暗い回廊を、ゆっくりと歩いていく影があった。長い髪を無造作に頭上でまとめた、細い長身の影である。その影に気づいた曹植は、そっと後についていった。
 影は廊の欄干に手をかけて、小さな溜息を吐いている。宴の酒気に酔ったのだろうか。そう酒を煽っているようには見えなかったが。
 影は見られていることに気づいていないのだろう。そっとほつれ毛を指先で掻き上げる、その仕草が艶を含んでいた。欄干の柱に頭をもたせ架け、体重を預けている。あの柱が自分であれば良いのに、と、曹植は握る拳に力を込めた。
 どのくらいの時間が経ったのだろう。影がそっと着物の襟を寛ろげて、今度は大きな溜息を吐いた。
 曹植は思わず喉を鳴らした。
 兄は確かに酒に弱い。酔っておられるのだ……。だが、あの姿はまるで……。
 幾度抱いても決して強ばらせた体を弛めてはくれない兄である。いつもきつく唇をかみしめ、自分に向かって毒を吐く兄である。その兄の、あのような姿を見るのは初めてだった。

 あの柱が自分であれば良いのに。

 兄が自ら体を預け、襟元を広げ、甘い息を吐きかける、あの柱が自分であれば、どれほどか……。
 むしの良い話だ。兄が自分を憎んでいるのは、自分でそうなるように仕向けているからではないか。
 兄が私を憎むように。私という存在の、その存在すら許せなくなるように。

 ――――― 兄が私を殺すように。



 影は暫く柱に体を預けたまま、じっと深い息を洩らしていた。少し辛そうである。あれしきの酒で……。曹植はそんな小さな弱点を愛しく思った。
 そのとき、影が小さな悪態をついた。
「何だってこんなに酒を飲まなければいけないんだ……。何かあるとすぐ宴を開くのは、絶対に何か間違ってるぞ……」
 風に乗って運ばれてきたその悪態の愛らしさに、曹植は笑顔を浮かべた。
 その笑顔は泣き顔のように歪んでいたけれども……。
 
 こんな事を言う人だった。まだ私たちがただの兄弟だった頃、兄は平気でこんな風に益体もないことを洩らす人だった。少しおどけたように微笑んでみせる兄に、自分たち弟は夢中だった。子供特有の高い声で笑うと、兄は誰よりも優しい手で頭を撫でてくれた。
 自分も、年の小さな阿熊も、兄とそう年の違わない、それどころか兄よりもよほど背も高く腕も太い二哥までが、兄に頭を撫でてもらいたがった。
 自分のことしか考えない父と、自分の世界に閉じこもってしまった母の、そんな両親の間に生まれてきた兄弟だった。確かに存在しているのに、触れようと思えば触れられる父と母がいるのに、だが確かに四人は親の無い子であった。
 寂しいと思ったことがないのは、兄がこの兄だったからだ。
 兄は誰より美しく、誰より優しかった。支配者の息子である四人に裏のある笑顔で近づいてくる者を、兄は細い体で拒絶し、自分たちを守ってくれた。人は兄を冷たい人形のようだと言うが、兄を冷たい人形にしてしまったのは父と母であり、また支配者に群がる歪んだ人間の心であった。
 「冷たい人形」である兄がどれだけ人間らしい人であるのか、自分たちだけが知っているという事実が弟たちを有頂天にさせた。兄弟の他にそんな兄を知っているのは、父の権力に興味のない、いや、父の後継者という「次世代の権力」には興味のない者だけで、そんな人間は片手に余るほどしかいなかった。
 その楽園は小さな箱庭だった。
 小さな、そしてもろい箱庭だった。
 兄が誰よりも父親を求めていると知ったとき、それ故に激しく父を憎んでいることを、父の全てを否定し、だからこそ誰よりも優しい人であることを知ったとき、曹植は自らその箱庭を壊したのだ。
 
 兄を陵辱するという形で。



 反対側からまた一つ、影が近寄ってきた。曹植は見つからないようにそっと柱の蔭に身を寄せる。
 影は兄に近づき、兄はその影を振り返った。
「子桓様、大丈夫ですか?」
「あぁ仲達か……」
「見つからぬように出てくるのに手間取ってしまいまして。遅くなってすみませんでした」
「気を使うな。俺は大丈夫だ」
 司馬懿は曹丕の肩にそっと手をかけると、柱から自分へと、兄の体重を奪った。
 曹丕が司馬懿に体を寄せる。司馬懿が庇うようにその肩を抱く。小さな溜息。寛ぎ、安心しきった顔。
 その顔が、曹植の視界を霞ませた。足下が空を踏んでいるように心許ない。柱に手をつき、それでも曹植は兄と司馬懿を見つめた。
 兄の顔。かつて自分たちのものであった、柔らかな兄の顔。
 ああそうだ、分かっている。
 自分でそうなるようにし向けたのだ。兄が自分を憎むように。兄が自分という存在の、その存在すら許せなくなるように。
 自分は上手くやっている。兄の心の深い傷に傷つかない振りもできる。兄に憎まれていることを楽しんでいる振りも。
 兄は自分を憎んでいる。
 全て上手くいっている。それで良いではないか!!

