コックさん殺人事件


 
  目を閉じると、瞼に唇を感じた。それはいつものことだが、今の甘寧には、それを煩わしいとしか思えなかった。
 当たり前だ。今日は呂蒙とケンカをしたのだ。ケンカをして、ケンカの後に体で誤魔化されるというのは、はっきり言って甘寧の本意ではい。
 図々しい奴だと思う。いつもこの男は図々しくて、大体今回のケンカだって、俺がうちの料理人を殺したくらいのことに目くじらを立てたこいつが悪いんだ。



 甘寧の屋敷につとめる料理人が、ある日小さな粗相をした。粗相と言ってもたわいもないことで、雇われたばかりの料理人が甘寧を甘寧だと気づかずに、「甘興覇の女」だと勘違いしたのだ。
 呂蒙からしてみればそれは仕方のないことだった。甘興覇という名前はあまりにも有名で、江のほとりに住む者で、その名を聞いて震え上がらぬ者はいないほどだ。その甘興覇がこんなに小さくて可愛いと、誰が思う?と、呂蒙はその料理人を弁護した。俺だって初めて会ったときは、興覇を興覇だとは思わなかった、と。だからそんな理由で人を殺すのはやめてくれ、と。

 甘寧だって、一目で自分を甘興覇だと認識した人間には、未だ嘗て会ったことはない。
 本当は気にしているのだ。
 どんなに鍛えまくろうと、食べまくろうと、一向に大きくも太くもならない自分の体を、本当はとても気にしているのだ。
 それをこともあろうに、自分を「甘興覇の女」と間違えるとは何事か。よしんば本当に自分が「甘興覇の女」だったとしても、「甘興覇の女」に厨房の仕事を手伝わせたあげく、侮辱的な発言をして良いとでも思っているのか?
 始めに野菜の皮を剥けだの火を熾しておけだの言われたときは、「こいつ後で俺が甘興覇だって知ったら、どんな顔すんだろう」と愉快に思ったりもしたが、どうも態度が小バカにされているようで、まずそれが甘寧の気に障った。だが少し思い返してみると、こいつは元々飲み屋の親父の所でゴロ撒いてたような奴だから、こんな物言いしかできない奴かと少しばかり同情して、そんな態度も面白く見守ってやったりしていたのだ。甘寧にしてみれば、ずいぶんと優しくて大人な態度を取ったものだと、自分で感心している。
 なのにあの男、少々料理は巧く作れるが、それでもただのごろつきのヤクザモンのくせして、「甘興覇の女」に何と言った? 「どうせ男にケツを振るしか能がない」だと? 「甘興覇の女でなければただの負け犬のくせに」だと? 「男のくせに男に色目を使うような性根の腐った奴」だと?

 あぁ、どうせ俺は男のくせに男が好きな変態だよ。その通りだ悪かったな。

「でも子明、俺は自分から男に色目使ったこともなけりゃ、男と寝るしか能がないつもりもないし、第一俺は自分の「女」に男と寝るしか能のない様な奴は選ばねぇぞ!」
「だからさぁあそれは確かにずいぶん酷い言い種だと思うよ? 確かに甘興覇という男をずいぶん見くびった見方だと思うよ? でも所詮あの男は、自分がそういう考え方しかできないから、だから他の人も全てそんな風にしか考えられないと思っちゃってるわけだろう? 可愛そうな男なんだよ」

