柔らかな午睡



 司馬懿が自分の執務室に入って最初に見たものは、長椅子に横になって微睡んでいる主の姿だった。
 暖かな日溜まりだけを纏って、曹丕は穏やかな寝息を立てていた。
 いつもの張りつめた緊張感が消え、年相応な、いや、いくらか幼いくらいの寝顔である。 
 司馬懿が狼狽えたのは言うまでもない。
 日溜まりが暖かいとはいはまだ春は浅い。堅い長椅子の上でなど休まれては、お体に障る。
 いや、そんなことより例え城内とはいえ、いつ何時どんな危険が待っているのか分からぬ身の上の曹丕である。この様な所で供も附けずに気楽に休んで、何かあったらどうするのだ。
 ……だが一番司馬懿を狼狽えさせたのは、曹丕のその穏やかな寝顔と、曹丕が眠っているのが司馬懿の執務室の、司馬懿の長椅子の上、という事実だったろう。

 起こしたものか。勿論起こさなければいけない。このままでは風邪を引くのは分かりきっているし、以前曹丕は「例え疲れていても、昼寝をしてしまうと夜寝付けなくて困る」と言っていた。
 眠りがお浅いのだろうか。
 神経が高ぶることの多い生活をしていらっしゃるので、眠れない夜も多いだろう。こんな所で半端に眠らずに、きちんと夜に睡眠をとっていただかなければならない。
 ……だがとても気持ちの良さそうな寝顔である。午睡の格別さは司馬懿も肌身に沁みている。夜の眠りが辛い物だとしたら、こうした気持ちの良い眠りを貪ってもらいたいとも思う。

 いかん。

 司馬懿はこういうときほど心を鬼にしなければと曹丕に向き直る。
「子桓様、 子桓様起きて下さい」
 声をかけてみる。身じろぎもしない。
「失礼します」と声をかけてから、そっと肩を揺する。
「子桓様」

 肩は細かった。

 見た目よりもずっと細い肩だ。武術に秀で、鍛錬を怠っていない体にしては、なんという細さだろうか。
 司馬懿は朱らんでくる顔を何とか落ち着けて、もう一度肩に触れる。
「子桓様、ここがどこかお分かりですか?」
「ん……」
「子桓様」
「……ここは、お前の部屋だ……」
 声が少し掠れている。
「子桓様、お声が……!」
「気にするな、寝起きはいつもこんなものだ」
 まだ半分眠っている声だ。目は堅く瞑られ、上掛けを探すように手が彷徨う。
「駄目です、起きて下さい」
「いやだ」
「子桓様」
「ここは……」
 寝返りを打ちながら、夢の中で曹丕が囁く。

「ここは気持ちがいい……」と。

 司馬懿の体が硬直し、見事に朱くなっていく。きっと今ここに誰か入ってきたら、司馬懿のことを彼岸花と間違えるだろう。

「ここは気持ちがいい」
 「ここは気持ちがいい」
  「ここは気持ちがいい」

 何度も何度も頭の中でこだまする。
 勿論、この日溜まりが気持ちいいのだ。人の気配のないこの部屋だから良いのだ。別にそれが司馬懿の部屋でなくても、同じ条件なら他の部屋でも構わないのだ。
 だが、理性では分かっているのに、心臓がその理屈を飲み込んでくれずにいる。

 駄目だ駄目だ駄目だ!!!!!

 思い切り頬を両手でぶってみる。まずこのにやけた顔を何とかして、顔色を落ち着けて、それからきっちり子桓様をお起こししなければ!

 ばしばしと頬にビンタをくれていると、視線が背中に突き刺さった。
 そっと振り返ってみる。こういう予想が当たらないようにと必死に天に祈るのだが上帝は意地悪だ。予想通りにそこには上体だけを起こして司馬懿を見つめる主がいる。
「……何してるんだ……?」
「いえ、あの……」
「……そうやって俺を起こす気だったのか?」
「まさかそのようなことは……」
「……まぁ、目は醒めたけど……」
 もう一度曹丕は体を長椅子に沈め、横目で司馬懿を見つめた。
「……俺は、お前はもっと渋い男だと思っていたが、ずいぶんと愉快な男だったらしい……」

 うわぁぁぁあぁぁぁあぁあぁぁぁぁぁん、意地悪ぅうぅぅぅうぅぅ!!!!!

 司馬懿はそこから走り出したい誘惑に駆られたが、せめてもの落ち着きを取り戻し、小さく咳払いしてから「起きて下さいませんと……」と呟いた。
「ああ、だがもう少しここでこうしていても良いだろう?」
「しかし……」
「お前の百面相も見ていたいしな」

 曹丕はうっとりするほど綺麗な顔で、司馬懿に向かって意地悪く笑って見せた。 



 司馬懿が曹丕に仕えるようになってもう二年。曹丕の信頼を勝ち得るのに一年半も費やした。

 ……それなのに……。

 曹丕は楽しそうに長椅子に俯せになって肘をつき、手に顎を乗せて司馬懿を見ている。

 一年半かかってやっと曹丕のこんな姿を見れるようになったというのに。自分が一年半かかって見せられるようになったのが「百面相」だとは、全く情けなくて涙が出る。
 わざとらしく居ずまいを正し、机に向かって木簡の整理をしていると、曹丕のクスクス笑う声が聞こえてくる。
「……子桓様……」
「邪魔か?」
「いえ……」
 書庫の目録台帳を机の上に高く並べて、出来るだけ曹丕の顔が見えないようにしてみる。
 本当はあんなに上機嫌な主をずっと見ていたいが、それではあまりに情けなさ過ぎる。

 歌声が聞こえてくる。曹丕が楽しそうに鼻歌を歌っている。
 それはまるで自分の存在を忘れるつもりかと主張している様で、抑えようとしても司馬懿は目が歌声を追ってしまうのを抑えられない。
 主の歌を初めて聴いた。話す声の深さと比べて、澄んだ柔らかい声だった。
 我慢できずに顔を上げると、案の定曹丕がにやりと笑う。
「なんだ、仕事は終わりか?」
「……いえ」
 根比べをさせるつもりか? 司馬懿も必死だ。もう情けないところは決して見せるまい。

「終わりにしろよ」
 曹丕が微笑む。

「根比べなら、俺が負けてやるから」



 負けているのは初めから司馬懿の方だ。曹丕もそれを知っている。



 完全降伏の白旗を振りながら、司馬懿はそんな自分を滑稽だとも幸せだとも思う。
「お茶の仕度をさせましょう」
「ああ、それより何か水菓子が食べたいな」

 曹丕が伸びをしながら微笑む。

 司馬懿が曹丕に使えてやっと二年。初めてみる主の「甘え」である。



 日溜まりが心地よい。
 何とも柔らかな、午睡のひとときである。

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