優しい気持ち

 飛虎が熱を出した。滅多にないその椿事に、聞仲の方がうろたえてしまった。いつも「俺は体の頑丈なのが取り柄だ」と言っている飛虎である。その調子で無茶をしすぎたのだ。朝歌で秋といっても少し北へ上がればかなり寒い。それを承知で飛虎は北方への視察をいつもの軽装で出かけ、帰ってきてから朝歌で待っていた仕事を徹夜で片づけた。はらはらと見ていた聞仲が少し休めと言っても「お前に言われたかねぇ」と鼻先で笑い、仕事が終わったと同時に熱を出したのだ。

「なのに何故お前は今こんな所にいるのだ、飛虎」
「こんな所とはご挨拶だな。武成王が武成王府にいて何が悪いよ」
「武成王府は病院ではないぞ」
「こんなのすぐ治るって」
「治したかったら家でおとなしく休んでいろ」
 今朝からずっとこの調子である。飛虎の言い分は「家にいると子供がまとわりついてくるから逆に休めない」という物で、「かといって冷たい石造りの武成王府に、しかもその中でも特に風通しの良い執務室に座っていては、治るものも治らない。子供は立入禁止にして家で寝ていろ」というのが聞仲の言い分だ。

「それに俺、仕事してた方が気が楽だし」
「デスクワークは嫌いだといつも言っているではないか」
「……そういう聞仲は何だって太師府じゃなくてここにいるんだ?」
「お前がちゃんと休まないからだ」
 そう言って飛虎の額に手を伸ばすと、思っていた以上にそこは熱かった。あわてた聞仲は反射的に手を引いたが、思い直してしっかりと左手で飛虎の頭を抑え、右手で額の熱を測った。
「飛虎、この熱……」
「ん? そんなに熱いか?」
「熱いかってお前……」
 頬が紅いとは思っていたが、そういえば目も潤んでいる。飛虎の体は丈夫だが、聞仲とて人間の病には縁のない仙道である。熱を冷ますにはどうするのであったか、どこで薬を貰ってくるのだったかと、頭ばかりがくるくると忙しく動き、どうにも行動が伴わない。そんな自分がもどかしく、よけいに頭は焦り、そのせいで体はどんどん動かなくなる。
「は〜」
 表面はひどく落ち着いているが、内面大いに慌てている聞仲の脇で気のない溜息を吐くと、飛虎はぐんにゃりとそんな聞仲にもたれかかってきた。
「お前、冷たくって気持ちいーや」
「飛虎……」
 聞仲の頭の中は今やパニックである。飛虎が私に抱きついて、いや、もたれかかっている……そんな問題じゃない、この熱はいくら何でもやばいだろう、ああでも飛虎が私にもたれ、というより私を冷たく感じると言うことは相当の熱で、いや、熱が高いのは分かっている、それより今飛虎は私にもたれかかっているわけでだから飛虎は飛虎は飛虎は……。

 パニックが頂点に達したとき、聞仲は自分でも思っていなかった行動に出た。
  いきなり飛虎を抱き上げたのである。

「ぶ、聞仲?」
「とにかく暖かいところで休まないと駄目だ。仮眠室はないのか?」
「ねぇよ」
「なら太師府の私の寝所で我慢しろ」
 そのまま武成王府から飛び出すと、周り中の者が目を見張って振り向いた。当たり前である。いつも冷静沈着な太師が自分よりも三十センチは上背のある武成王を「お嫁さんだっこ」で抱き上げ、ひどく真剣な顔でわき目もふらずに早歩きで歩いていくのだ。しかも抱き上げられている武成王の方も放心しているのか、紅い顔をしたままぼんやりと太師にもたれかかっている。何ごとが起きたのかと皆一様に不審げである。中には下世話な勘ぐりをする者もいたようだが、誰一人武成王の具合が悪いなどという想像をしない辺りが何をかいわんや、である。