 そんななことより。呂蒙にしてみれば「俺に殺さないと約束しておきながら、その舌の根も乾かぬうちにさっさと射殺してしまうなんて、俺との約束をいったい何だと思ってやがるんだ」という方がよっぽど重大問題だった。
「だからってお前、家人を諸共引き連れてうちの船囲むってどういう了見だよ。マジでうちと一戦交えるつもりだってんなら、殺るぞこらぁ!」
 話しているうちにまたむかついてきた。そうだ、俺があの男を殺したと聞いて、この男、家人を五十人ほども連れて来やがったのだ。俺は今までそんなことしてきた奴ぁ、一部刻みに切り刻んで、贄として河に捧げてきたぞ!
「だってあぁでもしないと、興覇俺が本気だって分かってくれないだろ?」
「本気で俺と事を起こそうと思ってんなら、こんなとこで俺の胸なんか摘んでんじゃねぇよ!」
「何だよ、興覇だってあの時はすぐに謝ったじゃないか!」
「だからアレは寝惚けてたからだろ!? マジで謝ってるようにでも聞こえたのか!?」
「謝ってよ! 興覇俺との約束破ったんだからぁ!」

 そうだ、あの時の甘寧はまるで悪いことなど何一つしていないような顔をして、船の上で裸になって眠っていたのだ。す〜す〜と気持ちよさげな寝息まで立てていた。腹を立てた呂蒙が強引に起こすと、ぼんやりと目を開けて、「あ、子明。ごめん、やっぱ殺しちゃったv」と愛らしく笑ったりまでしたのだ。
「興覇って本当にさぁ、俺との約束、なんだと思ってるわけ!?」
「俺にあいつを返せばすぐ殺すって分かってそうなモンなのに、お前がちゃんと返したんじゃねぇか!」
「どんな理屈だよ! 大体興覇が殺さないって言ったから返したんだろ!」
「んなのすぐ方便だって分かるじゃねーか!」
「だから、俺との約束なんだと思ってるんだってば!」
「うるせぇな、うちの人間俺がどうしようが、お前の知った事じゃねぇよ!」
「ふざけんなバカ阿寧!」
「うるせぇ! そんな腹立つんなら、とっとと出てけバカ野郎!」
 二人はとても一国の将であるとは認められないような次元の低い争いをした挙げ句、寝台の上で取っ組み合いをした。本当に最近の呂蒙ときたら、図々しいにも程があるではないか!
「あぁもう帰れ帰れこの阿蒙が! いつまで人の胸撫でくり回してりゃ気が済むんだ!」
「腹立ったから、犯す!」
「やれるもんならやってみやがれこのヤロー!!」
 ……二人の怒鳴り声は、こうして朝まで続いた……。



 甘寧が料理人を私情で殺したという件は、既に孫権の耳に入っていた。当たり前だ。呂蒙があれだけの人数で甘寧の船を囲んだのだ。「とうとう呂将軍が甘将軍と一戦を交えるらしい」と、建業の都はその噂で持ちきりだ。
「……どうやら本当に一戦交えたらしいな……」
 二人の顔と言わず腹と言わずに散らばりまくっている痣を呆れ顔で見つめながら、孫権が深い溜め息をついた。
「で、甘将軍。私情で人を殺したとなれば、例え将軍といえども罪は罪だぞ」
 一応理由は聞いてやる、子細を話せと言う孫権に、甘寧はむくれたようにそっぽを向いた。あぁもうこの男は本当に、子供かお前は!!と、孫権は自分のことも省みずに怒鳴り出したくなったが、取りあえずここはぐっと我慢だ。
「……甘将軍の屋敷で新しく雇った料理人が、将軍を侮辱したのだそうです」
 仕方なく、呂蒙が事のあらましを報告した。その料理人がどんな風に甘寧を侮辱したのかという部分だけはさすがに省き、一応本人とは気づかずに本人に向かって侮辱をしたこと、本人だと気づいた後、呂蒙の屋敷に逃げ込んだこと、甘寧が自ら「料理人を返せ」と呂蒙の屋敷に引き取りに来たこと、殺さないという約束でその料理人を返したこと、そして自分の屋敷に戻るなり、甘寧がさっさとその料理人を殺してしまったこと……。

