孫呉の天下
 呉が中華を統一した。

 皆が喜びに沸き立ち、戦勝の宴はやむことを知らない。主君である孫権が皆の盃に酒をついで回り、その場にいる者は誰も熱に浮かれたように酒を呷っている。
 周泰はそんな周りの様子に、人に悟られぬようそっと溜息をついた。こういう席は息苦しい。自分の居場所がないような気がするのだ。

 それでも周泰は孫権のそばに控えていた。何かあればすぐに駆けつけることのできる距離。すでに中華を統一した呉国に「何か」などは杞憂だと分かっているが、周泰はこの距離をこれから先も変えるつもりはなかった。
 孫権は上機嫌だった。孫家の天下を築くこと。これは孫堅の夢であり、孫策の夢でもあった。周泰は目を細めた。孫家の天下。その言葉は、特別な響きを持っていた。

 夜半を過ぎてやっと宴がお開きになった。孫権はもうどうしようもなく酔っぱらっているし、周りの者達も皆潰れていた。この場で正気を保っているのは、周泰位のものだろう。
 周泰が退室しようと黙礼すると、孫権は酒臭い息をまき散らしながら、でたらめに腕を振った。

「お〜、ホントに、本当にありがとう! お前達のおかげだ! お前達のおかげで、孫家の天下は安泰だ〜!」

 周泰は深々と頭を下げた。酔うと手に負えない孫権だが、今日位はどれだけ醜態を曝してもかまわないだろう。明日が来れば、孫権は治世のために寝る間も惜しみ、骨身を削って働くのだ。亡き孫策も、国を治めることは自分よりも権がうまくやるだろうと言っていた。あの方が本領を発揮するのは、これからなのだ。

 宴の行われた乾清殿を出ると、外は月が明るかった。月明かりに沈む回廊を歩いていると、欄干にもたれたかかる影があった。礼をして通り過ぎようとしたが、その影が甘寧だと気づいた時、周泰の足は自然と止まった。

「よお」

 周泰に気づいて、甘寧が軽く手を挙げた。まるで酔ってはいないその物腰に、周泰は彼が宴の途中からいなかったことに気づいた。

「もう終わったのか?」
 頷いてみせる周泰に、甘寧はそっか、なら俺も帰るかなと呟いて、周泰の隣に立った。
 宴の席が何より好きな甘寧が今日は姿を消していた。一番めでたい席だったのに何故?と問う目に気づいたらしく、甘寧は「へへっ」と小さく笑い、彼に似合わないしんみりとした声を出した。

「戦が終わったんだなって思うとよ、何かいても立ってもいられなくて、出てきちまったんだ。戦のない世の中なんて、すげぇありがてぇとは思うんだけど、俺は戦しかできねぇしさ。これからどうしたら良いんだろうって思って……」

 声の頼りなさとあいまって、月明かりの甘寧は、常の彼よりもなんだかずいぶん小さく見えた。周泰の沈黙をどう取ったのか、甘寧は小さく先を続けた。

「これから先、ここでおとなしくしてんのも性に合わねぇし……。どっか辺境にでも飛ばしてもらって、孫呉に楯突く奴らと毎日斬り結んでられたら良いのにな。……ま、殿にはそう進言しようかと思ってんだけどさ」

 甘寧のその台詞に、周泰の動きがぴたりと止まった。

「周泰?」
 甘寧が自分をのぞき込む。

 甘寧が。

 この男が、自分の前から姿を消す。それは、思いもしない言葉だった。そんなことはやめて欲しいと、そう思ったのは何故だろう。そう思った所で、それを自分が口にすることなどできはしないのに。
 甘寧には甘寧の生き方があるし、第一自分と甘寧はただ呉国の禄を喰む部将同士であるというだけで、そんなことを口にできる間柄ではないのだ。

 それなのに、何故こんなにも胸が痛む……?

