月の宴

 美しい月夜だった。中秋節はまだ先だが、こんなに美しい月夜なら、酒を呑みながら月を眺めても構うまい。黄飛虎は仕事終わりに太師府に寄ると、まだ書類にかかりきりになっている聞仲に声をかけた。
「聞仲、まだ仕事か?」
「ああ。なんだ飛虎、そっちはもう終わったのか?」
「まぁ、あらかたは。そんなことより聞仲、良い月が出てるぜ。うちで一緒に月見酒でも呑まないか?」
 聞仲は机に残った書類の山と、窓の外の月と、それから目の前に立つ飛虎の笑顔を見比べた。書類の山はまだまだ山積みである。だが、飛虎の「来るだろう」と笑う顔には何者も抗えないだろう。
「ああ、ご相伴にあずかるとしよう」 
 そういって立ち上がると、聞仲はいつもより心持ちそそくさと、執務室を後にした。



 月を見るなら太師府でも武成王府でも良いようなものだが、今日二人は黄飛虎の私邸に行くことにした。飛虎の家なら酒だけではなく、旨い肴もあるはずだ。旨い肴と旨い酒。美しい月と気のおけない親友。酒を呑むのにこんなに完璧な夜はふない。
「お帰りなさいませ、あなた」
 館に戻ると美しい妻が二人を出迎えた。飛虎自慢の妻だ。聞仲の姿を見ると、驚いたように口元を手で覆う。
「あなた、太師様がお見えになるのなら、そう仰有って下さらないと。どうしましょう、何の支度もしておりませんわ」
「いや、突然押しかけてすまない。ご夫人、何の気遣いも無用に願います」
「ま、そういうこったから、すまんな、賈氏」
 片手を目の前に立てて拝む恰好で謝ると、「露台で酒でも呑もうと思ってさ。何か旨い肴でも出してくれよ」とウィンクする。
「ですから、その旨い肴というのがすぐには用意できないと申し上げているのに。もう。取りあえずお酒と……ああ、この間お義父様が西域の珍味をお送り下さったから、それでよろしいかしら。後は少し待っていて下さいね」
 賈氏はそう言うと、飛虎の腕をチクリとつねって、侍女達に采配するために部屋を出て行った。
「大丈夫だったのか、飛虎?私ならつまみなど無くても良かったのだが」
「俺が腹減ってんだよ。良いから気にすんなって。行こうぜ、聞仲」
 そう言うと飛虎は、聞仲の先に立って露台へと向かった。
 もう夜も更けていた。子供達はとっくに眠っているのだろう。シンとした静けさの中、飛虎は露台に出ると、手を大きく伸ばして深呼吸をした。
「ああ。月が綺麗だと、何か空気まで旨く感じるぜ」
 その無邪気な仕草に、聞仲が目を細める。飛虎と共にいるのなら、どんな空気も旨いだろうと、口には出せない思いに苦笑が上る。
「ん?なんだ聞仲?」
「いや、何でもない」
 すぐに侍女が数人やって来て、露台に毛氈を敷き、酒と肴を整えて、宴の席を作った。二人は軽く礼を言って、どっかりと腰を下ろす。
「あり物で悪いけど、すぐ賈氏が何か作って持ってくると思うからさ」
「せっかくの父上からの心尽くしを、良いのか?」
「良いんだって。親父だって聞太師が喰ってくれりゃ喜ぶぜ?えっと、この辺は生臭入ってるか?あ、こっちのは大丈夫そうだぜ」
 さっさと盃に酒をなみなみと注ぎ、飛虎は聞仲にその盃を押しつけた。
「さてと、何に乾杯しようか?」
「もちろん、この美しい月に」
 聞仲が月よりも美しく微笑むと、飛虎も満足そうに頷いた。
「ああ、それじゃ、美しい月に」
 そうして二人は盃を一気に飲み干すと、顔を見合わせて笑った。



