ふ た り


 
 それは練兵の休憩を取っていたときのこと。日が出てすぐからの厳しい鍛錬に最初は根を上げていた新兵達も、最近はどうやらサマになってきた。

 夏侯淵の調練は厳しいので有名だが、気さくな彼の性格が、兵にとって恐れだけではない、気易い存在にさせていた。束の間の休息時間、将の中には副官達と兵糧を食べ、兵とは話しもしない者もいるが、夏侯淵は今も兵の間で車座になって飯を頬張っていた。こうした肌と肌のつきあいが、戦場で阿吽の呼吸を生むのだと夏侯淵は信じているし、それは今までの経験にも充分裏打ちされている。

 新兵は最初のうちこそ疲れのために食事が喉を通らなかったり、せっかく食べたた物をもどしたりもしたが、体がついてくるようになると平気で軽口も叩けるようになる。夏侯淵に向かって他の武将の品定めができるようになれば、もう一人前だ。

「そういえばご一族の伏波将軍って、ああ見えて練兵はえぐいんでしょう?」
「元譲? えぐいもんか、俺の調練なんかよりよっぽど優しいぜ。ただあんまり間抜けなヤロウは馬上から蹴り倒すけど、俺みたいに剣の束で殴る訳じゃないしさ」
「……どっちもえぐいっスよ」
「なんだよ、お前らだって文句言いながら結構調練楽しそうじゃん!」

 言いながら、夏侯淵は突き固めた飯をさらに頬張った。練兵中の兵糧は量が少なく肉気もない。腹が減っても体が動く、そんな兵を夏侯淵は麾下に望んでいた。兵糧を絶たれて死に物狂いで戦うことなどザラなのだ。普段から、兵にはこれに慣れてもらわねばならない。
 その代わり、戦の後には肉でも酒でもたらふく分け与える。夏侯惇の気前の良さを真似したことだが、これによって兵は更に夏侯淵を慕い、戦の場で義務だけではない働きを見せてくれるようになるのだ。

「将軍、飯もっと食いますか?」
「飯よりそっちの羮をくれ」
「はい」
 少しの野菜とこねた小麦を煮たスープ、それに米飯。兵糧は戦場と同じく交代で竈から作らせる。何事も実戦と変わらずにやることに意味があるのだ。

「そうだ。伏波将軍っていえば、あの噂って本当ですか?」
「ん? どれ?」
 兵士達の噂にはロクな物などあったものではなく、よく出てくるのは曹操や郭嘉の女人関係で、奴らは艶のある話に餓えている。その話が全て本当だとすると魏の上層部はすごいことになってしまうのだが、夏侯淵は面白がって聞いて回り、城に戻って皆に披露したりもしていた。
「言っとくけど、元譲は夫人一筋で、女の話なんかないぞ」
「違いますよ、将軍。男の話です」



「元譲ー!」

 城に戻るなり、夏侯淵は夏侯惇の元にひた走った。辿り着いた先には徐晃や許チョなど、曹操を中心に諸将が頭を寄せ合っていたのだが、そんなことに今構っている場合ではない。

「あぁ妙才。練兵は済んだのか?」
「そんなの、ここに俺が帰って来たんだから済んだに決まってんだろ! そんなことより元譲!」
 夏侯淵は自分の従兄に、噛みつくように掴みかかった。

「お前、主公の枕席に侍っているってのは本当か!?」

「は?」

 その場にいる全員が、一瞬にして目を点にした。

「……その噂は初耳だな」
「あ、俺聞いたことあります。主公が元譲殿に臥室への入室を許しているのは、その為だって」
 曹仁も頷いた。
「俺もある。結構前からある噂じゃなかったか?」
「あぁ、俺もあるなぁ」
 皆が人ごとのように噂を口に上らせる。当人であるはずの曹操まで「知ってる知ってる」と喜んでいるから憎らしい。

「知ってるじゃないでしょう、主公! 主公、元譲に手ぇ出したんですか!?」
「某は主公の趣味ではなかったと思いますが?」
「うむ、儂はもっとがっちりしたのが好みだ」
「そうじゃなくて!」
 足を踏みならして夏侯淵が怒鳴る。普段人の噂話を面白おかしく語って聞かせる夏侯淵と、とても同じ人間とは思えない。