「…周泰? おい、大丈夫か?」
 甘寧はまだ自分のことを見ていた。そうして不思議そうに周泰の髪に触れた。

「お前、いつもそんな目で俺を見てるんだな」

 周泰の唇が驚きの形を作る。
 そうだ。自分はいつも甘寧を見ていた。それは錦帆賊の頭領であった甘寧に対して、純粋な好奇の目だった筈だ。同じ水賊でありながら、ケチな凌ぎに甘んじていた自分と、天下に名を轟かせた甘寧の違いを知りたくて、それでいつも彼を見ていた筈だった。

 甘寧がいなくなる。自分の前から。それが何故こんなにも胸に突き刺さるのか。

 甘寧は、まだ自分を見ていた。

「――――― 知りたかったのだ」
「何を?」

 そう問い返されて、周泰は自分が口を開いていたことを知った。
 知りたかったのだ。その台詞は確かに自分が言った言葉なのに、ひどく意外な気がした。何を? それを知りたいのは自分だと、そう言おうとしたのに、唇はまた自分の意志を裏切って、勝手な言葉を紡いでいた。

「お前を」

 甘寧は、驚くでもからかうでもなく、真っ直ぐな瞳で自分を見つめていた。それから軽く目をつむり、次に目を開けた時、唇が「良いぜ」と形を作った。





 周泰の目の前には、甘寧の裸体があった。思っていたよりずっと質素なその部屋には、月灯りが青く延びていた。

 周泰は驚かなかった。
 初めて連れてこられた彼の屋敷で、甘寧が服を脱ぎ始めた時も、周泰は何故かそれが当然の行為のような気がした。甘寧が自分の台詞をどう取ったのかとは思わなかった。ただ、何故この男は自分の少ない言葉の中から、自分自身も知らなかった自分の望みを的確に切り取り、それを自分に差し出すことができるのかと、その事が不思議だった。

 自分の望み。

 目の前に甘寧が立っている。自分を仰ぎ見る裸の胸には、龍が絡みついていた。一分の無駄もない、剣のような体。
 その体に、周泰は手を伸ばした、

 自分の望み。

 甘寧という男が……錦帆賊の頭領などではなく、ただ目の前にいるこの男が、自分はずっと欲しかったのだ。

 その胸に触れた途端、もう何も考えられなくなっていた。周泰はただ甘寧を求めた。こんな風に自分を誘うのだから馴れているのかと思ったのに、甘寧の体は戸惑い、焦り、逃れようともがいた。彼が男を知らないということは、同じように男を知らない周泰の目から見ても明らかだった。だからといって、彼は甘寧を求めることをやめはしなかった。
 征服したいわけでも、自分の物にしたいわけでもなく、周泰はただ甘寧を感じたかった。

 甘寧の肌。甘寧の腕。甘寧の声。甘寧の体温……。

 そう、自分はずっと甘寧を知りたいと思っていた。甘寧を。

 それがこういう意味だったのだと、教えたのは甘寧だった。





 寝台の上で、甘寧はしばらくの間荒い息をついていた。周泰はどうして良いのか分からなくて、とりあえずそばに掛けてあった薄布を渡してみた。甘寧は布を掴んだ周泰の腕を見ると、小さく息を飲み込んで息を整え、「よっ」とかけ声を掛けると勢いよく体を起こした。

「驚いた。おめぇ、男初めてだったのか?」
 甘寧は周泰の顔を覗き込みながら、渡された薄布で体を拭いた。
「お前も板の上の生活が長いから、てっきり男に馴れてんのかと思った」
「…すまない…」
 甘寧が責めているわけでないことは分かっていたが、周泰は小さく謝った。平然として見えるが、やはりどこか辛そうにしているからだ。

「なんで謝んだよ。逆にお前が馴れてたら俺も困ったし。俺も男とやんのは初めてだったからさ」
 無邪気に笑う顔に、いつもは上げている髪がかかって、思っていたよりも彼を若く見せる。素直に伸びた手足が、彼の行為には裏表がないと告げていた。

 初めてだったからさ。

 ならば何故、甘寧は自分を誘ったのか。
 あの様に荒んだ暮らしを長年続けていながら、今まで一度も男と寝たことがないというのなら、甘寧は全く男には興味がなかったということだ。同じ暮らしをしていたことがあるから、周泰はそれがよその者が思うほど簡単なことではないことをよく知っている。
 それなのに。

 周泰は唇を軽く噛んだ。自分はいつも口下手で、言葉を上手に選ぶことができない。喋らないと決めてしまえば全てを楽にやり過ごせるが、大切なことはちゃんと言葉にしなければならないということを、本当は痛い位に知っているのに。

 訊かなければ。

 甘寧にちゃんと訊いて、そして自分の気持ちを告げなければ。

 ……自分の気持ち……。あぁ、それを自分だって測りかねているのに……。

 甘寧は枕元の水を取ろうとして体を捻り、辛そうに眉間にしわを寄せた。そっと、周泰に気づかれないようにとそっと腰に手を這わせた甘寧を見たら、周泰は考えるより先に「何故」と口走った。
「ん?」
「何故俺を誘った。感傷か?」

