水  賊


 次の戦にあの男が出てくると聞いた時、ある種の衝撃が胸を走った。それは懼れとか怯えというようなものではなく、しかしどう名前をつけて良いのかは分からない種類のものだった。

 その男の名は甘寧といった。「鈴の甘寧」「皆殺しの甘寧」といえば、江の畔に住むもので、知らぬ者はいないだろう。

 自分も蒋欽と二人で水賊をしていたことがある。二人で百五十人ほどの手下を抱えていたが、その数は人々の畏怖を集めるには充分だった。

 だが、あの男から見れば赤子のようなものだ。

 八百人の手下を精鋭に鍛え上げていた甘寧は、その規模、残忍さ、稼ぎの荒さ、何をとっても我々とは違った。そう、たかが船の帆に、最高級の蜀錦を張るほどに。
 だから、人々は彼らを「錦帆賊」と呼んで畏れた。

 直接会ったことはない。
 だが、心のどこかで会ってみたいと思っていたのかもしれない。

 大水賊の頭。

 それが、夏口の戦に出る。



 御前会議を終えて退出しようとした時、周泰は不意に腕を捕まれた。驚いて振り返ると、そこには孫権が立っていた。
「珍しいな、周泰。儂が腕を掴むまで気づかぬとは」
「は…」
 らしくない自分に狼狽えて、周泰はうつむいた。

「どうした? 何か良いことでもあったか?」
「は?」

 良いことが? 驚いて周泰は孫権を見た。孫権が幼い頃から、その警護を任されてきた。つきあいは長いが、それよりも他人の中で育てられてきた孫権には、兄がつけてくれた周泰が、兄の代わりのように思えてきたのだろう。そのせいか、表情に乏しく口数の少ない周泰の、ちょっとした心の変化を見破るコツのような物を、孫権はよく掴んでいた。

 だが。

「いえ、良いことなど、何も」
「何だ? 儂の目はごまかせんぞ、周泰」
「戦のことを考えておりましたので、良いことなど」
「ふむ…」

 良いこと? あの甘寧と、戦うことが?

「お前は軍功を漁るタイプじゃないから、戦で喜ぶというのも可笑しいか。誰か戦いたい相手でもいるのか?」
「…いえ…いや、そう…なのかもしれません」

 あの甘寧と剣を交わす。
 どんな太刀筋なのだろう。やはり、剣を受けるとずしりと重いのだろうか。速さは? 型は?

 あれだけのことをしてきた男だ。自分では為し得なかったことをしてきた男。戦ってみたいというのは、水賊としての、そして武人としての血なのか。

「だが、何にしても戦は目の前だ。お前のその様子なら、きっと働きも大きいだろう。楽しみにしているぞ」
「は」

 周泰は深く頭を下げた。下げながら、虚しさがよぎった。
 自分が先陣に立って、甘寧と戦うことはないはずだ。自分が甘寧と剣を交わす時。それは、甘寧の剣が孫権に及ぶ時だ。そんな事態が招かれるはずもないと思う心の傍らで、正直な心が甘寧との一騎打ちを望んでいる。

 斬ってみたい。
 斬り合ってみたい。
 その力の全てを、自分の剣で確かめてみたい。
 自分が為せず、あの男が為し得た、その違いをこの手で確かめてみたいのだ。

 だが、きっとその機会は永遠に来ない。孫呉の全てでもって黄祖に当たれば、いかな甘寧といえども無事でいられるはずはなく、戦場で果てるか捕らえれて斬られるか、奴に待つのはその二つの運命のみだ。

 「……錦帆賊の、甘寧……」

 周泰は口の中で苦く呟いた。
 あの男は、仕える君主を間違えた。それだけの男でしかなかったのだと自分に言い聞かせ、惜しいと思う気持ちを、周泰は押し殺した。



 夏口の戦いは峻烈を極めた。総大将である孫堅はさながら獣のように先陣を駆け、並みいる武将を切り崩していく。孫権と共に本陣を守ることを、このときほど悔しいと思ったことはなかった。
 次々と注進や伝令が行き交い、戦況が報告されていく。本来ならここでそれを聞き、檄を出すのは総大将である孫堅の役目だが、孫堅はいつもそれを若い周瑜や陸遜に譲り、自分は攻めに攻め立てることを選んだ。檄を出すとしたら、それは馬上でのことだ。

 その時。

「注進! 総大将が、敵将甘寧を破り、甘寧は降伏した由にございます!」

 どくりと、周泰の心臓がひどく大きな音を立てた。

 降伏。それならば、甘寧は急ぎ本陣に連行されてくるはず。首を斬られるのはその後で、自分は生きた甘寧を拝むことになる。

「どうした?」
 孫権が振り返ったが、周泰はそれに気づかなかった。

 甘寧が、来る。

 周泰は不意に喉の渇きを覚えた。

 水賊の時分、どうせ賊であるならば、あのような仕事をしてみたいものよと思っていた。そのうち賊であることに倦み、孫家の元に仕えたが、それでも時々畏れることがあった。部将となることで、時分は小さくまとまってしまったのではないか、と。
 あの男の噂を聞く度に、もしも江で暴れていれば自分だって、という自負にかられもした。一対一でまみえれば、決して引けは取らぬ、と。

 その男が、来る。

 周泰は喉の渇きを癒そうと、そっと唾を飲み込んだ。

 甘寧は捕囚として連行され、そしてここで斬られる。それは自分の長い葛藤に、終止符を打つということなのか? 自分の中の甘寧に、勝つことができると?
 敗れて死ぬ者は全て敗者だ。

 敗者?
 あの男が?

 もう一度喉を鳴らしてみたが、喉はひりつくばかりだった。



「おお、あれは?」
 孫権の声に、周泰は顔を上げた。
 伝令に付き従えられてやってきたその見知らぬ男は、縄を打たれてはいなかった。
 孫権と伝令のやりとりを、周泰はどこか遠いところで聞いていた。

 孫堅は甘寧を打ち破ったものの、そのあまりの強さに内心舌を巻き、自軍に加えたいと思ったことを。
 蘇飛という男の取りなしで、甘寧が黄祖から冷遇されていること知った孫堅が、甘寧を自軍に招いたことを。
 そして、甘寧が縄も打たれずに、伝令だけをつけられて、ここまで来たということを。



 その男は、ずいぶん若く見えた。
 目は刃物のようで、この男に近づけばそれだけで斬り刻まれてしまいそうな気がした。素肌に上着だけを着ているのは、誰にも斬られぬという自信の著れなのだろう。

 そして、首にはあの鈴を付けていた。

 黄祖に冷遇されていたと聞く。この男は、自軍の中でなお、錦帆賊であり続けたのか。

 その男が、不意に自分を見た。
 目が合うと、その男は口元だけでにやりと笑った。

「世話になるぜ」

 その声はするりと周泰の中に入り込み、そして周泰の中の何かを動かした。
 陣屋の奥へと連れて行かれるその男を、周泰はそっと目で追った。そして姿が見えなくなると、口の中で周泰は小さく呟いた。

「錦帆賊の、甘寧……」と。



 その音が、何かを運んでくるような気がした。


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