桜の花
桜の花びらが風に舞っていた。今日の朝日が昇る頃には、花は全て終わっているかもしれない。殷王朝第三王子である李子は、散る花びらに誘われるように目を醒ました。
辺りはまだ暗く、地平線の辺りにだけうっすらと、朝の気配を漂わせていた。
何故目が醒めたのだろう。李子は小さくあくびをすると、寝るのをあきらめて外の空気を吸おうと窓を開けた。
その時。
「李子様」
小さな声が李子を呼び、驚いて辺りを見回すと、桜の木陰から幼馴染みの飛虎が姿を現した。
「飛虎、どうした、こんな時間に」
見れば、肩から大きな袋を下げている。
……旅装束だ。
「行くのか、飛虎」
「はい。その前に李子様に一目お会いして、ご挨拶をしたくて」
代々殷王朝の武成王職を占めてきた名門黄家の嫡男である黄飛虎は、李子の数少ない、いや、唯一と言っても良い友だった。本来ならば黄家のような名門の嫡男が、李子の学友に選ばれるはずはなかった。事実、同年代の若者達は皆、王位に近い第一王子に近づきたがり、第三子である李子になど、声をかける者はいなかった。
だが、飛虎だけは違った。当主である黄滾が大らかな人物であるためか、それとも王位継承者との繋がりが弱くとも、揺るがぬ地位にあるという自信の表れなのか、黄家の人間は誰も、飛虎が李子とばかり共にいるの咎めたりはしなかった。
逆に気にしたのは李子の方で、「私と一緒にいるよりも、兄上の傍にいた方が飛虎のためだぞ」などと子供らしくもない忠告をしたこともあったのだが、飛虎はそれを簡単に笑い飛ばしてくれた。
「俺は李子様と一緒にいるのが楽しいんです。李子様と一緒に剣術の稽古をしたり、遠乗りをしたり、悪戯をしたりするのが、俺には楽しくて仕方がないんです。それとも李子様は、俺が一緒にいるのは迷惑ですか?」
迷惑な訳は勿論なかった。飛虎の申し出は、涙が出るほど嬉しかった。王位に遠いというだけで、誰からも一歩も二歩も隔てられて育ってきた李子にとって、飛虎は世界の全てだった。王家という篭の中で育った李子にとって、飛虎の世界はどこまでも続く広大な世界だった。
その世界が今、また広がろうとしていた。
「本当に行くんだな」
「はい、親父は良いって言ってくれたけど、他の諸侯に見つかるとまた説教くらいそうなんで、俺、もう行きます」
李子より年が僅かだけ大きい飛虎は、背も肩も腕も、李子より遙かに大きかった。逞しい飛虎が、李子には自分のことのように誇らしかった。
「飛虎よ。飛虎の見る物は私の見る物で、飛虎の成す事は私の成す事だ。飛虎のその大きな翼で世界中を駈け、そして私にお前の世界を与えて欲しい」
「はい。世界中を駆け回って、多くの物を見て、多くの事を学んで、きっとでかくなって戻ってきます。どうか李子様も、お元気でいらして下さい」
「あぁ。私も飛虎に負けぬように、己を磨いておく。だから飛虎よ、きっと元気に戻ってくるのだぞ」
李子は飛虎の大きな手を、両手でしっかりと握りしめた。そうしていると、いつも飛虎の力が自分の中に流れ込んでくるのを感じた。この手を握れるのは、次はいつになるだろうか。
だが次には、もっと多くの力を得ることができる。飛虎は李子の世界だった。飛虎の成長は自分の成長であり、飛虎の力は自分の力だった。
それでも飛虎がいなくなると思うと、半身を失うような辛さがあった。そんな弱い自分を飛虎に見せるわけにはいかない。飛虎を心配させたくないし、飛虎に弱い男と思われるのだけは我慢ならなかった。
自分は強い。今、飛虎の力を貰ったばかりではないか。
もう一度再会を約すると、李子は飛虎に背中を見せた。
「もう行くが良い、飛虎。そろそろ人が出歩く時間だ」
「はい、李子様」
背後で飛虎が跪く気配がした。
「忘れないで下さい。遠く離れた地にいても、飛虎はいつも李子様の友です」
