白く冴えた月


 金鰲島へと出かけていった三人が二人で帰ってくるだろうということは、一種一つの予感だった。
 元々天禄はそう勘が鋭い訳ではなかったけれど、父が帰ってこないだろうということは、まるで始めから定められたことであるかのように、はっきりと分かっていたことだ。

 それでもボロボロにやつれた太公望の陰に庇われるように帰ってきた弟達を見たとき、天禄は喉の奥がギリギリと痛むのを感じた。二人の弟は蒼褪めた顔で自分達を見つけ、目が合った途端に天化は即座に目を伏せ、天祥は固まってしまった表情のまま、溢れるような涙をその目から流した。

「天化兄さん! お父さんは、お父さんはどうしたんですか?」
「…天爵……」
 天爵は苦しそうに俯く天化に詰め寄り、天化が言い淀むと次に天祥を振り返った。天爵が自分を見つめていると知ると、天祥は急に天禄に縋りつくようにして、泣き始めた。

 それは、悲痛な声だった。

「お父さんが、お父さんがぁあぁ!」
「天祥!」
「やめなさい天爵!」

 いつも内気な三弟が激するのを、天禄は肩を抱き留めるようにして、止めた。天爵の肩を掴む自分の腕だって、震えているのは分かっていた。だが、これは自分の義務であり、そして地上に残った我々に報告するのは共に戦った者の務めだと、天禄はゆっくりと天化を振り返った。

 いつも勝ち気な弟が、蒼褪めた顔をしていた。だが天化は、長兄と自分の立場をそれぞれ踏まえたのだろう、重い目をなんとか天禄に合わせた。

「……天化、お父さんは、亡くなったんだね?」
「…あぁ」
「うわああぁあぁあぁぁぁ!」

 自分の足に抱きついていた天祥が、叫ぶような声を上げたが、その声は天禄の心だって激しく打ちのめした。だが、自分は知らなければならないのだ。父が死んだ今、自分が黄家の家長なのだ。遺された祖父や父の兄弟、義弟、一族の者、そして一族の墓前に、自分がそれを報じなければならないのだから。

「……お父さんは、聞太師と戦ったんだね?」
「あぁそうさ! 親父は…親父はあの男と……あんな……!」
 叩きつけるように父の死を報じる天化を心配したのだろう、楊?が近づいてくるのを、天禄は気づかぬ振りをした。
「天化、お父さんは……」

「天禄君、今の天化君達にその話は無理だ。僕が代わりに……」
「いいえ! あなたは引いていて下さい!」
 自分は今まで道士に向かって、いや、誰に向かっても、こんな口の利き方をしたことがあっただろうか。自分は今、やはりどうかしているのかもしれない。だが天禄は、それでも自分の態度を改めるつもりはなかった。

「天化は父に認められて供をした者として、父の死を報じる義務があります。天化は武成王黄飛虎の息子なのです。あなたは引いていて下さい」

 天化ははっとしたように目を見開いて天禄を見た。仙界から帰還した者たちの視線を痛いほど感じる。だが天禄は、天化が自分から口を開くのを待った。大丈夫。天化はお父さんの息子なのだから。あの強かった、お父さんの息子なのだから。

 どれだけの時間が過ぎたのか。天化はやっと、絞り出す様に口を開いた。
「……親父は、自ら進んで聞太師と戦ったさ……。親父は、……親父は見事に本懐を遂げて、聞太師と戦って、そして…そして笑って、死んださ……」
「……そうか。分かった天化、よく…二人とも、よく無事で帰ってきてくれた……。お前達だけでも無事に帰ってきてくれて、本当に良かった……」
「兄貴…」

 泣くまいと決めていたのに、気づくと天禄は天化の体を抱きしめて泣いていた。背中に、天爵の体温を感じる。

 兄弟四人は、重なり合うようにして、庇い合うようにして、父の死に涙した 。



 あれは、太公望が多くの仙道を連れて、仙界に行った後。
 聞太師との因縁のある父と、傷を負っている二弟の天化は、太公望から留守居役を言いつかり、空を見上げては溜息をついていた。
 生まれながらの戦士である天化は、ただ戦に残されたことを悔しがっていたようにも見えたが、父の思惑が別にあるのは明らかだった。

