何よりもいとしい


 
 そこは、鬱蒼として暗かった。辺りに反射する青い光は、より暗さを強調しているようで、そこを不可解な場所へと変えていた。水が横になった自分の肩を覆い、それはまるでぴったりと、懐かしい毛布にくるまれているような安心感を与えてくれた。

 それにこの匂い。
 
 よく知っているような、だがそれが何の匂いかは思い出せぬほど微かに、それでも充分に彼を落ち着かせるような、そんな匂いだった。
 ずっと、ここにいたかった。この眠りの中から醒めてしまいたくはなかった。

 この空間。

 何よりもいとしい。

 ――――それが叶わぬことだということは、誰よりも自分が一番よく知っているのに……。




 目を開けると、辺りは真っ暗だった。灯明の火は今にも消えそうに、じじじと小さな音を立てている。消し忘れて眠ってしまったのだろうか。凌統は慌てて灯りに歩み寄り、火消し蓋を手に取った。

「……ふ」

 微かな声。そうだ。一人ではなかったのだ。暫く考えて、凌統はその蓋を下に置き直した。代わりに新しい油を注ぎ足して、肩の辺りまで掲げてみる。

 甘寧が、眠っていた。

 先ほど見た時にはきつく寄せられていた眉も今は和らぎ、土気色をしていた頬や唇に、色が戻っていた。
 何の夢を見ているのか、先ほどの眠りの中で見る夢にしては、ずいぶんと心地よい夢のようだ。この男のこのような図太さには、いつも呆れさせられる。そしてそれは、必ず苛立ちを誘った。どれほど自分がこの男を傷つけようが、この男にはまるで意味がないのだ。体の傷が癒えてしまえば、心の傷も癒えるというのか。

 あんなことをされていながら……。

 一生消えない傷を付けたかった。体の痛みが引いても、心の痛みがいつまでも疼く、そんな傷を与えたかった。

 刻印を。

 この男が自分の物であるという、所有の証を体中に、そして心の奥深くにまで、刻みつけてやりたかった。

 だが、この男の穏やかな顔。

 誰の物にもならぬと、その温かに血の通った頬が告げていた。いつもより子供じみた、弛んだ口元や目頭が。僅かに拳を開いた、その指先が。
 
 自分の物に、したかった。

 誰の物でもなく、ただ自分の物に。

 それこそが、父の仇であるこの男を押し殺す、唯一の証。あぁ、あの温かな水のたゆたう牢獄に、この男を閉じこめてしまえたなら……。

 叶わぬ願いはいつまでも凌統を惹きつけ、そして繰り返し、それを夢想せずにはいられないのだ。

 灯りを消して、臥牀の上に身を伏せた。甘寧の暖かい体が、凌統の胸の中にあった。ふんわりと、よく知った匂いがする。よく知った、だが何の匂いだか分からぬほど、微かな匂い。
 温かな体温が、凌統を眠りに誘う。
 
 そして、彼はまた夢の中、そこへ行くのだ。

 水のたゆたう、あの牢獄へ。


 たった二人、互いに捕らえられた、あのいとしい牢獄へ―――――。



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