「妙才殿、何もそんなにムキにならなくても良いじゃないっスか」
「そうですよ。主公の噂なんて、相手が女じゃなくてもたくさんあるんだし。ほら、奉孝殿とか、文若殿とか、公達殿とか、もう限りがないってことは妙才殿だってよくご存じでしょう?」
「だってそんな文官共、主公の好みとは全然違うじゃないか! 主公は悪来殿とか虎痴殿とか、そういうイカツイのが好きなんだぞ!」
「虎痴殿の前でなんて事言うんですか、妙才殿!」
「本当の事じゃん! 主公、虎痴殿のこと好きでしょう!?」
「うむ! いやそうでなくて、落ち着け妙才。元譲は儂の好みから言うとまだまだ細いぞ?」
「……主公、それもちょっと今の切り返しとしてはおかしくないですか……?」

「でもあいつらが言ったんです!」

 夏侯淵は勢いよく元譲を指さして叫んだ。

「元譲は色っぽいから、この噂はきっと本当だって!」

 ……一瞬、その場の全員が凍りついたように固まった。頭の中が真っ白になって、夏侯淵の台詞の意味が、うまく頭に入ってこない。

 そんな周りの様子も目に入らないのか、夏侯淵はまた夏侯惇にしがみついた。
「本当なのか、元譲! 俺に内緒でなんて事を!!」
「……妙才、落ち着け」
「よりにもよって何でそんなこと、俺に一言も……!」

「落ち着けと言うのが分からんのか、この馬鹿者めが!!」

 夏侯惇の拳がドガンと頭にヒットする。普段穏やかな夏侯惇だが、怒ると考えなく手が出るのは、これは夏侯の血なのだろう。だが滅多に激することがない分、夏侯惇が怒るとこれはこわい。

「……げ、元譲……」
「そんな話を真に受けるとは、情けないぞ妙才! お前は俺が違うと言っているのに、そいつらの言うことを信じるのか!」
「げん…」
 殴られた頭に手をやって、夏侯淵が涙目になっている。

「げんじょうがぶった…」
「そんなことを言い出したお前が悪い」
「げんじょうが…」
「泣く奴があるか!」
 慌てて涙を拭くと、少し丸めた背で夏侯惇を見上げる。

「じゃあ本当に違うのか?」
「くどいぞ、妙才」

 スンと一つ鼻をすすると、夏侯淵は小さくごめんと謝り、「元譲を信じる」と呟いた。
「分かったならもう良い」

 まだ小さくなっている夏侯淵を、曹操がまぁまぁと慰める。
「お前もしかし、元譲と自分は同じ顔だとか、それでも俺の方が良い男だとか散々言っておるのだから、今度はお前がそんな噂を立てられぬように気をつけろよ」

「俺は主公に襲われそうになったら、殴って逃げるから平気です」
「なら元譲だって殴って逃げるから平気だろう」
「…元譲は主命なら、否とは言いません」
 夏侯惇が嫌そうな顔で睨みつけると、慌てたように夏侯淵が口を閉じた。

「儂は男相手に無理強いをするような真似はせんわい」
「そうですよ、妙才殿。それが証拠に虎痴殿と主公はまだ清い仲です」
「うむ!ってお前らいちいち虎痴を引き合いに出すな!」
「ははは、主公がいつも虎痴ラブ!とか言ってるのがいけないんですよ」

 何となくその言葉をきっかけに、今日は散会となった。

 怒らせてしまった夏侯惇の様子を伺っても、彼は無表情にその場に留まっており、どうやらこのまま残るつもりらしい。こうした会合の後もたいてい一人残って仕事の話をしてから帰る夏侯惇を、夏候淵は今まで気にしたことがないが、今日は機嫌を治しておきたい。噂が嘘だと言い切るのなら、きっと本当に嘘だったのだ。そのことも謝っていかなければならないし、それ以上に本気で怒らせてしまったのなら、それが何より辛い。

「元譲、えっと……」
「あぁ、まだ話が残っているが、暇なら外で待っていてくれ」
 その言葉に、夏侯淵の目がぱっと光る。「分かった」と大きく頷くと、夏侯淵はすぐに退出した。



「……全く、妙才とらしいというか何というか。お前のこととなると何も見えないのだな」

 皆が退出すると、曹操は大きく溜息をついた。
「子供の独占欲でしょう。某のことを他人が自分より詳しく知っていると、気にくわないといったところですか」

  夏侯惇は懐から畳んだ帛を取り出すと、曹操の前に広げて見せた。
「劉表に身を寄せていた劉備に、劉表が国を譲ろうとしてるという情報があります」
「だが劉表には実子がいる筈だが?」
「は。夫人を始め、国はそのことで二分に分かれて争っていると。主公にはもうご存知なのでは?」

 曹操の間者から情報が上ってくる方が、自分の元に情報が届くよりも早い筈だ。だが曹操はこういうとき、いつも自分の放つ間者の情報と照らし合わせるために、必ず細かく報告させた。小さな食い違いの中から見えてくることもあるのだ。