 天禄は、子供の頃から父と聞太師の関係を見て育った。聞太師のような親友を持つ父が、天禄には眩しかった。互いが互いを思う合う、友という存在。太師と武成王という地位とは関係ないところで、損得を抜きにして思いやることのできる親友という存在。父はよく天禄の頭を撫でながら、多くの友を持つことが、人生の宝になるのだと諭したりしたものだ。

 父にとって聞太師は、本当にかけがえのない存在なのだ。自分の命と引き替えにしても良いほどに。
 だから父が空を見るたびに、天禄は不安になった。

 その日、飛虎はそっと天禄を呼び寄せた。

「天禄、俺、やっぱ行って来るわ」
 飛虎はどこに行くとは言わなかったし、天禄もどこに行くのかとは訊かなかった。
「お父さん…」
 飛虎はまるですぐ近所に買い物にでも行くような顔をしていたが、その目には決意が込められていた。天禄に、それ以上何が言えただろうか。きっとそんな思いが顔に出ていたのだろう、父は天禄を見つめて、子供の頃のように、軽く頭を撫でた。

「天禄、お前は俺みたいな仙骨がないことを気にしているみたいだが、一族を束ねる者に必要なのは、腕っ節の強さなんかじゃねぇんだ。お前は、きっと俺なんかより立派な族長になる」
「お父さん……」

 なぜいきなりこんなことを言うのか。行かないでほしいと、子供のように泣いてしまいたい気持ちは、天禄にだってあるのに。

「天禄」
 力強い手が、天禄の肩をしっかりと包んだ。
 何よりも憧れ続けた、父の手だ。

「俺がいない間、一族の者を頼んだぞ」

 黄飛虎は天禄を抱き寄せた。胸が詰まって、「はい、お父さん」と、それだけ言うのがやっとだった。
 父の広い胸の中で、天禄は誰にも気づかれぬよう、小さく泣いた。



 その日の夜。飛虎は息子四人と弟二人、義兄弟である四大金剛を自室に集めて、酒を振る舞った。

「なぁに、すぐ帰ってくるさ」
 そう言って父は、いつものように皆の盃に酒を注いで回った。父が酒の席で、まだ幼い天祥にまで酒を注ぐのは毎度のことだったが、いつもならそんな父を諫めに回る叔父達も、今日はしたいようにさせていた。
「明日出掛けるんなら、とっとと寝ないとまずいんじゃねぇのか?」
 口ではそんなことを言っても、席を立つ者は誰もいなかった。ほんの少しの間でも、飛虎が一族から離れることは、皆にとっても苦痛なのだ。

 武成王黄飛虎は強い。仙界へ行こうと、彼が敵わぬ者などいるだろうか。皆、そう信じていた。

 信じていた。

 例え心の奥底で、不安な気持ちが頭をもたげていても。

 気がつくと、辺りは水を打ったような静けさに包まれていた。まず年の若い弟達がつぶれ、叔父がそれに続き、ついに四大金剛までが眠ってしまったらしい。

 ふと顔を上げると、父の横顔が見えた。
 父は、月を見ていた。暗い空に、冷たく冴えた月を。
 そしてその月の向こうに見える、金鰲島の姿を。
 あの島の中には聞太師がいる。父は今、聞太師を見つめているのだ。
 天禄は自分が起きていることを父に悟られぬよう、そっと息を詰めた。
 父は空に浮かぶ不思議な島を厳しい顔で見つめていた。その横顔には、苦さと、切なさと、悔恨と、そして懐かしさ、愛おしさが入り混ざっていた。

 父は帰ってこないのだ。

 その横顔を見たときに、天禄ははっきりと悟った。
 父は帰ってくるつもりなどないのだ。
 飛虎にとって聞太師がどれほどの存在なのか、たぶん天禄は正しく理解していた。