泣いてしまうかと思った。飛虎が自分を友と呼んでくれたのが嬉しくて、飛虎の旅立ちが誇らしくて、それと同時に寂しくて、泣いてしまうかと思った。
窓の閉まる音がする。飛虎の気配が遠くなる。次に飛虎に会えるのはいつだろうか。飛虎のような漢は、他に二人といないだろう。飛虎は李子の世界なのだ。
こらえきれず、李子は振り返って窓を開け、声を限りに叫んだ。
「忘れるな、飛虎! 私はいつもお前と共にある! 離れていても、私たちは一緒だ!」
桜の花びらの中、ゆっくりと飛虎が振り返り、大きく右手を挙げた。
主にではない。あれは、友への再会の印だ。
飛虎の背中が小さくなっていく。淡い桜色に阻まれて、飛虎の背中が見えなくなっていく。
微かにけぶる飛虎の背中。李子はその背中に向かって、小さく泣いた。
飛虎の不在。それは、李子の子供時代への離別でもあった。
この後、最も王位に遠いと言われていた受王・李子は、二人の兄を凌いで王位に就く。
殷王朝第三十代皇帝・紂王。それが彼の諡である―――――。
広い饗応の間に、丹念に朱を塗られ、象眼を施された机が置かれている。机の上には贅をこらした食事の数々が、吟味されるのを今や遅しと待ち構えていた。
紂王は手を打って特上の酒の封を切らせると、自分の盃と、向かいに座る聞仲の盃にたっぷりと注がせた。
「……陛下、今日は何か折入った話があるとお聞きし、参上したのですが」
「うむ。だが、太師であり予の親代わりのようなそなたを招いたのだ。まずはその舌を満足させてもらおう」
机の上に盛られている料理は、なるほど紂王の心づくしなのだろう、肉気のない精進料理で占められていた。
「これでは陛下のお口に合わないのではありませんか?」
「客人の口に合わせるのが礼儀であろう。さぁ聞仲、予の料理人の腕前がどれほどのものか、その舌で確かめてくれ」
紂王は上機嫌のようだ。いきなりこのような饗応に招かれる覚えのない聞仲だったが、これも何かの趣向であろう。聞仲は恭しく礼をすると、せっかくの料理に箸を伸ばした。
紂王がわざわざ作らせただけのことはあって、どの料理も舌がとろけるような美味であった。 普段聞仲は食べる事には何の興味も持たない質であるが、これはさすがに唸らざるを得ない。
「どうだ、聞仲」
「臣はこのような食事を口にしたことはございません。誠、甘露と申せましょう。あまりのお心遣いに感謝いたします」
「そうか? いや、実は聞仲の好みに合わせようと思ったのだがな。兄上方も商容や比干達も、皆お前の好みを知らぬと言うので、正直苦労したのだ」
紂王の目が悪戯を仕掛ける子供のようにくるりと光った。
「どうやってこれらを揃えたと思う?」
「さぁ、臣には分かりかねますが……」
確かに、自分でも把握していない自分の食の好みを、何故紂王は的確に目の前に形にして見せたのだろうか。先ほどから、紂王の目は「自分に答えを訊いてくれ」と訴えている。その期待を無視する聞仲ではない。聞仲は降参して紂王に答えを求めた。
「うむ。実はこれらは皆、飛虎……いや、武成王の助言で作らせたのだ」
「……飛虎の……?」
わざわざ紂王が「武成王」と言い直したものを、聞仲が「飛虎」と呼んだことに、紂王はにやりと笑ってもう一度相づちを打った。
「そう、飛虎だ」
先日武成王になったばかりの幼馴染みを紂王が「飛虎」と呼ぶと、皆が一様に「武成王」と役職名で呼ぶように促した。最初のうちこそ「武成王」と呼ぶのを面白がっていた紂王だが、自分たちの関係の深さを思えば、そんな他人行儀な呼び方をするのが内心面白くはなかった。
聞仲も紂王に武成王と呼ぶように促す一人である。いつも紂王には武成王と呼べと言っているのに、自分ばっかり陰で飛虎と呼んでいる。これは不公平というのではないか?