 そんな言葉を言いたいわけではないのに。からかいの言葉やマイナスの言葉を聞きたくなくて、周泰は自分から防衛線を張ってしまう。

 そうして気づいてしまうのだ。

 自分は、この男に拒絶されたくないのだと。

 甘寧は何度か瞬きをした。周泰の言葉の意味を考えているようにも見えた。周泰は息をつくのがやっとだった。
 こんなにも、怖いと思うのは初めてだった……。

「……だって周泰、おめぇ、いつも俺を見てたろう?」

 しかし甘寧の言葉には、なんの揶揄も冗談も入ってはいなかった。それどころか、彼はひどく真面目な顔をして、周泰を見上げていた。

「おめぇは何も言わねぇけど、おめぇ、いつも俺を焦れるような目で見てたじゃねぇか。そしたら今日、おめぇが初めて俺のことを知りたいって言うからさ。あんなに長いこと俺を見てて、これ以上何を知りたいんだろうって思ったら…えぇと…なんて言うか……」
 甘寧は頭を掻きむしって、その拍子に「って」と小さく顔をしかめ、辛そうな溜息をついてからもう一度周泰を見た。

「百万の言葉を並べるより、こうしちまった方がおめぇの知りたい答えが見つかるんじゃねぇかと思ったんだ。俺もあんまり考えんの好きじゃねぇし、だからとりあえず何でもやってみて答えを出すことにしてんだけどさ。お前ももうこんだけ俺を見てて、そんでも答えが出ねぇってんなら、何でも思いついたことをやってみりゃ良いって。まぁ別に、ホントの本気で斬り結んでみるってのも一つの手かなとは思ったけど、時間が時間だったし」

 その返事に、周泰は眉をしかめた。むっと口をつぐむ周泰に、きょとんとして甘寧が訊き返す。
「何だよ。何怒ってんだよ」
「……それではお前は、お前を知りたいと望む者がいるなら、誰にでもそうして試させるのか」

 そんな筈がないことは、先ほどから分かっていることだった。自分は何を望んでいるのだ。お前だから体を結んだのだとでも言わせたいのか。そんな甘やかな感情を、甘寧が自分に対して持っているわけがないのに。

 そうだ。そんな事は、言われなくても分かっている。自分はずっと甘寧を見てきたのだ。甘寧にとって自分が特別な存在でないということは、言われなくてもよく分かっている。だから先ほどの好意が、例え一時の同情でしたことだとしても、甘寧が自分のために体を投げ出してくれたことをありがたいとこそ思うべきで、それに腹を立てるなどお門違いだ。

 それでも、もし相手が自分以外の者だったとしても、甘寧は同じことをしたのかと、そう思うだけで周泰は情けない程腹が立った。何という傲慢な男なのか。自分がこんなにも強欲であることに、なおさら腹が立つ。

「何言ってんだおめぇ」
 甘寧は呆れたように腕を組んだ。
「どこの世界におめぇみたいに変なヤローが他にいるよ。もしも他の奴が、なんて、そんな奴いやしねーだろ。お前が俺を見てて、お前が俺を知りたがった。だから俺はお前と寝た。それより他にどんな事実があるってんだよ。もしもとかだったらとか、そういう下らねぇ事言ってんじゃねぇよ」

 あまりにあっけらかんと言ってのける甘寧に、周泰は一瞬圧倒され、次になんだかおかしくなった。そうか。甘寧とは、こういう男だった。彼はしたい時にしたいようにする男だ。もしもこれが昨日だったら、甘寧は違う答えをよこしたかもしれない。だがそれが今日だったからこそ、甘寧はこうしてここにいてくれるのだ。

 甘寧がここにいる。俺の隣に。

 それは間違いのない事実なのだ。

「で?」

 不意につつかれ、周泰は顔を上げた。憮然とした顔で、甘寧は周泰を覗き込んでいる。
「探してた答えが何だったのか、分かったのかよ」
 周泰は甘寧を見た。ふてくされたようにも、照れているようにも見える。
 甘寧を見て、周泰は自分の口元が緩むのを感じた。

「分かった」
「お、何だ何だ?」
 裸のまますり寄ってくる甘寧を、周泰は抱きしめた。「わっ」と驚いたように声を出す甘寧を胸の中に閉じこめ、目を閉じると甘寧の匂いを強く感じた。