 しばらくそうして二人で月を眺めていた。うっとりするほど満ち足りた時間。どれだけそうして酌み交わしていたのか。
「失礼します」と声をかけ、賈氏が侍女を従えて、肴を運んで来た。
「これはご夫人、かたじけない」
「この様な物しかご用意できなくて申し訳ありません。お口に合えばよろしいのですが」
 見事に生臭を避けたその肴からは、賈氏の人柄と自分への好意が感じられた。ありがたいと思う気持ちの反面、聞仲の胸に苦い物が広がる。
 この月よりも飛虎の方が好ましいと思う自分の気持ちを、飛虎はもとより夫人も知らないのに……。
「ああ……ご夫人、ありがたいお心遣い、痛み入ります。飛虎よ、ご夫人は誠に道士というものをよく心得ておられるのだな。……そうか。確かご子息の一人は崑崙にいるのだったな」
「ああ…でもほら、天化の奴はもう帰っちゃこねぇさ。道士ってそういうモンだろ?」
 飛虎はわずかに遠くを見ながらそう言うと、次の瞬間には明るく笑って顔を上げた。
「そうじゃなくて、多分賈氏の奴はお前を喜ばせたくて色々勉強したんだと思うぜ。だから聞仲、賈氏相手にんな他人行儀なマネはよせよ。俺ら家族みたいなもんじゃないか。だったら賈氏だってお前の家族みたいなもんさ。なぁ、賈氏」
 賈氏を振り返ると、彼女は呆れたような顔をした。
「あなた。いくら親しくさせていただいているといっても、太師様に向かって何ということを!畏れ多くも太師様は殷の国親であり、皇帝陛下の亜父であらせられます。わたくしごときを家族だなどと、失礼にも程が過ぎるというものですよ!」
「え、でもよう…」
 賈氏に叱られて、飛虎は助けを求めるように聞仲を振り返った。
「いや、ご夫人、私も公と私の顔を持つ者。私事で飛虎と親しくさせていただいるのは本当ですから、どうぞお気遣い下さるな」
 聞仲の言葉に、飛虎はほっと息を吐いた。
 だが。
「しかし飛虎、ご婦人というものは、男のようにがさつに出来てはいないのだぞ?急にその様なことを言われては気の毒というものだ。そもそも他家の夫人と親しく接するということは、礼法にも反している。男の私はともかく、ご夫人にはもっと気を遣って差し上げろ!」
「えぇ〜!?でも俺はお前と賈氏には仲良くやって欲しいんだよ!だって聞仲は、俺の親友だろ!?」
 飛虎の何気ない言葉は、それが本音であると分かっているだけに、胸に痛かった。
 自分と親友であると、夫人の前で言い切ることが出来る飛虎。だが、自分の想いは飛虎のものとは違うのだ。この邪な心を凛と澄んだ夫人に悟られてはならぬと、一人心配をしてしまう自分が滑稽だった。
「ほら、飛虎よ。ご夫人も困っておられるぞ!良いか、間違っても他の者にその様なことを言ってはならぬぞ。私だから聞き流しもするが」
「お待ち下さい太師様」
 いきなり当の賈氏に声をかけられ、聞仲は今度はぎくりとした。私は何かまずいことを言っただろうか……。
「夫も、他の方々へ礼節を欠くような言動は致しません。太師様がお相手なので、夫も甘えているのでしょう。どうぞお許し下さいませ」
「い…いや…」
 柄にもなくうろたえ、聞仲は小さく咳払いをした。飛虎の奥方は、何というか、さすがに武成王黄飛虎の妻である。だが賈氏は聞仲の焦りも気づかぬように、ふわりと笑ってみせた。
「ですが、今日は太師様と親しくお言葉を交え、望外の喜びでございました。どうか太師様、今宵はゆるりとお楽しみ下さいませ」
 頭を下げてその場から去ろうとする賈氏に、今度は飛虎が不満げな声を上げる。
「何だよ、もう行くのか?」
「わたくしがいては太師様もお気を遣われます。今宵はあなたと寛ぐために、太師様はこちらにお出でになられたのでしょう?」
 妻の言葉をおとなしく聞いていた飛虎だが、わずかに下唇を突き出して「でもよう」と不満を露わにする。
「せめて賈氏も、もう少しこう…親しげにさぁ、聞仲、とまではいかなくても、せめて聞仲様、位に呼びゃ良いじゃん」
「あなた」
 賈氏が目だけで飛虎を睨むと、飛虎は首をすくめた。
「だってさぁ。だって、聞仲って確かに殷の国親とか言われてるし、陛下の亜父でもあるけどさ。でも、聞仲って家に帰ると誰も家族とかいないんだぜ。みんなが太師太師って言って、お前みたいに遠巻きに見るんだぜ。俺はそういうのがイヤなんだよ。友達作れって言っても作らねぇしよう。もっとこう、家庭の味?とか、そういうの?そういうのを味わっても良いと思うんだよ」
 それを聞いて、聞仲と賈氏は同時に飛虎を見て、それから二人で顔を見合わせた。
「……飛虎、ひょっとして、酔ってるのか?」
「……少し酔ってるけど、酔っぱらって言ってるのとはちょっと違う。ずっと前からそう思ってたんだ。今日は良い機会だと思って」
 なのに二人して俺のこといじめてさ、と、半ば本気で拗ねている飛虎に、思わず二人とも笑ってしまった。
「私は、飛虎の家族ならば私の家族だと思っているぞ。ただ婦徳というものがあるだろう?夫人は夫以外と親しく話してはいけないし、もし私が陛下の亜父だというのなら、そのような位にある者は他家の夫人の姿を見てはならない筈だ」
「何で他家なんだよ!今家族だって言ったじゃないか!」
「酔ってるな?」
「酔ってるよ」
 ふんと鼻を鳴らす飛虎に、聞仲は白旗を揚げた。
「分かった、飛虎。お前の言うとおりだ。お前の心遣いを無にしようとして悪かった。ご夫人さえ良ければ、もっと親しくさせていただこう」
「わたくしは、もちろんありがたくお受けいたしますわ。夫の大切な方は、わたくしにとっても大切な方です、聞仲様」
 夫の大切な方。
 聞仲は痛みに胸が疼くような、それでいて頬が朱らむような複雑な気分になり、気合でそれを持ちこたえた。
「うん、それじゃあ、今日は三人で呑むぞ!」
 急に元気になった飛虎に、また二人は顔を見合わせて笑った。



