香の煙




 夏侯惇が胸の中にいると思うと、よく眠れなかった。
『……俺は最初から、お前の物だったろう……?』
 その台詞が耳について、眠っているとその台詞はこの眠りの中で見ている夢じゃないかと思って、その度に目が醒めてしまうのだ。自分が今眠っているのか起きているのかもよく分からない。空はまだ白む気配もなく、時間の感覚もない。
 夏侯惇は落ち着いた寝息を立てている。眉が緩み、あどけないような寝顔だ。今までこうして一つになって眠っても、夏侯惇の寝顔は苦しそうだった。眉を寄せ、青い顔で、溜息のような寝息を立てていた。それがこの寝顔。信じられなかった。あんまり幸せで、現実だと思えない。
 その時、部屋の外に人の気配がした。
「寝てるところすまん」
 曹操の声だ。夏侯淵は慌てて体を起こし、乱れた夜着を手早く直した。暫くおいて曹操が部屋の中に入ってきたが、帳を開けるような真似はさすがにしなかった。
「何かありましたか、主公?」
「元譲はまだ寝てるか?」
「ん……主公……?え……?あれ?みょうさい……?」
 もぞもぞと起きかけているようだが、曹操の声だの夏侯淵の体だのに、軽く混乱しているようだ。
「え?……なに?」
「大丈夫、元譲……?」
「え?ごめ……今起きる……。えっと……?」
「何だおい、元譲がそんだけ寝ぼけてるのも珍しいな。お前眠らせてやらなかったのか?」
「そんなことはありませんよ!も、ちょっとこっち見ないで下さい。何のご用です?」
 まさか冷やかしじゃないだろうな。一応夜の間に元譲の体を清めておいて良かったと、夏侯淵は帳の外にいる曹操を、中から睨んだ。
「いや、後二刻もしたらこの辺人が動き出すから、その前に元譲を隣に移すか、とっとと朝の支度を済ませてこっちに移動したんですって体裁を作っとけと思って」
「……主公……」
「ん?」
「……その炯眼はもっとまともなことに使って下さい」
「バカお前、下女の一人にでも勘づかれたら、この屋敷中にばれると思ってた方が良いぞ?息子達とか女連中とかに気付かれて良いのか?」
「そ……それは……」
 ……下氏の耳に入ったら、絶対自分が家に帰るより先に、妻はこの事を知るだろう。妻が知れば、明日までには確実に元譲の嫂上の所に話が通るはずだ。
 いや、それはまだ良い。はっきりいって、あの二人は新婚当時から夏侯淵の気持ちに勘づいていて、更にそれを面白がっている節がある。女の勘とかいう奴か。色々と面倒くさいことはあるが、そこは面倒くさいだけで、まだ大丈夫だ。
 問題は曹操の息子達だ。あんなに自分たちに信頼の目を向けてくれている曹丕達に、「叔父上達がそんな関係!?」とか言われたら最悪だ。
「す、すいません……前言撤回します……。お声をかけていただいて、ありがとうございました……」
「うん、まぁ分かれば良い。あ、後お前の牀にはこれ置いといて」
 帳の間から、香炉を乗せた手が入ってくる。
「何ですか、これ」
「良いから」
「はぁ…」
 夏侯淵が受け取ると、「じゃ、色々障りがあるだろうし、儂もう行くから」と声がする。
「主公、あの……この為にわざわざ起きていらしたんですか?」
「いつもこの時間には起きてるから気にするな。仕事の前にちょっと気になったから来たまでだ。じゃ、後でまた朝食の席でな」
 そそくさと出ていく曹操に、夏侯淵は「どんだけ色々気が回るんだよ……」と、ありがたいような、ちょっと迷惑なような、そんな複雑な気持ちで帳の中から頭を下げた。
