暗闇 |
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どうしてこんな事になったのか、自分でも分からなかった。なぜ自分がここにいるのか、も。憎しみとさげすみだけがこの場を支配していた。 夏候惇は溜息を押し殺した。背後から、男の規則的な寝息が聞こえる。眠れぬ夜。夏候惇はただこの男を斬り捨てることだけを思いながら、目を閉じた。 それはとある宴の席での話だ。曹操はやっと幕下に加えることのできた関羽を上座に据えていた。上機嫌だった。臣下の席に降りてきて、関羽の隣に座り込んでさえいる。もちろん、今まで武官の上座を占めてきたのは夏候惇である。その夏候惇の更に上座に、曹操は関羽を座らせたのだ。 ……他の者ならば良い。だがこいつはいつ敵に寝返るか分からぬ男だというのに……。 夏候惇は苦々しい思いで盃を口に運んだ。一つ下座には夏候淵が座っている。時々夏候淵が話しかけてくるのに頷きながら、まるで隣に関羽など座っていないように、夏候惇は静かに飲んでいた。 そのうちに、曹操は文官共に呼ばれて、名残惜しそうに席を離れた。関羽は一人残された形になったが、夏候惇は敢えて気づかない振りをした。 劉備が曹操の元に身を寄せいていた時から、夏候惇は関羽が気にくわなかった。どれほど曹操が厚遇しても、三人だけで身を寄せ合い、決して魏に馴染もうとはしなかった三人。その中でも、関羽の視線は際だって頑なだった。荀ケは劉備を殺せとしきりと言っていたのに、曹操の恩情を逆手に、兵を掠め取って逃げていった。こんな男を厚遇したとて、とうてい魏に帰順するとは思えぬ。 だが、孟徳は信じているのだ。子供のような無邪気さで。ならば俺も孟徳を信じてやるしかないではないか。 上の空になった夏候惇に気を遣って、夏候淵が何事か戯れ言を話しかけてきた。この男は、こういった優しさを時折り見せた。夏候惇が心の中で苦笑しながら彼の方を向いた、その時。 「曹操殿にも困ったものよ」 関羽のつぶやきは小さく、隣に座る夏候惇も聞き逃しそうなほど低いものだった。 「何……?」 怒気を含んで睨みつけると、ゆっくりとこちらに顔を向けた関羽と視線がぶつかる。 「……貴様、今なんと言った」 低く、絞り出すようなささやきで、夏候惇もそれに応えた。声を荒げて問いただすべきかとも思ったが、それは話の内容によると、小さく自分を戒めたのだ。 だが。 「あの方が拙者を求めておるのは分かっていたが……ふっ、色仕掛けをかけてくるとはな」 「な…!」 あまりの台詞に、夏候惇は関羽の襟首に掴みかかった。 「貴様!」 「どうした夏候惇」 曹操のとがめるような声に、あわてて夏候淵がその場を取りなそうとするが、夏候惇は締め上げる手をゆるめることができなかった。 「殿! 惇兄は少し酔っていて…!」 「黙っていろ淵! こいつは孟徳を……!」 その手を、関羽がそっと握りしめた。戒めるようにではなく、まるで柔らかいものでも包み込むように。ぎょっとして、夏候惇は思わず手をひいた。 「いや、拙者が悪いのです。あまり品の良くないことを申しました故、夏候惇殿が怒られるのもいた仕方のないこと」 「ほう。髯殿がどんなことを申したのか、聞いてみたいものよ」 曹操は関羽の隣に腰を下ろしながら、夏候惇をちらりと睨みつけた。夏候惇は、忌々しげに目線をはずし、盃に手を伸ばすしかなかった。 「待て、関羽!」 「おぉ夏候惇殿。いかがされた?」 「いかがされたではない! 先ほどのあの聞き捨てられぬ台詞は何だ!!」 宴を退き帰途に就いた関羽を、夏候惇は門の外で待ち伏せていた。席が隣だったとはいえ、あのような話を人のいる場でできるはずがない。自分を軽くあしらって、与えられた屋敷に馬首を廻らせる関羽を忌々しく思いながら、夏候惇はその後を追った。 「あれは拙者の独り言だ。お気になさるな」 「何を言う…! これ見よがしに言っていたではないか! 良いか、孟徳は確かに人材を求める時には子供のような無邪気さを見せるし、多少親密が過ぎることもある。だがそれはただもののふを求める心がそうさせているだけで、貴様の思っているような邪なものではない!」 