 だが当の本人達はそんな周りの様子が目に入るほど冷静ではない。聞仲のパニックは言うまでもないが、飛虎もひどく動揺していた。
 初めての気分である。こうして聞仲の腕の中にいると、本当はひどく自分が弱っている事に気づいて、何だか泣きたいような気分だった。
 それは哀しいから、とか、情けないから、とか、辛いから、などという理由ではなくて、自分が小さな子供になったような気がするからだった。安心して体を任せられる聞仲という存在に、何だか甘えてしまいたいような、そんな不思議な気分だ。
 思えば自分は人に頼られることはあっても、あまり人に頼ったり、甘えたりすることはなかった。それは武成王という要職に就いているからではなく、この地位に就くよりもずっと前から、本当に小さな子供の頃からのことだった。
 父も母も優しかったが子供を甘やかすタイプの人間ではなかったし、人に甘えるということは弱いことだと頑なに信じてきた飛虎は、甘やかす手を全てはねつけてきた。それはあまりにも当然のことで、だから今までこんな事を感じたことはかった。
 でも今、こうして聞仲に子供のように抱きかかえられていると、何だかひどく良い気分がする。こいつには辛いって言っても良いし、弱っている自分をさらけ出しても良いのだと、そう思えることがくすぐったくて、何だか本当に泣きたかった。
「飛虎、落ちないように私の首に手を回していろ」
「ああ……」
 例え手を回さなくても、決して自分を不安にさせない力強い腕が飛虎を支えている。潤んでいた瞳に涙が浮かび、うろたえた飛虎は聞仲の肩にきつく顔を押しつけた。

 飛虎を寝台に横たえると、張奎が薬を持って顔を出した。
「今呼ぼうと思っていたところだ。どこから聞きつけてきた?」
「みんなこの話題で持ちきりですよ。聞仲様が武成王を抱えて歩いているって。お加減が悪いと聞いていたので、僕はそのせいかと思っていたのですが……?」
 張奎の頬に意味ありげな笑みが浮かんでいる。だがそのあからさまな含みに気づかぬほど、聞仲は飛虎の様子にかかりきりで、張奎の運んできた薬をどうやって飛虎に飲ませるか、そればかりを考えているようだった。
「む……。水がこぼれてはよけいに具合が悪くなるな……。飛虎よ、体を少し起こせるか?」
「ああ……」
「聞仲様、口移しで飲ませては々ですか?」
「ああ、その手があ……」
 言いかけて聞仲は慌てて張奎を振り返り、能面のような顔で彼をにらみつけた。張奎は小さく笑うと「吸い口を探して来ます」と急いで部屋を出ていく。
「聞仲、俺、薬くらい自分で飲めるぞ」
「ああ、だが今は少し寝ていた方が良い」
「ん……」
 起きあがろうとして出てしまった肩に布団をかけ直し、聞仲は飛虎の頬にそっと手を触れた。
「お前がそうしておとなしいと気が抜けるな」
「そうだな。……なぁ」
「ん?」
「手、冷たくって気持ち良いな」
 今度は違う驚きのために聞仲は目を見張ったが、すぐにその目には優しい微笑みが宿った。こんな飛虎は初めてだ。頼り切ったまなざしで自分を見つめ、誰よりも優しい人間に自分を変える。
「では暫くこうしていよう」
「ああ……」
 聞仲は寝台の脇に座り直し、柔らかく飛虎の頬を包んだ。そっと、宝物に触れるように……。

 張奎が再び訪れたとき、飛虎は聞仲の手のひらに顔を預けながら、静かな寝息をたてていた。黙って吸い口を寝台の脇に置くと聞仲にそっと黙礼し、聞仲が目で合図するより先に部屋を出る。
「……驚いた」
 扉を閉めるなり張奎は思わず小さな声を上げた。
 聞仲のあんなに穏やかな目は見たことがない。新しい王太子が生まれるたびに、父親のように育ててきた聞仲を張奎はずっと見てきた。だが、あのような慈しみの目はその子供達にすら向けられたことがない。
 黄飛虎を抱きかかえてここまで連れて来たということだけでも驚くべき事なのに。
 聞仲は普段、滑稽なほどに飛虎への恋心を隠している。それがどんなに小さいことでも、決して人に気づかれまいと堅く心に誓っていることを張奎は知っている。なのに今日の聞仲はどうだろう。
「あの聞仲様がねぇ……」
 張奎は何だか自分まで優しい気持ちになって、我知らず微笑んでいた。
 昨日からずっと武成王府に出向いていたので、聞仲の執務室は書類で溢れかえっている。だが、今は大目に見てあげよう。二人の間のあの蜜月が、いつまた訪れるとも限らないのだから。 



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