 横を見ると、また夏侯惇の目が閉じている。そういえば、さっきまで聞こえていたうなり声も聞こえてこない。
「元譲?元譲、また寝ちゃった?」
「ん……」
 普段は起こされるとすぱっと目を醒ます夏侯惇だが、今日に限ってもぞもぞしている。昨日までの道中ずっと緊張を強いられていたせいでもあるだろうし、昨日の酒のせいもあるだろうし、何よりあれだけ激しくしちゃったせいもあるだろう。いや、それよりも、自分の脇でこれだけ正体もなく眠ってしまうということは、それだけ自分が信頼されているということだ。そう思うと、何となくその寝乱れた姿が嬉しかった。
「元譲、主公が、そろそろ隣の部屋で寝ておけって。起きれる?」
「あぁ……」
 やっと起きあがった夏侯惇の腰をそのまま抱き寄せ、唇を合わせる。躊躇いがちに、それでも夏侯惇が応えてくれたことに、やっぱり昨日のことは夢じゃなかったと幸せな気分になった。あまりしつこくするとまた怒られるだろうから、一応挨拶程度に留めておいて、隣の部屋に送っていく。あぁ、このままもう少しイチャイチャしたいけど、さすがにそれは出来ないよね……。
「じゃ、元譲。誰かが起こしに来るまでまた寝てて。多分、その方が良いから」
「分かった。すまん、何か俺、今日眠いわ……」
「しょうがないよ。じゃ、また後で」
 そそくさと自分の部屋に戻り、臥牀の上に座ると、先ほど主公に渡された香炉を手に取った。香炉からはうっすらと紫の煙が立ち昇っていて、なんだかすごい佳い匂いがした。
「は〜。何か疲れた……。俺ももう少し寝よう……」
 ほとんど眠れていなかったのだ。横になると、いきなり眠気に襲われた。夢の中でも、夏侯淵は夏侯惇の体を抱いていた。
 俺のものだ。
 そう思うと、夏侯淵は幸せそうに笑った。



「よう、よく眠れたか」
 朝食の前に曹操の部屋に挨拶に行くと、曹操は山積みの帛の中から声をかけた。夏侯惇はさすがにすっきりとした顔をしているが、二度寝していた夏侯淵はまだ少し眠そうだ。
「お陰様で。何の書類ですか?」
「袁紹の一族を丸刈りにするのに、さてどっちから始めるかと思ってな。もうあっちゃこっちゃ手を付けないといけない討伐があるから、妙才、当分忙しいぞ」
「心得ております」
 まじめな顔で拱手の礼なんぞする夏侯淵に、曹操はふふんと笑って見せた。
「まぁ、その満足そうな面なら、良い働きもしてくれるだろうよ」
「何ですか、俺はいつだって良い働きしますよ。あっちゃこっちゃに兵を動かすのが得意ですからね」
 夏侯淵の憮然とした顔を曹操が笑っていると、家宰が恭しく入ってきた。
「皆さま、お揃いでございます」
「分かった。飯だそうだ。ついて参れ」
「はっ」
 長廊を歩きながら、夏侯惇が夏侯淵をつついた。
「お前、昨日驚いたか?」
「え?風呂のこと?それとも、その後の宴のこと?色々驚いたけど?」
「だったら、ちょっと腹くくってろ」
「え?」
 曹操がニヤニヤしているので、夏侯惇もそれ以上は何も言ってくれなかった。何のことだろうかと訝しんでいる間に、餐庁に到着した。一歩中に足を入れかけ、夏侯淵はびくりとその足を止めた。
「……なにこれ……」
「何これって、儂の家族だろうが」
 そこには、左方に二十五人の男子、その後列にそれ以上の女子、右方にきら星の如き夫人方がまるで戦勝の宴のようにぞろりと並んで着座していた。これで一家族!?と思うと、何かよく分からない迫力に泣きそうになる。大体、夫人をこんなに客の前に並べたらまずいだろう!?いくら俺達親族とは言ったって!?