「それはどうであろうな」 鼻で嗤う関羽を、夏候惇はこの場で斬り捨てたい衝動に駆られた。だが曹操の執着を思えば、その心も鈍る。 関羽は夏候惇を無視して、勝手に屋敷の門をくぐると馬を繋いだ。それからやっと振り返り、まだ馬上にいる夏候惇を仰ぎ見た。 「曹操殿は先日、拙者の寝所にまで参ったのだぞ。おぉ、そう言えば夏候惇殿。そなたはただ一人、曹操殿の寝所への立ち入りを許されていると聞いた」 「何が言いたい!」 反射的に馬から飛び降りると、夏候惇は背を向けて立ち去ろうとする関羽の腕に砕く勢いで掴みかかった。関羽は、すぐには夏候惇の手を払わなかった。しばらくそうして睨み合って、それからやっと夏候惇の体をそっと離した。 「下衆な事は言いたくないが、貴殿の悋気はそのためか」 「孟徳を侮辱することは許さん! 常に命を狙われている孟徳が、血の繋がりだけに頼って何が悪い!」 「だが曹操殿は」 「黙れ貴様…!」 これ見よがしな溜息をつくと、関羽はきびすを返して再び屋敷の中に向かった。 「待て!」 「拙者と話すことなどないのであろう?」 「貴様…!」 関羽の後を追っていくうちに、気がつくと夏候惇は関羽の居室に踏み込んでいた。何の飾り気もない質素な部屋。関羽はゆっくりとした動作で、扉を閉めた。 「大きな声を出されるな。義姉上達が怖い思いをされるであろう」 怒りのために言葉を失っている夏候惇を、関羽は静かな目で見つめていた。 劉備の夫人のことなど知ったことか。言を左右にして逃げている小面憎しいこの男に、気づくと剣に手が伸びている。 「良いか、夏候惇殿。そなたが曹操殿をどう思っていようと、曹操殿が拙者の寝所に参ったのは事実だ。一つ布団に身を寄せて、水魚の交わりとか申されてな。曹操殿がその気であるなら、拙者もいつまで断り続けられるか、その自信もない」 「孟徳はただそなたと親交を深めようと……!」 「どのような親交を深めたいのやら……」 「貴様…!」 夏候惇が剣を抜こうとしたその時、関羽は素早く自分の剣に手をかけ、鍔で夏候惇の鍔を押さえつけた。二人の間に火花が散る。だが、先に引いたのは関羽だった。 「いや、仮に貴殿の申すとおり曹操殿にその気がなかったとしても、あのように体に触れてこられては、拙者もここでの独り身が長い故、どうなるかは分かり申さん」 「孟徳が贈った女が山ほどいるではないか!」 「拙者は曹操殿にもらったものに手をつけるつもりはない」 「よく言うわ! 孟徳自身を穢そうと言うその口の端も乾かぬうちに…!」 「それはそちらの望んだこと」 「孟徳はそのような男ではない! 良いか!? 貴様が孟徳に手を出せば、俺は孟徳に罰せられようとも、必ず貴様を斬る!!」 「なるほど……」 静かにそう言った関羽は、口元だけで小さく笑った。その笑顔が癪に障り、また襟首を締め上げようとしたその手を、逆に掴み返された。 「!」 「そうだな…それならば、貴殿に替わっていただこう」 「何を…」 何を言われているのか分からなかった。ただ何か冷たいものが、背筋を這い上ってくるのを感じた。捕まれた腕がねじり上げられる。折られると思った瞬間、視界が回転した。 「!?」 頭と言わず、背中と言わず、全身に激痛が走った。ずいぶん長い時間のことのように思ったが、目を開けるとそれは一瞬のことだった。その一瞬の間に、夏候惇の胸は、上からのしかかる関羽に押さえ込まれていた。 「何の真似だ!?」 「選ばれよ、夏候惇殿。曹操殿を穢されるのが良いか、身代わりになってその身を差し出されるか。今なら貴殿に選ばせてしんぜよう」 「気でも狂ったか!」 「ほう。では、次に曹操殿が見えた時には、曹操殿をいただくとしよう。文句はござらぬな?」 「ふざけるな!」 「ふざけてなどおらぬ。多分、曹操殿は拒まれまい」 そんなはずはない。決してだ。 だが、自分の動きすらたやすく押さえ込んだこの男に、果たして孟徳が抗えるか。その想像は恐怖に近かった。 孟徳をそんな目に遭わせてはならない。こんな男に孟徳が……そんな事があってはならない……! 「どうなされる?」 「どうもするものか! 孟徳がお前に今後一切近づかなければ良いだけの事! 今日のこの不始末を孟徳に報告すれば、いかな貴様でも……」 「ほう。