「……陛下、ひょっとして今日のお話というのは……」
「武成王を飛虎と呼ばせろとか、そんなつまらない話ではないぞ。お前が公では武成王と呼び、私では飛虎と呼んでいるように、予も私では武成王を飛虎と呼ぶ。異存はないな?」
そんなつまらない話ではないと言いながら、紂王はやはりそこを根に持っているとしか思えない……。しかもこうきり出されてしまえば、聞仲だって否と言えるはずがないのだ。
さすがに「獅子の気風を持つ」紂王である。この聞仲相手にこうまで我を通す皇帝は、三百年を数えても少ない。
「まぁいい、話はそれではないのだ」
「は」
「だがもちろんこの話の流れだ。飛虎のことではあるぞ?」
分かっているだろう?と、紂王の目が嬉しそうだ。
「はい陛下、覚悟しております。一体何のお話でしょうか」
聞仲は、半ばは顔を引き締めて、だが半ばは楽しそうに笑顔を見せた。登極して以来聞仲も驚くほどの「皇帝ぶり」を披露し続けた紂王の、思いもかけぬ子供らしさを、聞仲はこの時ばかりは愛らしく思った。
「うむ。その前に聞仲。予は最近気づいたことがあるのだ」
「何でございましょう」
紂王は聞仲の顔を真っ直ぐ見つめると、ひどくまじめな顔をして頷いた。
「そなた、最近変わったな」
「は?」
「前はもっと張りつめて、ぴりぴりとしていた。予が今のようなことを言い出しても、笑って許すようなそなたではなかった筈だ。気づいていたか?」
自分が変わった? 聞仲は自問してみる。
自覚がないのかと問われれば、もちろんある。自分は確かに変わった。
……あの男の為に。
あの男が自分を、いや、人としての自分を高みへと導き、変えていったのだ。それは、「殷の太師」としてしか存在を認められずに来た自分にとって心地良い驚きであり、また、心地良い変化でもあった。
だが、それが人に指摘されるほどの変化だとは、正直思っていなかった。
聞仲がどう答えたものか思いあぐねていると、紂王はまた子供のような顔で笑った。
「心配するな。そなたの変化に気づいていいる奴など、かけらほども居るまい。予は幼い頃よりそなたを見、そしてまた飛虎を見ていた故気づいただけだ。まさか他の誰であっても、そなたが飛虎に懸想しているとは気づくまい」
「へ…陛下!?」
思わず聞仲は席を蹴って立ち上がった。うぶな娘のように顔を染め、口は酸素を求めるように言葉を探している。およそいつもの聞仲らしくない行為に、紂王は「食事中に席を立つものではないぞ」と、子供の頃に散々聞かされた説教をニヤニヤしながら口にする。聞仲は頭に血が上って冷静さを欠いているのだろう、おたおたとしながら席に座り直し、「失礼いたしました」と頭を下げた。
「そう狼狽えずとも良い。男同士に体の契りがないと思っているほど、予は不粋ではないつもりだ。そなたの耳には入らぬかもしれぬが、予の耳には案外そういった話も聞こえてくるのだぞ?」
「いえ、陛下、私と飛虎はそのような仲では……」
「そうだろうなぁ」
「…はっ…」
女にかけてはこの年でかなり達者な紂王だが、古代の中国においてさして珍しくもない衆道の道を、紂王は味わったことがなかった。だがそれを味わった事がないのは女を好んでいるからであって、男同士の感情の機微に鈍いからではない。事この点に於いて、紂王と聞仲とではどう考えても聞仲の方が数歩も劣っていて、劣っているというよりも聞仲など紂王から見れば初心者も初心者、赤子のようなものだった。
……面白い。面白いぞ、聞仲。よもやそなたがその年になって、こんな事で赤くなったり白くなったりするとは、予は思わなかったぞ。
紂王がニヤニヤするのも道理である。
だが、今日ここに聞仲を呼び出したのは、もちろん聞仲を肴に遊ぶつもりだったからではなく、厳重な注意を促すためである。
紂王がにやけた顔を引き締めて居ずまいを正すと、聞仲もそれに倣った。
「では、そろそろ本題に入るとしよう。聞仲よ、そなた、飛虎とは未だそのような関係ではないと言ったな?」
「は」
「いつまでこのような関係でいるつもりだ?」
聞仲は紂王の顔を怪訝そうに見つめた。今の台詞では、けしかけられているようにも、責められているようにも思える。紂王の意図が読めないが、それでも聞仲は、自分の正直な気持ちを打ち明けるべきだと判断した。