「……それで呂将軍が常の将軍らしくもなく、儂に相談もしないでさっさと家人を引き連れて、甘将軍の元に私闘を申し込みに行ったという訳か……」
「いや…いえ、はい、申し訳ありません…」
 恥じ入るように顔を赤らめて俯く呂蒙を横目で見て、甘寧は「ケッ」とバカにしたように舌打ちした。
「興覇! 御前だぞ!」
「何が申し訳ありませんだ。申し訳ないことならすんなバカ!」
「だから御前だぞ! 控えろ興覇!」
「事を荒立てたくなくて、わざわざ家人だけ連れてご大層にうちまで来たってのに、主公の前に連れ出されて「申し訳ありません」とか言わされてりゃ世話ねぇな!」
「阿寧!」
 阿寧と叫んでから、呂蒙は慌てて口をつぐんだ。人前で阿寧と呼ぶ奴があるか、この阿蒙が!と口の中で自分を罵ってみたが、出てしまった言葉は飲み込める物ではない。孫権だけならまだしも、今この場には張昭だとか張紘だとかの口やかましい面々や、もちろん御史大夫や校尉などの捜査関係者も並んでいるのだ。だが呂蒙の懸念はただの杞憂だったらしく、孫権や張昭など事情を知っているらしい人間がニヤニヤしているだけで、後の連中は呂蒙と一緒になって「そうだそうだこの阿寧」と口の中で罵詈雑言の嵐と化していた。

「……それにしても、あの大人数で出向いた割にその傷とは、お互いずいぶんと気を遣った私闘をしたものだな」
 張昭がぽつりと呟く。
「うむ、儂も話を聞いたときは、これはどちらかが死ぬだろうと思ったぞ」
と、張紘が後を引き受ける。
 「どちらか死ぬ」って、「どちらか」じゃなくて、どうせ俺が死ぬとかみんな思ったんだろうよ、と、呂蒙は内心舌を出した。
「こいつは人数だけは集めてきたけど、最初からやる気なんて全然なかったぜ。こけ落としさ」
「では甘将軍が呂将軍を『やる気にさせて』その傷を負ったという訳か」
「はっ、こんなモンが傷?」
 甘寧はその細い割には逞しい体を見せつけるようにして、ニヤリと笑った。
「傷って言ったら刀傷しかないだろう? まぁこの俺にそんなモンを付けられる奴は、どこの国にもいないだろうがな」
「なんだと興覇! サシでやるならマジで殺るぞ!」
「ほぉう? 子明なんかがこの俺に傷を手負わせられるとでも? 秒殺されたくなかったらおうちで良い子にしてるんだな!」
「俺がいつも下手に出てると思うなよ、興覇!」
「お前さんにそのくらいの気概があるとは初耳だ!」
「マジあったま来た! 抜け、興覇!!」
「やれるモンならやってみやがれ!」
 今にもこの場で刀に手を伸ばしそうな二人を、張紘が大声で押し止めた。
「控えぬか二人とも! そんなに血の気が余っているのなら、働き場所はいくらでも作ってやるぞ!!」
 今更その程度に怒鳴られたところで屁とも思っていない甘寧と違って、呂蒙はすぐに前を向き直し、「申し訳ありません」と頭を下げた。
「うむ、二人とも、この私闘の続きは次の戦で首を多く取った方の勝ちとしろ。今後このように城下を騒がすことはまかりならんぞ」
 孫権が仲裁を入れてから、さて、と顎に指を這わせ、張昭を振り返った。張昭は心得たように頷くと、「呂将軍には家人を引き連れて甘将軍の船を囲み、城下を騒がせた罰として、十日間の謹慎を命ずる。免客牌でもかけて、大人しくしているように」と仕置きに入った。

