魂の牢獄



 「全く……どうしてこう煩わしい奴が多いんだか……」
 窓枠に肘を乗せて曹操が呟いた。視線が遠くを見つめている分だけ、気持ちは中を向いているのだろう。先ほどから後ろで碁の後片づけをしている夏侯惇などまるで目に入っていないようで、その呟きも独り言に近い。
「何か仰いましたか、主公」
「ん? いや、全く煩わしい奴が多いなと言っておるのだ」
 曹操はやっと部屋の中に目を戻すと、夏侯惇に椅子を指さして座るように示した。
「……子桓様のことですか?」
「うむ」
 勿論「煩わしい」と指しているのは息子の曹丕のことではなく、曹丕について口やかましく言って来る輩のことである。

 先の冀州落城のおり、曹操が「城内にみだりに入らぬように」との触れを出したにもかかわらず、曹丕が城内に押し入り、袁紹の次男、袁煕の妻であった甄氏を妻にしたことを、曹植派は声高に非難している。その俎上が曹操の耳にまで届いているのが、曹操には煩わしくてならなかった。
「子桓が儂の言いつけを破ったのは初めてだ。なかなか見所があることをしてくれると思っておったのに、周りは儂と反対のことしか言わん」
「まぁ、主公の触れに反する行動をとったのですから、非難する者もおろうかとは思いますが」
「別に非難するのが煩わしいわけではなくて、ほら、あれだ。後継者がどうのこうのとうるさくてかなわん。人の家のことは放っておけというのだ」
「主家のことですから、そういうわけにもいきますまい」
「お前なんか全然興味ないではないか」
「まぁ末将のことなど主公、今更お聞きにならなくとも……」
「ふん……」
 曹操は憮然と卓に肘をつくと、大きな溜息を吐いた

「腹が立つのは、あいつらがみんな勘違いをしておることだ」
「と申されますと?」
 曹操はその問いには答えず、軽く貧乏揺すりをしながら部屋を見回した。
「何か飲むものはないのか?」
「茶と酒、どちらが宜しいですか?」
「こんな話を素面で出来るか」
「は、只今」
 唐突な曹操にとまどわない辺り、さすがに夏侯惇は身内だけあって気心が知れている。そのせいか、こうして曹操は時折誰にも言えない話を隻眼の従兄弟に漏らすことがあった。それに夏侯惇はこうした話を自分の家族にさえ話さず、必ず胸のうちに秘めておく。そう言い切れる男を、曹操は夏侯惇しか知らない。

 酒と軽い肴が揃うと、曹操は早速杯を一気に乾し、夏侯惇も言われる前にそれに倣った。つぎ足そうとする夏侯惇に曹操は手酌でやるから勝手にやれと手を振る。こういうときは無礼に当たると分かっていても、言うことをきいた方が良い。
「お前、何で儂が子桓と子建で迷っているか分かっておるか?」
「まぁ主公のことですから、皆が言うように子建様の詩才に惚れておられるため、というわけではありますまい」
 夏侯惇の台詞に曹操は憤慨して荒い鼻息を吐いた。
「当たり前だ。詩で政治ができるか」
「でも子桓様より子建様を気に入っておられるのも本当なのでしょう?」
 曹操がこの男を気に入っているのは、多分身内だからと言うだけではなく、この口のせいだろう。他の人間が吐けば気に障る痛い台詞も、夏侯惇の口から聞くと不思議と素直に耳に入る。
「うむ……。まぁ、確かに子建のあの素晴らしい詩才を前にすればな……。第一子桓はこう、儂に似てるところが鼻につくのだ」
「似ていませんよ、全然」
「そこよ」
 曹操が勢いづいたように箸で夏侯惇を指した。
「あれは儂に似なくて良いところは色々似ておるくせに、一番大事なところが何故ああまで似てないのだ」
「一番大事なところ、ですか?」
「うむ」
 曹操はぐいと杯を傾け一気に酒を煽ると、鋭い音を立ててその杯を卓上に叩きつけた。