拙者に無様に這わされて犯されたと、曹操殿に報告されるのか」 「なに……」 今、この男は何と言った? 夏侯惇は白くなった顔を関羽に見せた。この男はさっきから何を言っている…? 俺が……? 「んっ!!」 不意に夏侯惇は顎を掴まれ、その唇に関羽の唇を押しつけられた。驚愕に薄く開いた唇に、ぬるりと舌が滑り込む。全身がそそけだった。 「つっ!」 関羽がびくりと離した唇からは、血がしたたり落ちていた。その赤い血を見て、夏侯惇は自分の身に降りかかろうとしている事がなんなのか、やっと理解する事ができた。 「なるほど、さすがは夏侯惇殿。こうでなくてはつまらぬ」 ニヤリと笑うと、関羽は口元の血を腕でぬぐった。 「離せ貴様…っ! どけ……っぐ!」 大きな手が夏侯惇の喉元を万力のような力で締め上げた。指が的確に気道の脇にある動脈を捕らえ、夏侯惇の視界は三秒と経たずに暗転した。だが、関羽の指は夏侯惇に気を失わせるなどという幸運を与えはしなかった。体中の力が抜けているというのに、意識だけはある。耳元を舐めるようにしながら、関羽はそっと囁いた。 「安心されよ。拙者は貴殿を嬲ろうという訳ではない。ただ少しだけ、大人しくなっていただきたいだけだ。お互いに、辛い思いや痛い思いはしたくあるまい?」 怒鳴り返してやりたいのに、口を開くことすらできない。ゆっくりと口に指が差し込まれ、舌の先を軽く撫でられたと思うと、先程拒絶した鉄錆の舌が入り込んできた。その舌が夏侯惇の舌を絡め取り、歯列の裏を辿って、時々きつく吸い上げていく。舌下を舌で舐められると、不思議な感覚に背筋が粟立った。 どれだけそうされていたのか。やっと唇から舌が離れたと思うと、その舌が自分の首筋を這っていった。だがそれを拒絶することはもちろん、体を強ばらせることすら、今の夏侯惇にはできないのだ。何という屈辱。体が時々ぴくりと震え、口からはただ荒い息だけが漏れた。 体中を舌で辿られる。脇の下、肩胛骨の陰、足の指の間、膝の裏、腰骨の窪み……。今までそんな所を人に触れられたことはなかった。そして最悪なことに、行為を拒めぬ体は素直にそれを受け入れてしまうのだ。自分の吐く息がむかつく程湿っている。一体いつまでこんな事が続くのか。 「夏侯惇殿」 耳元に吐息がかかり、そのまままた唇がふさがれた。唇が唇をついばむように甘噛みされ、小さく音を立てる。帝に“美髯公”と謳われた長い髯が、しなやかに胸元をくすぐった。 「夏侯惇殿…」 やっていることとは裏腹に、気味が悪い程優しげな声をしていた。うなじにばかでかい手が張りつき、そのまま顎に歯を立てられる。 「…よ…せ……」 小さく声が出たことに、最初は気づかなかった。気づかぬまま、夏侯惇は己を包まれ、値踏みでもするように、ゆっくりと手のひら全体で形どられた。 「よせ…!」 声が出ると、そう気づいた時。 「…!」 熱く、痺れるような圧迫感。自分が口に含まれていると理解するのには、相当な時間が掛かった。それが精一杯の抵抗であるかのように、夏侯惇はただ片方の目だけを見開いていた。だがそこに映るのは黒い輪郭だけで、霞んだ視界の先に、暗い影がのしかかっていた。 悪夢。 何かこの世ならぬ物に、喰らわれているような―――。 「やめろ…貴様……!」 叫んでいるつもりなのに、じれったい程か細い声が漏れるだけだった。下腹がじんと痺れるたびに、無性に頭が痛む。やっと動いた体は微かに指先だけで、下腹を襲う刺激だけが妙に甘く、快くさえ思えて気が狂いそうだった。 「夏侯惇殿、もう少しじっとしておられよ。すぐに貴殿にも、快楽をさし上げる故」 「何を…! やめろ……んんっ…くぁ!」 関羽の空優しい声に、頭の痛みを忘れそうになる。その声が、今自分を呑み込んでいるのは関羽だといやでも思い知らすのだ。関羽は丁寧に根本をしごきながら、先端を軽く歯で刺激し、口をすぼめて卑猥な音を立てた。こんな男に…そう思うと瞼の裏が憎悪で真っ赤に染まった。 だが関羽の愛撫は吐き気がする程巧みだった。 夏侯惇の望む場所に、夏侯惇が望むより先に―――もとより夏侯惇がそれを望んだりはしないが―――必ず関羽はそこに指を這わせ、舌先でつつき、甘く吸い上げた。 