「……主公、いつもこんな風にして飯喰ってるんですか……?」
「いや、さすがに毎日こんな事してたら肩が凝るわ。だがたまにこうして並べてみないと、顔を忘れる奴が出てくるから」
「ははは……なるほど……」
 この人数ならそういうこともあるかもしれない……。
「……子廉とか子孝とか、身内が来ると、わざとこれやるから、主公」
「あぁ、そうなんだ……」
「何だったら、自己紹介させようか?」
 曹操は夏侯淵の面喰らった顔を見てニヤニヤしている。
「いえ、大体のお名前とお顔は一致してますから」
「すごいな妙才。儂半分位は覚えてないぞ」
「俺もお嬢様方のお顔が正直覚えられん……」
「あ〜。ちょっと育ってくると、すぐ娘共は化粧しちゃうしな」
 それを聞いて、曹操の娘達がくすくすと笑う。
「我が君、娘達は皆、妙才様のご子息様が目当ての様で、お見えになるとよく妙才様とお話をしているようですわ」
 曹沖の母親である環夫人が笑いながら声をかける。
「なるほど。そういえばお前、時々娘達に囲まれてるもんな。ん?でも元譲にも息子たくさんいるぞ?」
「元譲の叔父上ほどの堅物になりますと、妹たちは声をおかけするのも恐ろしいのでしょう」
 曹彰がニヤニヤと笑う。
「堅物とは失礼な。人をそんな朴念仁のように」
 夏侯惇がわざと憮然とした顔を繕うと、更に曹彰はニヤニヤ笑った。
「だって、妙才の叔父上とは違って、本当に堅物でしょう?せっかく父上が女を勧めてもにべもなく」
「別に嫌いな訳ではありませんよ。ただ、某は妻しか目に入らぬだけです」
「それが堅物だと言っているのです」
「俺と違ってってなんですか?」
 夏侯淵が身に覚えのない話に眉をしかめる。
「またまた、叔父上。さっき女達が話しているのを聞きましたよ。誰か幸運な侍女が、妙才の叔父上の寵愛を賜ったらしいって」
「は!?何それ!?」
 見ると、周り中がニヤニヤしている。
「何だそれは。そうなのか、妙才?」
 曹操が素知らぬ顔をしている。やられた!何か仕掛けやがったな、主公!? 
「褥の中には激しい戦の跡がありありと。さすがに妙才の叔父上だと、皆が噂していますよ?」
「いや、あの!違っ!!」
「あら、妾も聞きましたわ。例のお香が焚いてあったとか何とか」
「いやだ、姐上ったら」
「くすくすくす」
 例のお香!?例のお香って、アレ!?
「あれ、主公が持たせた奴じゃないですか!?例のお香って何の香だったんですか!?」
「ん?効いただろ?あれ」
「効いたって、何が!?」
「いやですわ、妙才様ったら」
「おやめなさい。小さい子供もいるのですよ」
 下氏がぴしゃりと言うと、一応皆口を閉ざした。
「子文、その様なことを言って回るなど、女児ではあるまい、慎みなさい。第一、主に勧められたのであれば、断れるものでもないでしょう?」
「いやあの奥方様!本当に俺違いますから!」
「大丈夫ですわ、妙才様。妹には内緒にしておきますから」
「いや、本当に違うんです!!」
 やってくれたなクソ主公!!!愉快そうにこっちを見ている顔が余計むかつく!!!
「子文、ご覧なさい。潔癖な元譲様がお怒りですよ?下を向いて震えるほど怒っていらっしゃるのが見えませんか?」
 いやあのそれ、多分笑ってるんだと思います奥方様!!!
「いやいや、それなら儂も送り込んだ甲斐があったというものだ。気に入ったなら連れて帰っても良いぞ?」
「結構です!!」
 確かに昨日の夜、帳の中では激しい戦だったけど!!でも身に覚えのないことでこんな恥ずかしい思いをしないといけないなんて!!!
「父上、この場合、主に勧められた女に手を付けるのと、手を付けないのでは、どちらが正しい対処の仕方なのですか?」
 女の味も知らない曹植が愛らしい顔で曹操に尋ねる。
「それはもちろん妙才が正しい。主の勧めた物に手を付けぬなど、不遜きわまりないと心得よ。聞いとるか、元譲」
「主公のお心遣いがありがたくももったいなく、祭壇に祀っておるのですよ。それより、もう一杯もらってもよろしいですか?」
 全く素知らぬ顔で一人食事を進めている夏侯惇にも腹が立つ。少しは助け船出せよ!俺が昨日誰といたか、一番知ってるのは元譲なんだから!!
「……元譲の叔父上の許にも、父は女を送ってきたのですか?」
 潔癖と言うなら夏侯惇などよりよっぽど潔癖な曹丕まで、そっと袖を引いて訊いてくる。「いえ、主公は無駄なことはなさらないので、某は久しぶりにゆっくり眠らせていただきました」
 どの面下げてゆっくり眠ったとか言うんだ!!?ろくに眠らせてなんかないだろう!?激しい戦だったくせに!!!