 まぁ子明は良い、子明は。奴は最初から反省してこの場にいるのだから。だが興覇の奴はどうしてやろうか……。
 張昭は少しの間考えて、妙案を思いついた。

「甘将軍には罰として、この先三十日間、休日を返上して毎日夜警をしてもらおうか」
「ちょっと待てよ! なんだよそれ! こういうときは謹慎とか言うんじゃねぇのかよ!」
「貴様に謹慎を言いつけたところで、大喜びで遊び歩くに決まってるだろうが! 大体、お前を諫めるために城下を騒乱した呂将軍と、人を殺したお前とに、同じ処罰が下るとでも思っているのか!良いな、一日でもサボったら、更に三十日追加で働いて貰うから、そう思え!」
「ふざけんなよクソジジィ!」
「人一人殺しておいて、こんな処置で済んだだけありがたいと思わぬか!」
「誰が思うか!」
「処罰に不服は挟ませぬぞ。さぁ、呂将軍はとっとと帰りなさい。良いな、外を出歩くことも、人を招き入れることもまかりならんぞ。甘将軍は大人しく仕事をしろ、仕事を」
「なんだよそれ!!!」
「良いからさっさと刑に服すのだ!」
 ギャンギャンと喚き立てる甘寧の耳を引っ張るようにして、張昭はさっさと甘寧をその場から連れだした。
 後に残った面々は、甘寧の声が聞こえなくなるまでその声の後を目で追い、それからお互いに顔を見合わせて、大きな溜め息をついた……。



「……柄にもなく、子明を庇っていたな、お前」
 張昭は自室に甘寧を引っ張り込むなり、そう言ってニヤリと笑った。
「何のことだよ」
「誤魔化さないで良い」
「庇うも何も、あいつ何にもしてねぇじゃん。それを偉そうなことするからあぁいう目に遭うんだよ。ったく、あいつ図々しいにも程があるよな」
「お前、端で見てると可愛いくらい子明にラブラブだな」
「ケッ、言ってろよ」
 つまらなそうに窓の外を見る甘寧に、張昭はクックッと笑いながら、酒を勧めた。
「何だよ、処罰中の俺に酒なんか呑ませていいのかよ」
「子明を庇った良い子には、ご褒美をやらないとな」
「だから庇ってないっての」
 それでも張昭から酒を受け取ると、甘寧は喉を鳴らしてその酒を流し込んだ。

「しかしアレだな。子明の方が、処罰は重かったかもしれんな」
「俺の最悪の処罰より、謹慎で済んでるあいつの方が?ふざけんなよジジィ」
「なに、十日も謹慎を喰らったら、お前と違って子明は本当に屋敷で大人しくしてるだろう。ケンカ中のお前と十日も仲直りできないんだ、謹慎が解けた頃にはあいつ、きっとすごいことになってるぞ」
「はん、たかが十日じゃねぇか」
「その十日があのバカにはきっと辛いぞ」
 愉快そうに笑う張昭を、甘寧は呆れたように見つめた。
「この、極悪人」
「ふふん、このくらいの楽しみがないと、宮仕えなどでしていられるか」
 今のお前さんを他の奴らにも見せてやりたいぜとぶつぶつ言う甘寧に、張昭は人の悪い笑顔を投げた。
「せいぜい今から腰でも鍛えておくことだな」
「うっわ、マジ最悪……」
 感想を聞かせろよと笑う張昭の目が、存外本気で言っているような気がして、甘寧は残っていた酒を一気に飲み干した。



 さすがに張昭の年の功とでも言うべきか、それとも呂蒙がよほど分かりやすい性格をしているのか。
 謹慎が解けた呂蒙はまっさきに甘寧の屋敷に現れ、「ケンカしてたんじゃないのか!」とどんなに甘寧が引き剥がそうとしても離れず、「会いたかったんだ、興覇!」とか何とか気の狂ったことを言いまくった挙げ句に、本当に朝まですごいことになってしまって、毎晩の夜警が祟っている甘寧がさすがに音を上げ、「これが本当の処罰なんじゃねぇのか!?」と叫んだとか何とか。思わず本気で腰を鍛えることを考え始めた甘寧だった。



 ……料理人の冥福を祈る……。
 

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