寝 言 |
曹操は、先程からずっと船をこいでいる夏侯惇の頭を見つめながら話をしていた。船をこいでいると言っても、本物の船をこいでいる訳ではもちろんない。当たり前だ。今は軍議中で、場所は普通に城内だ。夏侯惇が軍議の最中に居眠りをするのは珍しいので(というより、曹操の前で居眠りをぶっこくような奴がこの世にいるとは驚きである)、それが面白くてついつい注目してしまうのだ。曹操のあからさまな視線は当然周りの部将にも夏侯惇が眠っている事を伝えているようなもので、他の奴らはいつ曹操の雷が落ちるのかと冷や冷やしている。だが、夏侯惇は起きない。曹操はこの凄まじい視線の中でいつまで夏侯惇が眠っていられるのかと、それが面白くて夏侯惇から目が離せないでいる。 議論は白熱しているが、全員の視線だけは夏侯惇に集中している。夏侯淵や典韋はそんなちぐはぐな雰囲気に冷や汗をかきながら必死に話に集中しようとしているらしいが、曹仁やホウ徳などは当たり前のように勇ましい話をしながら夏侯惇と曹操を注視しているので、それも変な光景だ。 「ん…」 夏侯惇が小さく呻いた。 とうとう起きるのか、と皆が固唾を飲んでいると、夏侯惇は視線を挙げて、曹操を見た。 「……孟徳」 「なんだ?」 至って普通の顔をしているが、夏侯惇が寝惚けていることに、曹操はすぐに気がついた。周りの連中は「やっと起きたか」とほっと溜息をついているが、この顔はまだ眠っている顔だ。 夏侯惇はしばらく曹操の顔を眺めていたが、えらくはっきりした声で「つまり」と前置きをした。 「つまり?」 軍議の話をいきなりまとめたりしたら驚くぞ、儂は。 曹操は夏侯惇の次の台詞を待った。他の連中も一体夏侯惇が何を言い出すのかと、興味津々で待っている。 「……つまり、体と心は別の物なのか?」 ……やっぱり寝てやがる……。 曹操は笑い出したいのを堪えて、まだ眠っているらしい夏侯惇に真面目に応えた。 「うむ、別のものだろう」 「……そうか……」 不満そうに言うなり、夏侯惇の首はまたかくりと折れて、口元から小さな寝息を立て始めた。 「……殿」 「ん?」 ホウ徳の咎めるような声に振り返ると、ホウ徳はえらく真面目な顔で、その台詞に抗議した。 「拙者は別の物とは思えませぬ。夏侯惇殿にそのような返事を与えるのはいかがなものでしょうか」 「ん?」 真面目な顔で、こいつも眠っておるのか? 心の中で突っ込みを入れた途端に、曹操の頭ごしに許チョが返事を返した。 「別の物だべ?」 「いや、所詮体は心を裏切る事はできぬ」 「んだども、 腹が減ってても減ってないふりして戦続けるようなもんだろぉ?」 「あら、夏侯惇殿が訊きたいのはそう言う事ではないのでは?」 「ではどういうことでござる」 「それは殿方を前にして女が口にするような事ではない事に関してですわ」 「甄! 何を言い出す!」 「あら、我が君。心と体だなんて、艶っぽい話にしか聞こえませんわ」 「なら余計に別の物ではありません!」 「いや別の……こともありますよ……ね?」 「うむ、あるな。むしろ儂なんか別の事の方が多い」 「ななな、何真面目に話し合っているのですか! 今は軍議の時間では……!」 もうすっかり盛り上がってしまっている堂内に、焦って張遼が叫んだ。一瞬皆の注目が集まったが、その直後にまたみんなは妙な話し合いに戻ってしまった。 「しかしなんでそんなことを夏侯惇殿が言い出したのかが気になりますな」 「わー!わー!!!」 「何で張遼殿が真っ赤になってるのでござるか。まさか何か身に覚えが?」 「身に覚えってなんだ!?」 「一緒に女でも買いに行かれたとか」 「そんな事誰がするか!」 ダメだ。下手につつけばやぶから蛇を出すだけだ。 この中で、多分関羽殿と夏侯惇殿の事について気がついているのは自分だけ……。まず間違いなく夏侯惇殿は関羽殿との事について夢を見ておられるのだ。っていうか、こんな軍議の中で眠ってしまう程夜も眠らせてもらえてないってことか…!? 関羽殿、ケダモノ!!!! 張遼は背中から変な汗がだらだら流れるのを感じた。 「っていうか、浮気の方が燃えるのは、アレは何だ?」 「それは心を伴っているのではないでしょうか。浮気だと思うから燃えるのだと」 「お、真面目な顔して曹仁、お主もなかなかやるなぁ」 「いや、一般論です」 「浮気は感心致しませぬな。好きでもない婦女子を抱くなど」 「あらホウ徳殿。