「子桓は優しすぎるのだ。周りの奴らは子桓のあの無愛想にだまされて誰も気づかぬようだが、あれは儂の子供の中では一番と言って良いくらい、全く儂に似ずに優しく育った」
「……はぁ、それは…、ですが主公……」
 夏侯惇の覆われていない方の眉が微かに曇った。夏侯惇の言わんとすることは分かっている。主公は優しいだの、優しい息子の何が悪いだの、だがそんな台詞が何になる? 自分は曹操であって、息子は死ぬまでこの曹操の息子なのだ。
「元譲、支配者は優しくてつとまるものではない。儂は覇道を貫く事だけを考えて生き来たし、これからもそうするつもりだ。なまなかな事でないのはお前が一番よく知っているだろう。悪鬼のように憎まれることも平気でやらねばならん。そうでなければ天下など、たやすく宙に浮いてしまうのだ」
「ですが主公、子桓様はさすがに主公のお血筋、国を治めることにおいて人後に落ちることはないかと思われます」
「あぁ、勿論そうだ。儂は子桓を見損なっているつもりはない。国を治めることなら、子建よりも子桓の方がよっぽど巧くやるだろうさ。それと同じくらい巧く国を拓げることもな。儂がそう育てたのだ」
「では何がいけないのですか」
「儂が早く死んだら、子桓はどうする?」
「なにを縁起でもないことを」
「聞け!」
 机を叩いて夏侯惇の口をふさぐと、曹操はまた杯に酒をつぎ足し、のどを鳴らして呑んだ。
 だいぶ早いピッチだが、まるで酔っていないのがその目で分かる。いくらか興奮しているのは、これが曹家の根幹に関わる話だからだろう。

「儂が死んで子桓が跡を継いでも、あれは巧くやるだろう。だが人に人とも思われぬ刃を振るうことができるか? いや、勿論必要となれば子桓は敢えてそれもするはずだ。だが子桓は子建とは違う。それに奴が耐えられるとは、儂には到底思えんのだ」
「子建様になら耐えられるというのですか」
「耐えられる」
 夏侯惇の杯に酒をつぎ足しながら、曹操は小さく「子建はその点、最も儂に似ておる」と呟いた。
 曹操の瞳が昏い。少女のような面をした曹植の瞳は、確かにこの瞳と同じ昏さを持っていた。

 そう、曹植ならば。

 周囲の人間が、最も長く曹植の傍らに立つ曹植派の人間ですら、何故あの瞳に気がつかないのか夏侯惇には不思議であった。この自分ですら時折恐ろしくなる曹操の「強者」の瞳を、曹植はただ一人身につけている。
 だがそれを語る曹操の、この深い哀しみはどうだ。こんな時、夏侯惇は曹操のその小さな体と相まって、堪らない保護欲を主に感じる。護ってあげたいと。その穿たれた傷から、孤独な心を救ってやりたいと。

「主公の仰ることを伺っていると、まるで主公はご自分のことを人非人だと仰っているように聞こえますが」
「実際にそうなのだから仕方あるまい。ほら、儂ばかり呑んでいるぞ、もっと呑め」
「は。頂いております。ですが主公は」
 なおも言い募ろうとする夏侯惇を曹操は遮った。
「いいんだ。儂は実際人非人なんだから。何しろ『乱世の奸雄』だ。子桓は儂ではなくて、多分夏侯の血が濃いのだろう」
 普通の家に生まれればその方が良かったのだろうがと言う曹操の瞳が哀れで、夏侯惇は胸が痛んだ。人の上に立つ者にしか分からない深い孤独がそこにある。
 夏侯惇はわざと明るい声を出して肴を抓んだ。そんな事で曹操の孤独が癒せるものではないことを百も承知していながら、だが夏侯惇はそうせずにはいられなかった。
「そういうものの言い方は、末将は好きではありませんな。主公こそその優しさを、敢えてそうした言葉で武装なさっておられるのでしょう? やはり、子桓様は主公によく似ておられる」
「先ほどは全然似てないと言ったではないか」
「えぇ、似ていませんとも」
 夏侯惇は箸を揃えて皿の上に置くと、曹操に向かって笑って見せた。
「何しろ子桓様は結構上背がありますからな。えぇ、確かに夏侯の血がお強いのでしょうとも」
「貴様、儂のイヤなことばかり言いよる」
 曹操はふてくされたように顎をしゃくってみせると、「もう良いからここを片せ」と席を立った。

 手を打って人を呼び、部屋の中を片づけさせてから、礼をして部屋を出ていこうとする夏侯惇を曹操は呼び止めた。
「元譲、分かっていようがこの話は誰にもするなよ」
「心得ております」
「せがれ共にもだ」
「主公……」
 しかめた眉に抗議の意味合いを持たせている夏侯惇を敢えて無視し、曹操は言葉を継いだ。
「言えば子桓は必ず気にする。いいな、言うなよ」
「その事については、主公が一度じっくりと若様方とお話をなさった方が宜しいかと思われますが?」
「そんな時間があるか」
「ですが主公」
「あいつらと一緒にいるときは、こういうことはもう煩わしくていかんのだ。頭の中では仕事のことしか考えられなくなる」
「今こんなに考えているではありませんか」
「あいつらがいない方が色々と考えるものだ。お前だって自分の子供のことなんかほったらかしだろう」
「末将を主公と一緒にしないで下さい」
「ったく、本当にイヤな奴だな」
「ありがとうございます」
 頭を下げかけた夏侯惇の耳に、曹操の声が聞こえた。それはとても小さく、自分に向かって言ったようには思われなかったので、夏侯惇も敢えて聞こえない振りをして部屋を出ていった。