「お前を、辺境などには行かせない」
「え?」
 何だそれと腕の中から逃れようとする甘寧を、周泰は許さなかった。

「お前を離したくない。これから先、お前はずっと俺の隣にいると約束してくれ」
「な…何言ってんだよ、お前!」
 強引に腕をむしり取って逃れると、甘寧は周泰に背を向けて座った。
「勝手なこと言うな! ったく……なんだおめぇは! 変なヤローだな!」
 後ろを向いたままひとしきり文句を言う甘寧を、周泰はそのまま後ろから抱きしめた。

「もう決めたのだ」
「 ったく!」
 頭をがりがりと掻きむしると、甘寧はそっぽを向いたまま「良いぜ」と言った。

「良いぜ、別に。お前がそんな長いこと喋んの聞いたの初めてだから、ご褒美におめぇの隣にいてやっても良い」
「……本当か?」
「あぁ。その代わり、俺が平和ぼけしねぇように、お前がちゃんと面倒見るんだぞ。お前の隣にいるのがつまんなくなったら、俺すぐにづらかるからな」
 周泰は腕をほどいて、甘寧の正面に回った。甘寧は怒ったような顔をしていたが、顔は少し赤らんでいた。

「……充分だ」
 満ち足りた気持ちというのは、こういう気持ちを言うのだろう。周泰は満面の笑みをたたえて、甘寧をもう一度抱きしめた。

「……お前、そんな顔もできんだな」
 驚いたように、呆れたようにそう言う甘寧は、それでも周泰が抱きしめるに任せ、もう彼の胸から逃れようとはしなかった。





 秋空の澄んだ空気の中。孫権は大きく伸びをした。
「あ〜、久しぶりにこうしていると、なんだか心が洗われるようだな」
「何がこうしていると、ですが。張昭殿やら張紘殿やらを撒いて虎狩りするなんて言い出して、そんな晴れ晴れしたもんっスか、虎狩りが」
「そう口をとがらすな。私にだって息抜きが必要なのだ」
 孫権は文句を言いつつ付いてくる甘寧と、いつものように黙ったまま従う周泰を振り返り、また笑った。

「何がおかしいんスか?」
「いや、護衛の従者が二人になったと思ったら、そいつが甘寧だというのがなんだかおかしくてな」
「おかしくなんかねぇですよ! 暇なのが俺とこいつしかいねぇんだから、しょうがないじゃないっスか!」
「そうか? ふふ、そうかも知れんな」
「まあったく、殿と来た日にゃいきなり虎狩りだとか、いきなり抜き打ちの視察だとか、ちっともじっとしちゃいねぇんだから、ついて回るこっちの身にもなって下せぇよ」
「だが退屈しないで良いだろう?」
 孫権がニヤニヤと笑うのを見て、甘寧は周泰を睨んだ。

「おめぇ、殿に何か言ったのかよ」
「……別に、何も」
 いつものように黙々と馬を走らせる周泰に、甘寧が持っていた胡桃を投げつけた。

「かー! ったくこのむっつりヤローが!」
「何だ何だ、二人してやけに仲が良いな!」
「仲なんか良くねぇですよ! さぁとっとと虎狩りでも何でもおっ始めましょうや!」

 澄んだ秋空に、甘寧の声が響く。周泰は口元で小さく微笑んだ。
 これからも、こんな日がずっと続くのだろう。傍らにはこの人と決めた主と、誰よりも愛しい人がいる。なんという素晴らしい日々。孫呉の天下は、こんな風にいつまでも続いていくのだ。

 笑い声と共に。






しまったあぁぁあぁぁぁ、周泰を幸せにしてしまいました!!! 周泰ってば甘寧のこと好きすぎて情けないの希望だったのに!!空回りしてたりうまくいってたとしてもケチョンケチョンにされるの希望だったのに!!!

というので、幸せな周泰の話は多分これで打ち止めです! 周泰、1回幸せにしてあげたんだから、これから先はもうケチョンケチョンで良いよね?

それにしても、この話は「水賊」の続きの話なのですが、出会った頃からエンディングを迎えるまでずっと甘寧を見ていたってんなら周泰は完璧ストーカーです。いや〜!! 犯罪者がいる〜〜!!!って、周泰はそういう情けないの希望。

……私は周泰をなんだと思っているのか。いや、すごい好きなんですよ、周泰が。愛ゆえのいじめ? うふふふ。


宜しければ忌憚のないご意見をお聞かせ下さい。
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