 聞太師があそこにいる。
 聞太師が。

  ならば、父が戻ってくる筈などないではないか 。

 天禄は明け方まで、父の横顔を見つめていた。
 この横顔を、心に刻みつけておこう。誰よりも気高い、この横顔を。

 翌朝、黄飛虎は天化と天祥を連れて、仙界へと去っていった。「それじゃあ行って来るぜ」と片手を挙げて。
 それが、天禄が父を見た、最後の姿となった……。



 皆が仙人界から戻ってきて暫くすると、黄一族も落ち着きを取り戻した。父の死に様を目の当たりにした弟二人も、なんとか明るさを取り戻したように見えた。それが見せかけの明るさでしかないということは天禄にもよく分かっていたが、それでもいつか明るく振る舞うことで、それが習い性になるだろと、天禄は敢えてそのままにしておいた。

 地上に残された他の者達は、飛虎の死に様を見ていないだけに父の死を信じられていないようで、天爵や四大金剛を始め、一族の者達はいつも、たとえば酒を呑みながら、次の戦の話をしながら、笑いながら、ケンカをしながら、気がつくといつも父のいた場所を振り返っては父の名を呼びかけ、慌てたように口をつぐんだ。
 残された者は哀しい。そう、父について行かれなかった自分の無力を悔やみ、そして父の死を認められずにいるのだから。

 天禄にとっても飛虎の部屋を片づけることは日課だったが、それは皆のように「いつ帰ってきても良いように」というものではない。だが、端から見れば自分の行為は父の帰りを待ちわびるものにでも見えるのだろう。皆が心配して、墓を作ったらどうかと勧めてくれた。父の死んだ仙界の見えるここに、父の遺品を形代にして、墓を作ったらどうか、と。

 だが、天禄達にそのつもりはなかった。
 もうじき朝歌へ帰る。父が眠る場所は、母の隣しかないのだ。

「天禄兄さん、もうじき朝歌だね」
 天爵が東を見ながらつぶやいた。その声に父の不在を戸惑う色を見つけ、天禄は天爵の肩をそっと叩いた。
「そうだね。朝歌に戻ったら、家の手入れをしないとね。……それから、お父さんのお墓を作ろうか……」
「うん、天禄兄さん……」

 空には月が浮かんでいた。あの日のように仙界の島はもう浮かんではいなかったけれど、でも月は、あの日と同じように白く大きく浮かんでいた。

 その月が、父の横顔に重なる。

 父は死んだのだ。
 あの横顔が、天禄にそれを教えてくれた。

 お父さん、あなたはそこにいる。遠い空の向こうに、自分の信念を貫いて逝った、尊い死に様がそこにある。笑って逝ったと言っていた。そう、お父さんにはそんな死に様と、そんな生き様がよく似合った。なんてあなたらしい死に様だったろう。

 横を見ると、天爵のいつもよりも細くなってしまった肩が見えた。そうだ、この子はあのお父さんの横顔を知らないのだ。

 僕は、冷静なつもりでいて、ちゃんと認識しているつもりでいて、やはり自分のことで手一杯だったのだ。父の言うとおりの「一族を束ねる者」になろうとして、それでも自分の弟すら思いやることが出来てないかったのだ。

「……天爵、君に話しておきたいことがあるんだ」
「天禄兄さん?」

 天爵、君にはちゃんと語っておかなければ。あのお父さんを。お父さんのあの覚悟を。誰よりも気高く誰よりも人間であり続けたお父さんの、あの生き様と勇気を、天爵、君にはちゃんと語っておかなければならなかったのに。

「天爵、あの日のお父さんのことを、覚えてるかい? そう、金鰲へ行く前の日に、みんなでお酒を飲んだろう?」

 天禄は、朝歌を見つめながら、長い物語を始めた。天爵は、やはり朝歌を見つめながら、その話を黙って聞いていた。

 涙することもあるだろう。自分が生まれる前のことにまで遡り、何度も何度も聞き返すこともあるだろう。だが、きっと二人はそれを乗り越えることが出来るだろう。

 二人は、武成王黄飛虎の息子なのだから。

 だれよりも人間としての生を貫いた、あの偉大な父親の息子なのだから。




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