束の間の眠り


 竹巻が、うずたかく山となっていた。間者から上げられる報告書に、地図を描いた帛。裏切りを約した者達からの誓約書。使える物もあれば使えぬ物もある。
 これらは全て、一度参謀に渡った物である。とっくに整理されている筈の物である。それでも曹操は自分で目を通していた。別に参謀たちを信じていないわけでも、当てにしていないわけでもない。ただ、次の戦には自身の全てを掛けて打ち込まねばならないと思えば、これらの書類には何度目を通しても通しすぎということはないような気がした。
 次の戦で天下が決まる。
 戦場は、官渡か。
 この部屋には今、自分と夏侯惇しかいない。夏侯惇以外の誰に、手を入れさせられるというのか。夏侯惇が曹操の居室に一人入れる身分であるために、下卑た噂が立っていることを曹操も知っていたが、その見当違いの噂を、曹操は肯定も否定もせずにいた。わざわざ口を出すのもバカバカしいと思う反面、その噂が夏侯惇を守る盾になれば良い、とも思っていた。
 夏侯惇は先ほどから何も言わず、上げられた報告書から黙々と地図に書き込みをしている。
「孟徳すまん、農作物の地図はどうした?兵糧の確保がむずかしいかもしれん。先に屯田をしておいた方が良くないか?」
「農作…あぁ、これだろう。それより元譲、これをどう思う?」
 見せられた竹巻に目を通し、夏侯惇は眉を寄せた。
「…それは、二重間者の仕業じゃないのか?信憑性に欠けるな」
「うむ、どうも仕掛けがあるように思える」
「まぁ、一応念頭にだけ入れておこう」
 唸りながらその竹巻を別の山に積み重ねた夏侯惇の頬が、やつれているような気がした。
「……元譲、この後調練か?」
「あぁ。新兵共に根性を叩き込んでやろうと思ってな。二、三日は山に籠もるから、今のうちに地図だけでもやっつけておかねばならん」
 目の下には、隈ができている。これで三日間の寝ずの行軍をするつもりか。
「もう良い、元譲。そこの長椅子で、少し寝ていろ」
「いや、だから地図だけでも」
「今、他の報告書が上がってくるのを待っているのだ。それが揃うまで、これは中止だ」
「何だいきなり」
 なら他にもまだやることがあるだろうと憮然とした顔をしていると、曹操は小さく溜息をついた。
「お主、昨夜は寝ていないな?」
 そう言われた夏侯惇の頬が、一瞬白くなった。曹操の目が細く光ったが、すぐに普段通りの表情に戻すと「どうせ書でも読んでいたのだろう」と素っ気なく言い放った。
「……あぁ、すまない」
 気まずそうな、それでいてどこか安堵したような夏侯惇の声に、曹操はわざと声を荒げてみせた。
「何度言えば分かるのだ。お主が右目まで失ったら、いくら何でも戦には連れて行かぬぞ。それに山籠もりをするつもりなら、その前に体調くらい整えておけ。お主は替わりのきく身分ではないのだぞ」
「孟徳、これが戦なら当たり前のことだ。どこの誰がこちらの体調が整うのを待ってくれるというのだ」
「そんなことをいう奴に、次の戦で軍権はくれてやらん」
「孟徳!」 
「お主といい妙才といい、我が軍の大将共は無茶をしすぎるのだ!」
「今無茶をしないでいつしろと言うのだ!」
 曹操と夏侯惇は暫くそうして睨みあっていたが、曹操はいきなり伝家の宝刀を抜いた。
「命令だ、夏侯惇。今すぐ休め」
 一瞬夏侯惇はぐっと詰まったが、命令と言われれば従うより他にない。
「……分かり申した。それでは失礼つかまつ…」
 礼をして退室しようとする夏侯惇を、曹操は止めた。
「違う、元譲。そこで寝ていろ」
「……それもご下命か……?」
「嫌味な奴だ、いちいち臣下面して応えるな」
 これには夏侯惇が本気でむっとしたようだった。
「俺は孟徳の臣下ではなかったのか」
「だからお主に魏の位をやるのをイヤだと言ったのだ。今まで通り漢の位しか持っておらねば、儂とお主は同僚として、臣下面されることもなかったというのに」
「俺は孟徳の臣下だ!漢の為に命をかけているのではない!」