「私は、飛虎にこの気持ちを伝えるつもりはありません」
「ほう。飛虎が欲しいとは思わぬか?」
「飛虎が私を求めない限り、飛虎を求めるつもりはありません。彼を傷つけたくはないのです」
「その健気な想いがいつまで保ってくれるか、だな。飛虎は自分からお前を求めたりはしないだろう」
「分かっております」
聞仲は少しだけ唇を歪めた。だがその形は、決して自嘲に歪んではいなかった。そう、困った子供を笑顔で見つめるような、そんな形だ。
「……そなたがそのつもりでいてくれるなら、予は何も言うまい。予もそなたと同じように、飛虎を傷つけたくはないのだ」
「陛下?」
聞仲は少しそわそわと紂王を見つめた。その変化に気づいたのだろう、紂王は笑って聞仲の考え違いを正した。
「そうではない、聞仲。確かに予にとって飛虎は大切で特別だ。だが、予が飛虎を大切に思う気持ちと、そなたが飛虎を大切に思う気持ちは、全く種類が別なのだ。そう心配しなくても良い」
「いえ、そのような……」
「そうか? そのようなつもりはないとそなたは言うが、では予が飛虎と話をしていると、予を睨み付けておるのは何故だ?」
「睨み付ける? 私が、陛下を?」
聞仲は心底驚いたように紂王を見つめた。その顔に、今度は紂王が苦笑する。
「予がそなたの気持ちに気づいたのは、そもそもそなたが予を睨み付けていたからだ。いつもいつも、予が飛虎との会話を楽しんでいるときばかりな。初めはあまり飛虎が予と親しくすると、臣下の範疇から外れるとでも思っているのだろうと思ったが、どうやら睨まれているのは予の方だ。さすがに気づくだろう」
「これは…申し訳ありませんでした」
聞仲はひどく狼狽えて席を立った。叩頭でもして謝るつもりなのだろうが、紂王はそれを止めた。
「構わぬ。恋の道は人の意志ではどうにもならぬもの。そなたにもそのような気持ちが残っていたのかと、予は喜んでいるのだぞ」
「は……」
立ったままどうして良いのか困っている聞仲に、紂王は再び椅子を勧めた。しばらく逡巡した後、聞仲は再び頭を下げて椅子に腰を下ろした。
「そなたが好きになったのが飛虎であったことが、予には誇らしく思えるのだ。さすがに聞仲は目が高い。あの飛虎ならば、そなたが好きになってもおかしくはないだろう」
紂王は、まるで自分の手柄を披露するかのような顔をしていた。その顔を見て、聞仲は不思議に思った。
何故紂王はあのような目で飛虎の話をするのだろうか。だがその物思いは、紂王の台詞で打ち切られた。
「良いか聞仲。そなたが飛虎を愛するのは構わん。だが、飛虎の意志を無視して、飛虎を傷つけるような真似はしないでくれ。例え飛虎が天然道士と言っても、そなたの手に掛かれば為す術もないだろう。だがもしそれが飛虎の意志に反して行われたことなら、予はそなたを決して許さぬ故、そう覚えておくが良い」
「陛下、それは元より私の意志でございます」
聞仲の瞳は真剣で、そこに嘘はなかった。だが、それでも紂王は首を振った。
「恋の前では、人の意志など無力なものだ。もしもそなたが己の欲するままに行動しようとした時、必ず予の言葉を思い出すのだ。予はそなたの心に掛けがねを掛けておこう。そのために今日はそなたを呼んだのだ。良いな、聞仲。忘れるな」
「は」
聞仲は深く深く頭を下げた。紂王はその様子に満足そうに頷くと「さぁ太師、今日は思う存分食べてくれ」と更に食事を勧めた。
聞仲との会食を終え、紂王が廊下を歩いていると、向こうに飛虎の姿が見えた。飛虎は紂王に気づくと、すぐに一歩下って頭を下げた。
かつて、飛虎が紂王の、いや、李氏の友であった時、こうして自分の姿を見れば、必ず飛虎は笑顔で駆け寄ってくれた。
もちろん、今、飛虎がこうして「臣下の礼」を取るのは飛虎のせいではない。これは「臣下」として当然のことだ。二人はもう、なんの責任も持たずに済んだ子供ではないのだ。
第一、飛虎の「少年時代の友人」が自分であったことを誇りに思いこそすれ、飛虎の「今の親友」が自分でないことを責める程、紂王はもう子供ではないつもりだ。
そう、自分はもう子供ではない。飛虎の「親友」が自分ではなくなってしまったように、自分の「世界の全て」も飛虎ではなくなってしまったのだから。
