもそう言ったの? それとも俺にだけそんな意地悪いうの?」
 呂蒙はもう一度首筋に爪を立てると、一気に単衣の袷を左右に開いた。

「やめろ、子明! お前だって俺があいつと何してたか知ってるくせに、なんでこんな事するんだ!!」
「知る分けないだろ。ねぇ、あの子供はどんな風に興覇のこと犯るの? あぁ、すごい痕だね」
甘寧の体中に、鬱血した痣が散らばっていた。
 冬でもない限り、すぐに袖を抜いて肌を見せる暑がりな甘寧に対して、呂蒙はいつも目に見えるところには痕がつかないようにと配慮していた。他の男達も、呂蒙が不快感を覚えるほどの無遠慮な真似をしたことはない。こんな事にもルールはあるのだ。

「公績って、余裕ないの……」
 呂蒙は鼻で笑うと、その痕の一つ一つに唇を寄せた。
 多分、それは本当に「ただの痣」なのだろう。口づけ、舌を這わせても、甘寧は辛そうに眉間に皺を寄せているだけだ。
 ……当たり前だ。どうしてあのガキはこう興覇の良いところばかり、狙いすましたみたいにはずして痕をつけてるんだ?

 わざと甘寧が感じる腰骨の内側の小さな窪みを舐めると、甘寧の肩はぴくりと震えた。
「…子明、俺は今、お前につきあう余裕なんてマジでねぇんだ……。頼むから、今日はもう帰ってくれ……」
「公績とはするのに?」
「……子明……」
 窪みを舐め、腰骨に歯を立て、呂蒙は執拗に腰をしゃぶった。あと少しずれれば、柔らかい内股や敏感な甘寧自信に触れられるのに、呂蒙は敢えてそこを避けた。
 イヤそうに身を捩っていた甘寧の口から、そのうち艶めいた溜息が漏れる。

「公績にもそんな声、聞かせたんだ?」
「子明…」
「ねぇ興覇、俺は興覇が好きだよ。興覇は?」
「子明、もういい加減にしてくれ!」
「いい加減にするのは阿寧の方だろう!?」
 「阿寧」という呼びかけに、甘寧の肩がぴくりと動いた。ぎこちない目つきで下を向き、唇を噛みしめる。
 呂蒙の目には余裕がなかった。甘寧に何をしたとしても、それを思いやる自信など無い。

「ねぇ阿寧、阿寧は俺とあのガキと、どっちが好きなの?」
 甘寧は上半身を起こし、呂蒙を責めるような目で睨みつけた。
「なんで俺があんなガキを好きになるんだ!」
「じゃあ俺とあのガキ、どっちが大事?」
「子明!!」
 甘寧の体にもう一度目をやる。赤い痣を散らした体。手首まで薄く鬱血している。

 この体中、あのガキが弄んだのか……!!!

 いきなり呂蒙は甘寧の体を叩きつけるように牀に押し倒した。すかさず起きあがろうとする甘寧の肩を砕く勢いで掴み、敷布の上に縫いつける。
「子明!」
「うるさい、黙ってろ!」
 膝を大きく割って体を押し入れようとした時、甘寧の蹴りが呂蒙の鳩尾に蹴り込まれた。思いもかけない反撃に、思わず呂蒙は咳き込んだ。

「やめろって言ってんだろ!!」
 甘寧は素早く体を起こすと、牀の端に這いずり上がり、体を庇うように膝を合わせて袷をかき集めた。
「っかはっ! げほっげほっ…!」
 涙の浮いた目で甘寧を見ると、甘寧は心なしか蒼醒め、それでも体を折って咳き込む呂蒙を心配そうに見ていた。

 ……今まで呂蒙が嫉妬に身を任せて甘寧に強姦まがいのことをしたことは何度もあったが、こんな風に本気で抵抗されたのは初めてだった。

「…阿寧…」

 やっと咳が収まると、呂蒙は口元を拭って甘寧を見つめた。まだ鳩尾はずきずきと痛むが、頭の中は大分冷静になってきた。

「…阿寧」
「……何考えてんだ、子明」
 甘寧の声が微かに震えている。
「どうして? あいつにはやらせるのに、俺じゃ駄目なのか?」
 甘寧の尖った顎がわなないている。

「……俺、今あいつにやられたばっかりなんだぞ」

「だから抱くんだろ」

 甘寧が怯えているのにも構わず、呂蒙は牀に手をついた。甘寧の体が強張る。
 そのまま牀の上に膝を乗せようとすると、甘寧は逃げ場を探すように後ろを振り返り、そんな場所が無いことを確認すると、泣き出しそうな顔で叫んだ。

「あいつのがまだ体の中に残ってんのに、こんな体をお前に抱かせられるとでも思ってんのか!?」

「だから抱くんだろ!!!」

 言った瞬間、自分より一回り小さな甘寧の体は、呂蒙の胸の中にあった。甘寧が嫌がって身を捩るが、今度こそ甘寧に突き放されるような愚は犯さなかった。
「子明、子明いやだ! どうしてこんな……! お前俺のことなんかいやだろう!? あいつに好きにさせている俺のことなんかいやなんだろう!? なのになんで抱くんだよ!!!」
「お前は俺のものだ! あんな子供にお前を渡したりなんかしない!!」
「子明! いやだ子明! ……いやだ! 」

 目眩がした。

 ひどく暑かった。

 どんなよりとした形のない月に、追い立てられているような気がした……。



 気がつくと、甘寧は死んだようにぐったりとしていた。月明かりに照らされた顔は青白く、空を見上げるとやっと雲が切れたのか、十七夜の月が顔を出していた。

「……阿寧……」

 そっと唇に耳を寄せると、微かな、あるかなしかの息が耳を打った。
 呂蒙はそっと、甘寧の抜け殻のような体を抱きしめた。
 愛しているのに。
 確かに甘寧も自分を愛してくれているのに。
 なのに、何故自分では駄目なのだろうか……。

 甘寧の目に、薄く涙が滲んでいた。そっと口先で舐め取ると、涙は後から後からこぼれ出てきた。

「阿寧……」

 それは、呂蒙の涙なのかもしれない。
 呂蒙は甘寧の目尻をいつまでも舐め清めた。



 いつまでも、いつまでも、泉のように涙は流れ続けた……。
 


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