わななく指が関羽の頭を引き離してやろうと伸びていったが、その手は逆に関羽にに絡め取られた。下腹がひどく熱い。熱くてどうにかなりそうだ。夏侯惇はどうにもならない衝動に、きつく目を閉じて小さく叫んだ。 「う…くっ、あぁ……!」 急に、胸の中に空気が入ってきた。久しぶりに呼吸をしたような気がして目を開けると、目の前に関羽の顔があった。口元からは白濁とした液をしたたらせ、それを旨そうに舌先で舐め取っている。 「あ…」 何が起こったのか、分からなかった。 関羽の満足げな顔が、そっと近づいてくる。 呆然としている夏侯惇の唇に、関羽は自分の指を含ませた。その指からは、今放ったばかりの自分のにおいがした。 「……何…おれ…俺は……」 自分の中の何かが、崩れる音がした。 殺してやりたいと思っている男の手で、自分は今果てたのだ。そう思うと、自分に対する嫌悪感で死んでしまいそうだった。 大切な何かが、壊れた……。 夏侯惇はただ目を見開いて、体を震わせているしかなかった。 その後のことは、あまり覚えていない。ただひどく頭が痛んだ。 その痛みだけが現実で、後は全て夢の中のことだと思った。 朝日が差し込んで、やけに眩しかった。夏侯惇は小さく身じろぎをして、それから重い瞼を開けた。そこには、こざっぱりとした見知らぬ部屋が映っていた。 「……どこだ……?」 記憶が曖昧で、頭がぼうっとする。体を起こしてみると、体の奥が鈍く痛んだ。 「……なん…だ……? ここは……?」 「おぉ、気がつかれたか」 手に朝餉の盆を持ち、扉を開けて入ってきた男の顔を、信じられない気持ちで見つめる。 何故、関羽が……。 「具合はいかがですかな、夏侯惇殿。足は立たれるか? 頭痛などは?」 「!」 関羽の手が額に触れた途端、夏侯惇は昨夜の出来事を一気に思い出した。 昨夜…… 昨夜、俺は……!! 「ふ…、そう怖い顔をされるな、夏侯惇殿。貴殿とて、昨夜は楽しまれたではないか」 「ふざけるな…!」 「ふざけてなどおらぬ。貴殿は昨夜、拙者に刺し貫かれて、何度も達ったではないか」 「やめろ…!」 昨夜の行為が目眩のように思い浮かぶ。 何か大切な物が壊れて、夏侯惇はあの後何も抵抗できなかった。体が動かなかった訳ではない。抵抗しようと思えばできたはずだ。それなのに、夏侯惇の体は自分の言うことを聞きはしなかった。まるでそこにあるのはただの傀儡で、腑抜けた体は関羽の指を易々と飲み込み、そしてあろうことか関羽自身まで…… 「違う…、ちがう、あれは……!」 「何が違うというのだ。生娘ではあるまい、そう狼狽えることはあるまい」 「それはどういう意味だ……!」 「馴れていたではないか」 「……貴様、どれだけ俺を侮辱すれば気が済むのだ……!」 「まさか初めてだとでも言われるつもりか? 初めてで、ああも易々と男を受け入れることなどはできまい。しかもあれほどまで感じて、最後には気をやったではないか」 「やめろ!!」 夏侯惇は耳を覆って叫んだ。どこか断片的な記憶の向こうで、確かにその台詞が本当だと体が覚えている。だがあれは悪い夢なのだと。我が身に起きたことではないのだと信じていたいのに…!! 「……まさか、本当に?」 「俺は…、俺は貴様とは違う! 男と寝たことなどがあるものか……!」 「……では、拙者が初めてだと?」 「そんな言い方をするな!! 貴様がしたことはただの……」 「ならば、拙者と貴殿とは、よほど体の相性が合うと言うことか」 「……なっ!」 関羽は長い髯を手で弄びながら、感心したように夏侯惇を見つめていた。この男は何を言っているのか。昨夜のことはただの暴力ではないか。それをこんな…こんな……。 「なるほど…。これは、楽しめそうだ」 関羽の目が、獲物を捕らえる虎のように光った。 そうして、今に至っている。夏侯惇は今、夜ごとに通う関羽の胸に抱きすくめられるようにして眠っていた。 叩き斬る……。 この男を、いつか必ず斬り裂いてくれる……! 夏侯惇はきつく目を閉じた。 血の海に沈む関羽の姿を、思い浮かべながら――――――
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