「そうですわ。長い旅の後ですもの、ゆっくり休ませてあげねばいけないところですのに、我が君?」
 下氏が曹操を睨むと、年の若い周姫がくすくすと笑う。
「まぁ。長い旅の後だというのに、さすがに妙才様ですわ」
「だから、違いますよ!?」
「叔父上は間違ったことをなさった訳ではなのでしょう?それではあまりからかわれては気の毒という物です」
 曹植が綺麗にまとめると、女達は一段と声を高めて笑った。



「主公!!!さっきのアレは何ですか!??!?」
 朝食が終わるなり、夏侯淵は曹操の部屋に押し入った。
「ん?いや、だって褥の掃除したらばれるかなぁとか思って。だったら何かでっち上げるかなぁとか。それならこの旅の間、お前のせいで元譲大変な目に遭ったみたいだから、お前も少しくらい大変な目に遭えばいいかなぁとか思って」
「少しくらいって、ちっとも少しじゃありませんよ!!」
「だってお前、強姦しちゃったんだろう?」
「いやそれは……!」
「それは犯罪だよなぁ。ほら、信賞必罰は軍の基本だし」
「でも俺、これから先、ずっと何言われちゃうんですか!?」
「間違ったことしてないんだから良いだろうって、開き直っとけば良いだろうが。第一、帳の中では大変な戦だったってのは、嘘じゃないんだろう?」
「俺もう、主公のご自宅にはお邪魔しませんから!!!」
「それは女達が寂しがるなぁ。侍女共なんか、次は私かもって、みんな手ぐすね引いて待ってるぞ?」
「うわ〜〜〜!!!」
 頭を抱えている夏侯淵に、夏侯惇が他人事のように提案する。
「何もしてないのにさもしたように言われるから腹が立つんだろう?今度来たときはいただけばいいだけの話じゃないのか?」
「それを俺に元譲が奨めるの!?俺が他の奴としても気にならないの!?」
「え?なんで?何を気にしろと?」
「うわっ!むかつく!大体、元譲は何で手を付けないんだよ!こうやっていじめられるからだろう!?」
「いや、俺は本当に妻以外の女性とあんまりする気になれないだけだ」
「嘘だよそんなの!」
「本当だって」
 これには曹操も喰いついてきた。
「儂もそれ前から聞きたかったんだけど!本当に奥方だけで満足してるのか?」
「してますよ?」
「そりゃお前の奥方は相当佳い女だけど、お前、女ってのはそれぞれ違う良さがあるもんだぞ?まさか、妙才が好きだからとか?男の方が良いとか言う?」
「怒りますよ?某本当に男とやるの嫌なんでそれは絶対ないです」
「待て、お前、結婚した後他の女としたことある?」
「ありますよ」
「いつ!?」
 曹操も夏侯淵も、夏侯惇が他の女性を相手にしているところを一度も見たことがないのだ。平気でおもてなしの一つとして女性を宛がうこの時代にそんなことしてるようじゃ、夏侯惇が曹操の枕席に侍っているとかいう噂が出るのも仕方がないとも言える。
「滞陣が一年とか二年とかに及ぶと、某もちょっと城内で親しくなった女性とそういう事になるときもありますよ?」
「……それ、いつの戦?」
「いやまぁ色々」
「……儂とかも一緒に行ってる戦?」
「そういうこともありましたが」
「うわ!全然気付かなかった!何だよやる事やってんのかよ!だったら儂が勧める女にも手を付けろよ!」
「いや、そんなに良いとも思わなかったんですよ。何かいつも変な後悔しか残らなくて。主公は新しい女性が好き。某は馴染んだ妻が好き。それで良いじゃないですか」
「つまらん男だな!!この堅物振りを見せられたら、そりゃ勧めてみたくならないか?この女なら陥落できないか?こっちの女ならどうだって、儂が勧めたくなるのも分かるだろう!?」
「いやあんまり勧めないで下さい!元譲は気にしないみたいだけど、俺は元譲の女関係も悶々としちゃうんで!!」
「そうなの!?お前、今までそんなのおくびにも出さないで!」
「いや、もうこうなったら色々出してきますんで!」
「もう良いから、こんなバカ話は終いにして下さい。出仕に遅れますよ?」
「儂と一緒に出仕するのに遅刻もへったくれもあるか!儂の選ぶ女はすごいよ?色々心ゆくまでおもてなししてくれるよ?一度ぐらい試してみない?」
「朝っぱらから何の話ですか。子供じゃないんですから、お互いの女性関係なんてもうどうでも良いじゃないですか」
 夏侯惇は相変わらずとりつく島もない。戦の時のように、どんなメチャクチャな命令を出しても「御意」とか言ってやってくれれば良いのに!女に関しては本当にこいつ付き合い悪いぞ!だから儂が意地になるんじゃないか!!こいつマジでどんな顔して手を出すんだ?この涼しい顔のまますんのか?それとも豹変したりすんのか?クソ、自分ばっかり清潔な顔しやがって!