 自分の問いかけに何も答えずにいる主の顔を見てから、夏侯惇は話を続けた。
 自分の情報を曹操がもう知っていると分かっていても、必ず夏侯惇は確認することにしていた。そうすれば曹操の顔を見ることができる。

 同年代の従兄弟同士である彼らは、子供の頃から兄弟同然につきあってきた。顔を見れば、例え曹操が無表情を装っていても、夏侯惇にはその感情の有り様が分かるのだ。

 劉備が国を持つ。とうとう、あの劉備が拠って立つ地を手に入れるというのか。
 劉備に関しては、何度も煮え湯を飲まされてきた。たいした領土も持たずに、いわば流浪の集団にすぎないくせに、要所要所で巧い勝ちを挙げている劉備を、実際に魏に置いてやったこともあった。だが奴らは魏から兵を奪うようにして去っていき、それは夏侯惇に常ならぬ遺恨を残した。
 その劉備が、とうとう国を持つというのか。

 夏侯惇は曹操の顔を仰ぎ見た。
 曹操の表情が、全く消えている。

 あれだけの器量しか持たない男に、関羽・張飛という豪傑が離れずについている。あれだけの器量しか持たない男が、ひとかどの将軍のように、いや、へたをすればそれ以上の名声を全土に轟かせている。

 だがひょっとすると、あれだけの器量しか持たぬ男などと思っていることこそ、己の不明を証すものなのかもしれない。現に、曹操は初めてその戦ぶりを見たときから、劉備の動向を気にしていた。

 その劉備が、国を持つ。

 夏候惇は目を強くして、主を見つめた。

「元譲」
「は」

 曹操は何かを言いかけて、もう一度帛に目を落とし、そのまま黙った。
 どれだけそうしていただろう。急に顔を上げた曹操は、もう別のことを考えている顔だった。

「主公?」

 曹操の思考はいつも一つ所にじっとしていない。同時にいくつもの事を考えているのではあるまいか。錯綜する思考の中で、曹操はこの件を参謀に回すことにしたらしい。
 確かに、この件は自分の管轄ではない。武将は戦うもので、考えるものではないのだから。
 だが次に曹操が口にした言葉は、あまりにも夏候惇の想像とは違うものだった。

「元譲、妙才をどう思う?」

 いきなり話が振り出しに戻り、夏侯惇は苦笑した。ずいぶん砕けた話題に切り替えたものだ。よほど先の話で、頭の中が忙しく回っているのだろう。

「妙才は暫くうるさいこと言い、主公をご不快にさせるやもしれません。もう一度きつくたしなめておきましょう」
「そうではない」
「は?」

 曹操の顔をもう一度見つめた。

 夏侯惇には、他人では分かりづらい曹操の感情の有り様が分かる。だが曹操が考えていること。これは誰であっても理解することはできないだろう。だからこそ曹操は天下の覇者になれるのだ。
 曹操は、ひどくまじめなようだ。こんな話に、何をまじめになるというのか。

「どういう事でしょうか、主公」
「妙才は主命であるなら元譲は否とは言わんと言っていたが、儂は断るだろうと思っている。お前は戦の時なら儂の言を聞き返すことすらしないが、私事に関して理不尽な主命に甘んじる男ではない」
「主公?」

 曹操はまっすぐに夏侯惇を見た。ひどく真剣な顔をしている。

「だが、お前は妙才が望めば、最後には断ることができないはずだ」

 あまりの曹操の台詞に、夏侯惇は最初曹操をまじまじと見つめ、次に思わず笑みをこぼした。イタズラな子供を見つめる、母親のような笑みを。その表情が気にくわなかったのだろう、曹操の目つきが険を含んだ。

「何がおかしい」
「何がおかしいとは、主公。全部おかしいとしか言いようがないではありませんか。妙才が某に、何を望むというのですか」
「お前は分かっているはずだ。妙才はお前を得ようとする。必ずだ」
「あり得ません。妙才は某を自分と同じ物だと思っているのですよ?」
「他人がお前を得るなら、その前に得ようとするだろう」
「誰が某を得ようと言うのですか。第一本当に妙才がそんなことを言い出したら、足腰立たなくなるまでぶん殴って、戸板にくくって河にでも捨ててきますよ」

 曹操が小さく口の中で唸った。唸りたいのは夏侯惇も同じだ。まさか曹操が、そんな風に夏侯淵を見ていたとは。

 確かに夏侯淵は自分に執着している。それは子供の頃、あまりにも周りの人間に「似ている」と言われて育ったためだ。実際、時には母親でさえ互いを間違えたほど、二人はよく似ていた。