少年時代の終焉。それは寂しいことだが、悲しむべきことではない。
紂王は飛虎の顔をゆっくりと見つめた。
胸に、何かがこみ上がる。
紂王はそれに気づかぬように、飛虎に声をかけた。
「飛虎、武成王の地位にはもう馴れたか?」
「いえ、なかなか堅苦しいことばかりで、肩が凝ります」
「飛虎にそんなことを言われると、予などはどうすれば良いのだ」
笑ってみせた紂王に、飛虎も笑顔を見せた。二人は互いに声に出さず、「楽しい事ばかりじゃないよね」と、子供の頃の笑顔で笑った。
「仕事が多くて大変だろう。飛虎は竹巻に向かうよりも、体を動かす方が昔から得意だった」
「えぇもう、こんな事なら武成王になどなるものではないなとぼやいていたら、親父にどやされました」
元々下がり気味の目を、さらに下げて飛虎が笑う。あんなに近しい親子関係を、羨ましく思っていた頃もあった。
「黄滾殿は西域に行くそうだな」
「えぇ。生涯武人を貫きたいようです。それに、目の前で俺の不慣れな武成王ぶりを見せられるのも、我慢ならんのでしょう」
「黄滾殿は立派な武成王であったからな。飛虎も、いや、武成王も先代を見習うのだぞ」
「はい」
「武成王」の呼びかけに、飛虎は叉手の礼をすると、深々と頭を下げた。
……何故だろう。胸が、痛む……。
紂王は「呼び止めてすまなかった。仕事に戻るが良い」と飛虎を下がらせ、彼が数歩離れてから、ゆっくりと振り返った。
飛虎の背中が小さくなっていく。昔から飛虎は紂王に比べてずっと大きな体をしていたが、旅から戻ってみると、さらに大きくなっていた。
人間としての器はどうだろう。まだ飛虎には時々子供っぽいところがあって、飛虎以上の重圧を背負っている自分の方が、少しは大きくなったのではないか、と、紂王は密かに自負している。
だがその自負は、決して愉快なものではなかった。
「もう、楽しいことばかりではないな、飛虎」
あの頃。王位から最も遠い王子として、李子は孤独な少年時代を送っていた。寂しい思いは沢山したが、それでも飛虎がいたから、楽しいことばかり思い出せるのだ。
自分は大人になった。きっと飛虎よりも早く、大人になってしまったのだ。
大人になったのと引き替えに、失った物は何だろう……。
飛虎の消えていった先を、紂王はいつまでも眺めていた。
きっと、それは考えてはいけないことだ。自分は皇帝であり、皇帝は人ではない。地上に降りた天帝の化身である自分は、たぶん誰よりも、そう三百年の時を生きた太師・聞仲よりも、人から遠いところに立たねばならぬのだ。
「……もう、楽しいことばかりでは、ないな……」
かつて飛虎を誰よりも近いと思っていた紂王は、今では孤高を貫く聞仲に近くなった。
不思議な巡り合わせで、最も王位に遠いと言われた自分が皇帝になったのは、きっと天帝がそうお命じになったからだ。ならば自分は完璧な皇帝でなくてはならない。聞仲が三百年の間、歴代皇帝の孤独を替わりに背負ってきたように、今この自分が皇帝となったからには、聞仲の孤独すら自分のこの背に背負わねばならない。それが、天命を受けた者の義務なのだ。
「聞仲よ。予の飛虎を好きになったお前に、予は運命的な物を感じるぞ。歴代皇帝は弱かった故、そなたは孤独だった。だが、予は強い。天帝に選ばれた程に。そなたが重荷を降ろせるようにと、天帝は予を皇帝に決められたのだ。それ故そなたは予の飛虎を好きになり、飛虎はそなたを選んだ。これは天が定めたことなのだ。だから、予は喜んで飛虎をそなたに譲ってやろう」
目を閉じれば、今も桜の花の中、右手を挙げる飛虎が見える。その飛虎が、桜に霞んで見えなくなっていく。
あれは、幸せだった日の自分の姿なのかもしれない。
紂王は廊の柱に手をかけて、瞼の裏に立つ飛虎を、在りし日の自分を、懐かしむようにずっと見つめていた。
――――――紂王の孤独を癒し、そして彼を更に人より遠いところへ連れ去ってしまう狐が現れるのは、これからずっと先の話――――――
宜しければ忌憚のないご意見をお聞かせ下さい。
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