「……儂が下氏にあれほど嫌われておらなんだら、子供達ももっと儂に懐いてくれたのだろうが……。あいつらが子供の頃全く家にいなかったツケが今頃回ってきたのだ。もう今さらどうなるものでもないわ……」



 若様方が主公を畏れているように、主公もまた若様方を畏れておられるのだ……。
 屋敷に戻る最中、夏侯惇はこの哀しい関係が自分のことのように悲しくなった。
 曹操の色好みを嫌って、下氏は愛しているが故に激しく曹操を憎んだ。いつしかそれは元来の愛情を忘れさせ、憎しみだけを深く育んでしまったのだ。子供が産まれても曹操は戦で国中を駆け回り、下氏や子供達と過ごす時間を持てなかった。多分その間、子供達は母親の口から聞かされる父親の悪口を湯水のように浴びたことだろう。そして、佞臣達の追従も。

 母の口から聞く父親像と、佞臣共の口から聞かされる世辞に彩られた父親像に、幼かった若様方がとまどい、主公の姿を見誤られたとしてもおかしくはない……。
 何しろご自分で仰られるとおり、主公は若様方と一緒にいても始終仕事の事ばかり考えておられた。その上主公が若様を叱る様子と言ったら、百戦錬磨の武将共を叱りとばす様子とまるで変わりがないのだから。我々でさえ主公の怒鳴り声には縮み上がるというのに、年端もいかないお子様達にまであんな叱り方をして、あれでは若様方が主公は自分たちを愛しておられないと思い詰めても仕方がないではないか……。
 何度か酒の席でそんな話を曹操にしたことがないわけではないが、曹操はそういう話を聞くのが苦痛のようだった。
 そう、曹操こそ、子供に愛されていないことを畏れていた。あれほど情愛が細やかだからこそ、自分の子供が自分を畏れ、嫌っていることに耐えられないのだ。
 主公だって、いつでも若様方に向かい合うときは笑顔でいたい筈だ。だが、若様方は主公を見れば端で分かるほど緊張される。それが主公を傷つけ、余計に主公を頑なにさせてしまうのだ。それが証拠に、遅くに出来たお子さま方は、皆主公によく懐き、主公も大いに可愛がっておられる。

 何という悪循環だろう。もう主公と若様は、親子として話し合うことすら出来なくなってしまっている……。
 同じ下氏の子供でも、下の3人は曹操を「どうでも良い存在」として見ている。兄である曹丕が父親の替わりに愛情を注いでくれたから、今更「父親」などいらないのだろう。

 だが子桓様は。
 愛情をかけることはあっても注がれたことのない子桓様は。

 主公は、子桓様とこそきちんと話し合って溝を埋めるべきなのだ。主公のお言葉1つで、どれほど若様の心が楽になることだろう。それは勿論、1度や2度の話し合いでうまくいくほどあのお二人の中は平坦ではないが、だが一番求めあっている方同士が一番誤解しあっておられるのだから……。
 このことについては俺の口から申し上げても無駄なのだ。主公はどうせ「また元譲が儂に気を使って」としか思われないだろう……。



 気がつくとそこはもう屋敷だった。贅を嫌って質素にしつらえてある我が家を見ながら、あの豪華な、だがどこか寒々しい丞相府を思い出す。
 あるいは、あそこは牢獄なのかもしれない。父と子の魂をふさぎ込んだ牢獄。そこは豪奢であればあるだけ、より深い哀しみが詰まっているように思えた。。
 いつか、その牢獄から救い出したかった。己の欲望に正直なあまり、敢えてその身を生きづらい道に置く曹操のことも、いつも張りつめて休まることを知らない曹丕のことも。
 だが省みる己の手は、それにはあまりにも小さい。

 せめて、本の少しでもいいからあの哀しい2人のために何かできれば……。本当に少しでもいい。いつかあの牢獄の外で見つめ合うことができるように。互いが互いの手を取り合える日が来るように。

―――――あの、魂の牢獄のから―――――


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