殿方はみな妾をたくさん抱えていらっしゃるではありませんか。アレは浮気ではありませんの?」 「それがしは妾などというものには賛同致しかねる」 「しかし正妻に子がなければ仕方なかろう」 「正妻に男子があっても迎えられる方は迎えられるではありませんか」 「それは儂に当てこすっておるのか」 「まさか、殿。殿の事ではありませんわ」 「いや甄姫様、そもそも話が違います。側室に迎える女性というのは、それぞれ可愛らしく思っている女性なのです」 「まぁ。本当ですの?我が君?」 「いや、甄…、その話は……」 「甄姫様、男というのは意外とデリケートなもので、嫌いな女性を抱けるものではありませんぞ」 「いや、政治的問題で抱かなきゃならん時もあるだろう」 「……殿、後学のためにお聞かせ願いたい! そういう時はどうなさっておられるので?」 「目を瞑って、耳をふさいで、他の女としていると思うのだ」 「っていうか、先程金銭でおなごを買われる話が出たが、拙者はそれが分かり申さぬ。それこそ心と体が別ということでござるか?」 「そういう特殊な状況はこの際こっちにおいといて」 「いや、その特殊な状況の話をしておられたのかもしれませんぞ」 「夏侯惇のような朴念仁が女など買うか」 「ではどんな状況を想定して夏侯惇殿はそのような事を」 「わー!わー!」 「うるさいぞ張遼!」 どうしよう!!! っていうか、夏侯惇殿起きて―――!!! この大音響の中で眠り続けていられる夏侯惇のことを、誰も不思議に思わないのが張遼には不思議だ。 その時、夏侯淵が分かった!と大きく手を打った。 「殿がまた新しい女を側室に入れると聞いて、それでその事を苦々しく思ってるんじゃないんですか?」 「儂か!? 儂が悪いのか!? っていうか、この忙しいのに当分側室なんぞ入れんわい!」 「またまた〜。殿、こないだ荀ケ殿に新しい女探させてたじゃないですか。惇兄がこぼしてましたよ」 「むっ…。儂なのか!? いやでもあの女は別に側室に入れるつもりじゃないし……っていうか、それを怒ってるって事か? ならその場で言えよ! うぬぅ、元譲の奴め……」 「ん? 俺がどうかしたか?」 曹操がはっと夏侯惇を見ると、夏侯惇は周りの白熱した様子に小首を傾げ、不思議そうにこちらを見ていた。今まで寝ていたようには全く見えないのが心憎い。 「……元譲。お前、側室を入れるのか?」 「そんなもん入れるか」 「じゃあおなごを買ったりしてるのか?」 「……何の話だ?」 「殿! もういいじゃないですか!」 「……張遼? どうしたんだ?」 「……いや、なんでもござらん」 「?」 張遼が顔を赤らめて下を向くのをしばらく不思議そうに見ていた夏侯惇だったが、急にはっとして辺りを見回すと、曹操をそっと手招きした。 「……孟徳」 「ん?」 「……孟徳、ひょっとしたら、俺は寝てたのか?」 今更恐る恐る訊いてくる夏侯惇に、曹操はもう腹の中で大笑いしながら、顔だけは真面目に繕った。 「うむ。思いっきり寝ておった」 「……す、すまん!」 面白い!! 面白いぞ元譲!!! お前本気で寝ておったのか!! それちょっと尊敬に値するぞ! なんていう事はもちろんおくびにも出さず。 「いやなに、疲れておるのだろう? それに、お前のおかげで楽しめたしな」 「……楽しめた? 俺のおかげで? なんのことだ?」 「それは教えん」 夏侯惇は急に何かに思い当たったように、顔色を白くした。 「ひょっとして、 俺は何か言ったのか!?」 「言ったが教えん」 「孟徳!」 「軍議中に居眠りをこいていた罰だ」 「孟徳!!!」 「夏侯惇殿! 大したことは言ってござらん!」 「そ、そうなのか!?」 「あ、張遼! お前ここはもう少し引っ張って楽しめ!」 「しかし殿!!!」 「孟徳! 頼む、何言ったのか教えてくれぇ!!!」 向こう三年、夏侯惇がこの時のネタでいじめられていたのは言うまでもない……。 関羽が魏陣営にいたら、甄姫ここにいないだろ!という突っ込みは無しの方向で……。分かってるんですけど、甄姫以外の人に台詞言わせてもどうにもしっくり来なかったもので……。 あと、曹操が荀ケに女を捜させているのは北方三国志です。北方の曹操と荀ケ、可愛いよなぁ……。 |
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