 当然差し向けた女に、後で色々報告させようと思っている曹操である。そういうのが透けて見えるから、夏侯惇が絶対に手を付けないのだという事がイマイチ分かっていない曹操でもある。
 今にもさっさと帰ってしまいそうな夏侯惇を恨みがましく見てから、しょうがなく曹操は標的を変える事にした。
「じゃあ妙才でも良いや」
「俺ですか!?俺は別に元譲と違って普通ですよ?別に面白くないですよ?誘惑には結構弱い方だし、えっちも普通にしますから、主公の興味を引くような面白い事はないですよ!?」
「それなら今度うち来たとき、何人か見繕っておくから、うちの女共を面白がらせてやってくれ。で、どんな女が好き?」
「え?俺は、元譲が……」
 一瞬、その場に沈黙が降りた。
「うわっ!今なんか通った!?」
「……なんか来ましたね……」
「何で!?だって俺、今女どころじゃないよ!?」
「……そうか、お前はそうかも……」
 曹操が額を引きつらせて言うと、夏侯惇が本気で嫌そうな顔をした。
「何で元譲そんな顔!?」
「……いや。すまん、俺もう行くわ……。それでは主公、失礼いたします」
「あぁあ、待って元譲!!」
 二人して遠ざかっていく後ろ姿を眺めて、曹操はほんの少し「ちぇっ」とむくれた。



「は〜。何かホントにえらい目に遭った……」
 まだ汗をかいているらしい夏侯淵に、夏侯惇が小さく笑ってみせる。
「主公が良い思いをさせてやろうって言うときは、色んな事肝に銘じておかないと後が大変だぞ」
「……だから元譲は主公の所の女には手を付けないの?」
「いや、それは本当に、他の女に興味がないだけだ」
 一瞬、嫂上と俺だったらどっちが好き?と訊こうとして、すぐにやめた。比べられる物でもないだろうし、今訊いても確実に嫂上と言われるだけだ。
「……それより、眠いな……。仕事中に寝ちまうかもしれん」
「まぁ、長旅の後だし、今日くらいはきっとみんな大目に見てくれるよ」
「そうだな」
 二人で並んで歩きながら、夏侯淵はちらっと夏侯惇を盗み見た。
「ん?」
 すぐに見返してくれる夏侯惇が嬉しい。年甲斐もなく、夏侯淵は甘酸っぱい気持ちになった。
 えらい目には遭っちゃったけど、主公の所に来て良かった。本当に主公には足向けて眠れないよ……。
 幸せな気分で長廊の角を曲がった瞬間。
「あ!叔父上!」
「げっ!子文様!」
 そこに曹彰の姿を見つけて、夏侯淵は逃げ出したくなった。
「叔父上〜。色々聞かせて下さいよ〜。みんな、どの女がその幸せな女なのか、噂してるんですよ〜?誰も名乗り上げないんだもの。さすがに口の堅い女がお好みですか?」
 前言撤回!!
 やっぱり主公のおうちは鬼門だ!!!
 取りあえずほとぼりが冷めるまで、絶対にこの屋敷の門はくぐるまいと心に決める夏侯淵であった……。


宜しければ忌憚のないご意見をお聞かせ下さい。

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