 翌朝、ガンガンと痛む頭で目が醒めた。
「……あれ?何か、俺昨日呑み過ぎた?」
「そのようですわ。聞仲様、呆れてらしたわよ」
「え?そういや、聞仲は?」
「もうとっくに朝餉を召し上がって、太師府の方にお戻りになりました。あなたのことは起こさぬように、目覚めてからゆっくり出仕すれば良いとのお言葉です」
 そう言うって、賈氏は飛虎を睨みつけた。
「なんだよ……」
「ご自分から聞仲様を誘っておいて、ご自分で先に眠ってしまわれるのですもの。後に残されたわたくしはどうしたら良いのかしら?」
「いや…その…、すまない……」
 散々謝らせておいてから、やっと賈氏は気が済んだと言わんばかりに飛虎を解放してやることにした。
「でも、あなたの仰有ることも、もっともなのかもしれませんね。聞仲様が少しでもお心安く過ごせるよう、わたくしも努めさせていただきます」
「そっか。……ごめんな、俺も事前に行っておけば良かったよな……?」
「そうですわねぇ。でも、まぁそれがあなたの良いところでもありますし?」
 賈氏がクスリと笑うと、急に飛虎はそわそわと賈氏を見つめた。
「あの、よ?」
「何ですか?」
 キョロキョロと落ち着かない様子で飛虎は辺りを窺うようにしてから、そっと賈氏の耳元に口を近づけた。
「聞仲と、あんまり、その…俺とよりは親しくしなくたって良いんだからな?」
「え?」
「……賈氏は俺の奥さんなんだから、いくら聞仲が良い男だからって、あんまり仲良くし過ぎんなよ」
「……まぁ」
 賈氏は大きな目を更に大きく見開いて、心の底から困ったような顔をすると「呆れた」と呟いた。
「いや、だってよう!」
「……これでは、聞仲様が逆にお気の毒だわ……」
「あ?どういう意味だ?」
「いいえ、こちらのことです」
 賈氏は天を仰ぐと、太師府に向かって細い溜息をついた。  



 大きな足を大股に開き、ドカドカと出仕してきた飛虎を、聞仲が二階の窓から呼び止めた。
「飛虎、宿酔いは大丈夫か?」
「あ、聞仲!昨日はすまん!!」
 言うなり飛虎は聞仲のいる太師府の二階へと駆け上がっていった。大きな足音だ。太師府中の人間が、何事かと驚いている。
 飛虎らしい……。
 聞仲は、頬に笑みが浮かべた。
「お、何だ、何笑ってやがるんだ?」
「お前の昨日の酔っぱらいっぷりを思い出してな」
「うるせ〜!悪かったよ。俺、先に潰れちまって」
 聞仲と賈氏、二人からやんやと言われたせいだろうか、昨日の飛虎はいつもの倍のピッチで酒を煽っていた。あれでは潰れて当然だ。あの後聞仲は賈氏に頼まれて、飛虎を寝室まで運ばねばならなかったのだ。
 ……夫婦の寝室に足を踏み入れて、聞仲はなんだか冷や汗をかいた。すぐ隣には美しい飛虎の夫人が立っていて、恐縮されたり礼を言われたりしたのだ。わざと乱暴に飛虎を肩に担ぎ上げ、聞仲は寝室に着くなりベットの上に放り投げた。飛虎は微かに呻くと、そのまま寝息を立てた。
 低く、掠れた呻き声……。
 その掠れ声が耳元に戻ってきて、聞仲は微かに頬を朱に染めた。
「どした?」
「いや…」
 ばつが悪そうに小さく咳払いすると、飛虎は慌てたように聞仲に詰め寄った。
「まさかお前、賈氏のこと思い出して朱くなってたんじゃないだろうな!?良いか!?賈氏は俺の女房なんだから、俺以上には親しくするなよ!!」
「……何を言い出すのかと思えば……」
 聞仲は呆れたように苦笑した。飛虎のこの鈍感さには、救われもするが突き落とされもする。
「あ、その顔!うちの賈氏も今朝そんな顔してたぞ!仲良しか!?」
「仲良くしろと言ったのは飛虎だろう」
 聞仲は飛虎の髪をくしゃくしゃと撫で、そのまま瞳を覗き込んだ。
「お前には感謝している。昨日、三人で呑んでいて、お前の言う家庭の味というのがどういうものか、少し分かったような気がした。礼を言う」
「そ…そうか……」
 あまりにも整った友の顔が目の前にあるので、飛虎は少し焦ったように目線を外した。
「なら良かった」
 聞仲はそんな飛虎に、目を細めて笑った。
 まったく、何と甘くて苦い酒だったことか。それも皆目の前に立つ男故だと思えば、聞仲にはこの胸の痛みも愛おしかった。
 そんな聞仲の心も知らず、飛虎は大きな牙を見せて笑いかけてきた。
「それじゃ聞仲、またうちに来いよ。今度は子供達にも会ってやってくれ」
 飛虎の家族が私の家族か。
 それも悪くないと、聞仲は微笑みながら頷いた。



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