 そのためだろう、夏侯淵は夏侯惇を「自分の半分」だと信じている。同じ物を二つに割った半分。その一方が夏候惇で、もう一方が自分だと。

 成長するに従って昔ほど似なくなってきたというのに、子供の頃のすり込みだろう、夏侯淵は自分と夏侯惇が同じでないと満足できなくなっているのだ。それこそ昔は夏侯惇の行くところにはどこでもついてきたし、夏侯惇のすることは何でも真似しようとした。それは、師匠を侮辱された夏侯惇が相手を斬り殺し、逃亡生活を送るまでずっと続いた。

 いや、あの時まで。

 戦場で一本の矢が夏侯惇の左目を貫き、自分と夏侯淵を決定的に違う物にした、あの時まで。

 あれ以来、夏侯淵は夏侯惇への態度を改めた。

 最初は怯えていた。

 自分と夏侯惇が違うものだと認識するのは、自分の半身をもぎ取られたようなものだったのだろう。だが、夏侯惇の顔を穿つ暗い穴が、嫌でもそれを思い起こさせる。だから夏侯淵は決して夏侯惇の傷に触れようとしなかったし、夏侯惇もそんな夏侯淵を気遣って、傷などないもののように接してきた。

 あれ以来「同じ物」でなくなった分、夏侯淵は「互いが互いを補うあう物」と認識を改めたようだ。

 だが結局、その根は同じことだ。

「妙才が某を得ようと言うのなら、それは母親の腹の中での話です。違う腹から二つに分かれて生まれてきた以上、それも無理な話ですが」
「お前は妙才と一つの物だと思ったこともないくせに」
「当たり前です」

 夏侯惇は主に向かって、意地悪く笑って見せた。

「某はあんな子供ではありませんから。奴はきっと早く某のような大人になりたくて、某と同じ物であるつもりなのでしょうよ」

 その言いぐさにこれ以上の議論は無駄と悟って、曹操も小さく肩をすくめて見せた。

「老人の間違いであろう。お前は子供の頃から妙にじじくさかったからな」
「それは光栄の極み。では主公、他にご下命は」
「いや、ご苦労だった。さっさと行って妙才の機嫌でも取ってこい」
「反対でしょう、主公。妙才の奴にはせいぜい気を遣わせてやるとします。では、これで失礼いたします」

 夏侯惇が拱手の礼を取って退出するのを、曹操は聞こえよがしの溜息で見送った。



 外に出ると扉のすぐ脇に夏侯淵が立っていたので、夏侯惇はわずかに苦笑した。

「何だ妙才、こんな所で。部屋にでもいればいいものを」
「うん、ほら、ちょっと俺、みっともなかったからさ」

 へへっと笑う顔は、子供の時から変わらない。

「お前がみっともないのはいつものことだろう」
「なんだよ元譲、ひどいぞ!」
 夏侯惇のいつも通りの穏やかな顔を見て、夏侯淵は安心したように、いつも通りの軽口を叩いた。

「俺がみっともないなら、元譲だってみっともないってことだぞ」
「はいはい。で、今日は酒でも奢ってくれるんだろうな?」
「あぁ。南門に近い所に、新しい呑み屋ができたんだって。行ってみようぜ」

 夏侯淵の手が、夏侯惇の袖を引いた。

 城を出ると、もう日が落ちていた。二人は馬を下人に預け、並んで歩いた。
 いつも、こうやって歩いてきた。互いの関係が少しずつ変化しても、それでもこの距離は変わらない。

 夏侯惇は曹操の言葉を思い出し、口の中で小さく笑った。この距離がこれから先も、変わるはずなどないのに。

「元譲? 何笑ってるんだ?」
「イヤ、お前の地団駄を思い出していた」
「もー! 分かったよ悪かった! だからそうやって笑うなー!」
「すまんすまん」

 呑み屋が見えてきた。夏侯淵が夏侯惇を押すようにして、笑いながら店に入る。

「ここの肉は、すごく旨いタレに漬けてるんだって」
「それは楽しみだ」
「いらっしゃいませ。あ、これは将軍様方。お二人でいらっしゃいますか?」
「あぁ、二人だ」

 微笑んで、夏候淵は夏候惇の隣りに腰を落とす。

 そして、いつもと同じように、二人きりの時間を心ゆくまで楽しむのだ。

 これまでと同じように。

 これから先も同じように。

 いつもと同じ、二人で。

宜しければ忌憚のないご意見をお聞かせ下さい。

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