落水の賦

 
 頭の中が真っ白だった。
 怒りのために霞がかった頭で、曹丕は曹植の元に向かっていた。曹植に会って何をどうするつもりなのか、そんな事は考えていなかった。ただ、曹植の顔に向かってこの怒りをぶちまける事しか考えられなかった。
 曹丕の常にない足取りに、女官や宦官共は畏れたように傍らに飛び退き、床にすりつけんばかりにして頭を下げたが、そんなものは全く目に映らなかった。曹丕の目には、憎むべき男の元へ続く道が、ただ見えるだけだった。
「子建!」
 勢いよく扉を開けると、曹植は窓辺に寄せた長椅子に腰掛けたまま、入り口に立つ曹丕に目線を投げた。
「子建…! 貴様……!!」
「ずいぶん遅かったですね、兄上。もっと早くにお見えになるかと思っていましたが」
 曹植の柔らかな唇が、禍々しい程愛らしく笑った。
「どんなに噂を大きくしようとしても、やはり皆兄上の耳には入れたがらないのですね。待ちくたびれてしまいましたよ」
 笑いながら立ちあがり、曹植は扉を閉めて、閂をかけた。
「……その言い方は何だ! わざわざ俺の耳にはいるように、李瑤の名を穢して回ったとでも言うのか!」
 城中は、洛水の賦の話で持ちきりだった。洛水の女神を讃える美しい詩は、兄が父の命に逆らってまで手に入れた美しい妻に対する、曹植の恋心を謳ったものだと、今やこの国で知らぬ者はいない。その素晴らしい賦に心の熱さを知った甄氏が、弟に心を動かした、とか、甘い心をにじませた返事を返した、とか、いいや、甄氏はすでに弟と密かに会っているらしいとか、事の真相などお構いなしに、人々は好奇の目で勝手な噂をばらまいた。
「兄上、私はただ、あまりに美しく清らかな洛水に、詩を捧げただけで、兄上の妻になど何の興味もありませんよ」
 曹植は小さく笑うと、文箱から一枚の帛を取りだし、これ見よがしに開いてみせた。
「もっとも、兄上の妻とやらの方は、そうは思ってないようですけど」
「貴様……!!」
 曹丕はその帛を奪いたいとも中を見たいとも思わなかった。その代わり、曹植が自分を煽るために、偽りの帛を見せているとも思わなかった。
 多分、あれは本当に彼女が書いた物なのだ。先程の涙に染まった妻の顔が、その帛に重なる。
『……だって、あなた様は、一度も妾を見ては下さらなかったのですもの。お優しい言葉も、情熱的な眼差しも、妾に触れられるあなた様の指先も唇も、全て妾に向けられた事は一度もありませんでした。あなた様は妾を通してどなたを見ていらっしゃたのですか? 妾は…妾はあなたに妾を見ていただきたかったのです。憎しみでも蔑みでも良い、ただあなたに妾を見ていただきたかったのです……!」
 妻は美しい顔を歪めて泣いた。
 それはどういう意味かと問い詰める事もしないで、曹丕は甄氏を残して部屋を出た。
 そして、今ここにいる。
 白くなった兄の顔を、曹植は小さく笑いながら見つめた。思い通りの展開に、満足しているとでも言いたげに。
「兄上、あなたの妻は、あなたよりもあなたの心をご存じだ」
「何?」
「あなたはあの人を愛してもなどおられない。あなたはただ、あなたが私の物などではなく、女に欲情して女を抱く事ができるのだと、私に見せつけたいが為にだけに、あの人を妻にしたのだ」
 驚きに見開いた目に、曹植の腕がゆっくりと伸びてくるのが見えた。その腕が自分の肩をゆっくりと掴む。それほど強い力ではないはずなのに、曹丕は動く事ができなかった。
「兄上、ご自分に嘘をつくのはおやめなさい。あなたはあの方をその腕に抱かれるよりも、私の腕の中におられる方がお似合いだ」
「黙れ…!」
 そのまま、曹丕は長椅子の上に押し倒された。
 曹植の少女のような顔が近づいてくる。その顔に、妻の涙が重なった。
『あなた様は、誰を見ておられるのですか? 誰も愛さぬという仮面をつけて、その実いつもどなたかを見ておられる。一体あなたの心を占めておられるのは、どなたなのですか?』
 俺は李瑤を愛している。あの父の命に背いてまで手に入れたいと、初めて思った女だ。なのに何故泣くのだ。あんな流言に惑わされ、子建の思うままに踊らされて…!何故だ、李瑤!!
「っう…!」
「何を考えておられる?」
 乱された袷の間に顔を埋めていた曹植が、胸の突起をきつく噛みしめた。痛みと、それだけではない何かが曹丕を襲う。
「あぁ、酷くされるのがお好みでしたか? 私はお仕置きをしたつもりなのに、こんなにして……」
「ふざけるな……! やめ…っ!」
 体をねじろうとしても、曹植に押さえつけられて身動きができない。戦に出た事もないような男に、何故動きを封じられてしまうのか。そう思うと、曹丕は屈辱に唇を噛んだ。
「兄上、もう観念して認めてしまえばいい。あなたはこうして男に組み敷かれるのが好きなのだ。あの人にあなたを満足させる事はできない」
「貴様…どこまで人を侮辱すれば気が済むのだ! 俺は…俺は李瑤を愛している…! ……っひ!」
 言った途端、まだほぐされてもいないそこに、曹植が押し入ってきた。あまりの痛みに言葉が詰まる。
 俺は李瑤を愛している。その言葉は本当だ。
 だが瞼に浮かぶ彼女の顔は、何故いつも哀しげに伏せられているのだろうか。
「兄上、きつい……」
 そう言いながらも容赦を知らない曹植の腰つかいに、曹丕の頬に涙が伝った。
 その涙は痛みのためなのか、それとも違う物のためなのか、曹丕にはもう分からなかったけれど―――――。



 ぐったりと力無く横たわっている曹丕の体を、曹植は固く絞った布で丁寧に拭き浄めいていた。その感触が煩わしくてやめろと言っているのだが、それをやめさせるだけの力は残っていなかった。指一本動かすだけでも相当な努力を要した。声を出すのも億劫な程だ。「そのご様子では、あの方のお部屋に行かれるのは無理のようですね。今日はここで休まれていきますか?」
「……冗談じゃない……!」
 曹植を睨みつけると、弟は困ったような顔で笑って見せた。
「困った方だ。そんな顔をして……。これで自覚がないのだからタチが悪い」
「何の事だ」
「あの方がお気の毒だという事です。洛水の賦は、あの方を謳ったものではない。あの方は最初からそれに気づいておられた。そのくせ、敢えて私を当て馬に使おうとしたのですよ。……哀しい人だ」
 曹植が何を言っているのか分からなくて、曹丕は眉を寄せた。何かを掴めそうな気がしたのに、あまりにも何かを考えるのが億劫で、曹丕は目を閉じた。
「……兄上? 眠ってしまわれたのですか?」
 次第に深くなっていく寝息に苦笑して、曹植は曹丕の髪をそっと撫でた。
「まったく…罪な方だ…」
 清らかな流れを湛える洛水の女神。その水は清いからこそ冷たく流れるのだ。




其の形や
翩たること驚鴻の若く
婉たること遊寵の若し
秋菊より栄曜き
春松より華やかに茂る
髣髴たること軽雲の月を蔽うが若く
飄ヨウたること流風の雪を迴らすが若し―――――――


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