「子桓様、どうなさいますか? このまま部屋に戻りますか?」
「いや。宴を途中で切り上げたとあっては、また何を言われるか分からないからな……」
「ではもう少し休んでいきますか?」
「ああ……」
 曹丕は欄干に腰をかけるようにして体重をかけ、額を司馬懿の腕に押しつけた。辛そうな息。

 その男には、そんな姿を見せるのか……!

「水でも持ってくれば良いのに。気の利かぬ奴だ」
「あ…、すいません、今」
 慌てて翻しかけた身を、兄が手で制した。
「行かなくていい。暫くこうしていろ」
「は……。申し訳ありませんでした」
「いや、いい。水なんて持っていたら、誰にも見つからずに抜け出すなんて不可能だしな」
 だから置いてきたんだろう、と、兄の頭が司馬懿の腕を小突く。
「ご明察、痛み入ります」
 睦まじげな二人だった。
 司馬懿は兄の体を優しく支え、兄は額を司馬懿の腕に押しつけたまま、だるそうな手でその腕を握りしめている。
 安心しきった表情と、それを見守る優しい瞳。
――――― それは一幅の絵だった。

 曹植は息が詰まる思いでありながら、それでも目をそらすことが出来ずにいた。

 しばらく時間が止まっていたが、そのうちにゆっくりと兄が司馬懿から体を離し、「もう大丈夫だ」と呟いた。
「本当ですか?」
「大丈夫だと言ったろう」
「広間についたらすぐにお茶をお持ちしますから」
「ああ……」
 支えようとする司馬懿の手を振り払いかけて、だがやはりまだ足下がおぼつかないのだろう、曹丕は司馬懿の袖の端を少し掴んだ。
「大丈夫ですか?」
「くどいぞ」
「ですが……」
 兄を気遣う問答を何度も繰り返しながら、二つの影は小さく消えていった。



 完全に二人の気配が消えた途端、糸がふつりと切れたように、曹植は床に膝をついた。
「……兄上……!」
 涙が頬を濡らす。堪えきれずに嗚咽が漏れた。
 今ここにいる自分は、何と頼りない存在だろうか。

 自分はこの柱にすら劣るのだ

 あぁ勿論、そうさせたのはこの自分だ。それは分かっている。それは分かっている。
――――― でも……!!
「兄上……、兄上…!」
 風に乗って広間の笑い声が響いてくる。
 頭が割れそうだ。いいや、この体が。
「兄上……ぇ」
 曹植は子供のように泣いた。遠い昔、どこで泣いていようとも、こうして泣いていると必ず兄は自分を見つけだして優しく抱きしめてくれた。
 自分があの楽園を壊したのだ。あの楽園、小さな箱庭を。
「兄上……」
 どれだけ泣いても、もう二度と兄が自分を抱きしめることはない。

 自分はこの柱にも劣るのだ。



 宴の音。
 あのむかつく宴のざわめきから逃げるように、曹植は部屋へと急いだ。

 広い宴の間にいても、曹植は必ず兄の姿を探し、その美しい姿を目で追ってしまう。
 兄の姿。傍らには必ずあの男がいる。

 苛ただしく部屋の扉を閉めながら、それでも曹植は自分がまた兄を訪い、兄を傷つけ、兄を苦しめることを知っていた。

 兄に憎まれることだけを考えて。

 兄が司馬懿に見せた柔らかい笑顔を思い出す。拗ねてみせた顔。弱さを隠さずに見せていた、兄の顔を。
 まだ自分たちがただの兄弟だった頃、兄はそんな顔をいつでも自分たちに見せていた。あの頃は何と遠く、輝かしい日々だったろう。
 暗い自室の中で曹植は狂ったように笑った。あの頃の自分と今の自分を比べ、そしてそれを引き起こした自分を思うと、どうして笑わずにいられるだろうか。喉が嗄れ、頭がくらむほど笑い続ける。
 涙で頬を濡らしながら。

 まだ自分たちがただの兄弟だった頃。
 自分はあの頃どんな風に笑っていたのだろうか。今ではあまりにも遠い笑顔を、思い出すことが出来なかった。
 笑い疲れた曹植は、自室の柱に愛しく触れてみた。
 その柱が先ほどの柱であるかのように。
 兄のぬくもりを含んだ、あの柱であるかのように。
 せめてあの柱になりたかった。
 愛情の一片も持てない父に愛されることも、、それ故にどんな我が儘も許されるこの身分も、亡霊のような取り巻きに囲まれることも、そう、この詩才さえも手放して構わない。
 自分があの柱にさえなれるのならば……。

「兄上……」
 兄がしていたように、柱に体を持たせかけ、曹植は静かに泣いた。
「兄上……」
 泣いてさえいれば、兄が自分を探し出してくれる気がした。
 この醜い心の中にいる、小さな小さな曹植を。
 
 だがそんな幸せな日々はもう二度と訪れはしないのだ。
 だからせめて、曹植はあの柱になりたかった。



 この世の中で何よりも幸せな、あの柱に。

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