「あぁ分かった分かった!ならこれは命令だ!そこで寝ていろ!どうせ自分の部屋に戻ったら、お主は休まずに書の続きを読むに決まっている!」
 曹操はさっさと夏侯惇に背中を向けた。その背中に、太い溜息が降ってくる。言いたいことなら山ほどあるのだろうが、夏侯惇はその溜息に全ての抗議を含ませて、小さく「それでは失礼つかまつる」ともう一度律儀に挨拶をしてから、長椅子に横になった。
 横になってからいくらも経たぬうちに、夏侯惇は小さな寝息を立て始めた。どこであっても、どんな状況であっても、すぐに睡眠を摂ることができるのは、武将の習い性だろうか。
 ……いいや、そうではないはずだ。このそげた頬に目の下の隈が、そうではないと教えているではないか。本当に眠れていないのだ。多分、この数ヶ月。
 眠れぬのは……。
 曹操は考えたくない考えに、唇を歪めた。
「……お前が儂の臣下でなかったら、ただの従弟であったなら、お前は儂に打ち明け事をしてくれたのか…?」
 夏侯惇のきつく閉じられた瞼を見て、曹操は首を振った。
 幼い頃から、夏侯惇はこうだった。人の痛みは自分の身に引き受け、自分の痛みを人に晒すことはない。自分の方が七歳も年上だというのに、奔放な自分を受け止めるのは、いつも傍にいた年下の従弟だった。
「こんなに儂に心配をかけさせて……」
 少しだけ、関羽が羨ましいと思った。
 関羽の恋慕とも呼ぶべき執着は理解しがたいが、夏侯惇が自分の素を晒してまで憎んでいるのは関羽だけではあるまいか。憎まれたいとは思わない。だが、憎しみでも良い、夏侯惇の心の底に触れたいと思う、関羽の気持ちは少しだけ分かる。
 ……関羽か……。
 厄介なものだ……。関羽を手なづけたいと思う気持ちは今もある。あれほどの豪傑を心酔させられなくて、何が覇者か、とも。
 だが、関羽と劉備の繋がりは、自分と夏侯惇のそれと同じ物なのだろうと、ぼんやりと分かり始めてもいた。それならば奴を手なづけるのは無理というものだ。ましてや夏侯惇をあれだけ苦しめて……。
 正直、関羽と夏侯惇がどうなっているのか、曹操も確かには知らない。夏侯惇が関羽を嫌っているのは昔からだったし、曹操が関羽を厚遇すればするだけ、忌々しげに顔を歪める気持ちも分からなくはない。それは皆の言うような下らない嫉妬ではなく、手に入らない物に入れあげている、自分への批判だ。いや、関羽を失った後で落胆する曹操を思って、その様な落胆を曹操に与える関羽を憎んでいるのか。
 それだけのことかと、最初は思っていた。
 しかし、最近の二人の距離感は……。
 関羽が時折り見せる夏侯惇へのただならぬ執着と、夏侯惇のいや増してくる憎しみを思えば、見えてくる形がある。認めたくはない形だが、夏侯惇のきつい寝顔を見ると、それを認めないわけにはいかなかった。
 それでも、自分はあの威丈夫を傍らに侍らせたいのだ……。
 無い物ねだりの子供と同じ事だ。
 曹操は苦い物が口に涌いてくるのを感じた。
「許せよ、元譲。儂はいくつになっても、そなたに甘えることしか知らんのだ」
 夏侯惇が小さく身じろいた。何の夢を見ているのか。曹操はそっと夏侯惇の頭を撫でてみた。
 束の間の眠り。
 せめてその眠りが、穏やかなものであるように……。  





またまた言い訳を少し。

漢の位、魏の位の下りは、ちょっと時代考証があっていないような気がしますが(正史にはいつの話とは書いてなかったのですが、魏公になった後じゃないと辻褄が合わないと思うのです)、でも精神的には二人はいつもこんな感じだろうと思ってエピソード入れちゃいました。つうか萌!「お前だけは臣下でいてくれるな!」「俺はお前の臣下なんだから!」っていう史実の下り、超萌!!THE・両思い!!(つうか史実だとできてたんじゃないのか?とか思うのは私だけではないはず) いや、でもできてもらってちゃ困るんだ。できてないのに最高に思い合っているっていうのが萌なんだ!!!


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