お正月



 新しい年というのは何度迎えても気持ちの良いものだ。それこそもう数え切れないほどの新年を迎えている聞仲だが、それでも年が改まる時の、水を打ち直したような雰囲気は特別な物だった。

 正月のこの日、臣下はいつも通り日の出と共に廟堂に集まり、陛下から新年の訓辞を賜る。その後は銘々が屋敷に戻って、新しい年の始まりをそれぞれの家に伝わる伝統に従って過ごすのだ。後宮に女子を入れている家などは今頃奔走しているのだろうが、だがそういった騒がしさと太師府は無縁だった。

 少しでも時間があるのなら、禁中にほど近い場所に敷かれた私邸に戻ってはどうかと毎年言われるのだが、それでも聞仲は毎年、新年を太師府で迎えることにしていた。一つには数少ないとはいえ、私邸で働く家人達に休日を与えてやりたいためと、別の一つは人のいなくなった太師府の、ひんやりとした雰囲気が気に入っているためである。

 大分夜も更けてきた。明日からはまたいつも通りの日常が始まる。一年の中でただ一日のこの特別な日を、聞仲は花を眺めるように愛でていたかった。
 耳が痛む程の静けさの中、聞仲は例年通り、紂王から特別に賜る酒の封を切って、そっと小さな盃に流し込んだ。いつからそういう風習になったのか、その年最初の酒が奉納されると、代々の皇帝はまず一瓶、国親である聞仲に捧げることになっていた。普段は忙しくて酒など口に含むことのない聞仲だから、その酒は毎年こうして、一人静かに新年に頂くことにしている。

 その時。

「聞仲、いるか?」
 聞き慣れた飛虎の声が、意外と静かな足音と共に現れた。
「何だ、飛虎。一族の主たるお前が、新年の儀のただ中にこのような場所に来て」
「このような場所って、太師府だろ。第一、黄家の主は親父だっつぅの」
 そう言って悪戯っ子のように笑うと、飛虎は聞仲の前にどかりと胡座をかいた。

「また一人酒か?」
「またとは失礼な。お前にやれるような酒ではないぞ」
「別に酒なら屋敷でも死ぬほど飲まされてきたからいらないんだけどさ」
 なら何だ、と言いたげな聞仲を横目で見ながら、今度は小さく、飛虎は少しはにかんだような笑みを浮かべた。

「あのさ、聞仲。今日、正月だよな?」
「うむ。お年玉でも欲しいのか?」
「何でだよ!」
「では何の用だ?」

 聞仲は居ずまいを正し、敢えて冷たい物言いをした。
 そうしないと、目の前にある飛虎の愛らしい笑顔が。
 一日酒を呑まされたためにか、微かに崩れた着物の袷が。
 聞仲は小さな溜め息をついて頭を振ると、もう一度襟を正して飛虎を横目で見た。

「何の用って…正月だから、その……」
 口の中で呟くと、飛虎は意を決したように膝だけで聞仲の隣りに進んで、そっとその膝を聞仲の脚にぶつけた。

「正月の夜にすること、あるだろ……?」
「正月の夜にすること?」

 飛虎が何を言っているのか、聞仲には考える余裕がなかった。飛虎がなにやらもじもじとし、膝頭をぶつけてきたのだ、そんなことを考える余裕がある方がおかしい。触れた膝からじんわりと、飛虎の体温が伝わるではないか。
 待て、聞仲。お前も殷の太師。正月から淫らな感情になど振り回されてどうするのだ。お前はこの清冽な空気を愛していたのではないのか?

 横に視線を動かすと、飛虎の物言いたげな瞳とぶつかった。飛虎よ、お前は今何という目で私を見ているのか分かっているのか!

「酔っているな、飛虎」
「あぁ、少しな…」

 微かに染まった頬が、今の聞仲には匂い立つほど艶めいてえた。しまった、久しぶりの酒が効いたか? 飛虎がそんな目で私を見るわけがないだろう? いつだって馴らされたばかりの情事に酔う自分を恥じらって、出来るだけ体の交わりがないようにと気をつけている飛虎が。

 そっと、飛虎の手が聞仲の腕を掴んだ。小さな子供が何かをねだっているように、その手が小さく聞仲の腕を揺らす。だが揺らしているのは聞仲の腕ではなく、正月初っぱなから妙にその気になっている、聞仲の逸る気持ちその物だった。

 もうだめだ! このままでは何をするか分らんぞ!

 いつまでもそっぽを向いている聞仲にじれた飛虎が口を開くのと、我慢の頂点まで来てしまった聞仲が口を開くのは、ほぼ同時だった。

「聞仲、ひめはじめって…」
「新年というのは落ち着いて迎えるものだ! なんだそのそわそわとした様子は。用がないならさっさと帰りなさい!」

 思ったよりきつい口調になってしまった。そう思って飛虎を見ると、なんだか涙目になっているような……。

「…飛虎?」

 飛虎はいきなり立ち上がると、震える肩をくるりと翻し、真っ赤になって叫んだ。
「……そんなに一人が好きなら、一生一人でいやがれ!」

 飛虎がすごい勢いで駆け出ていってしまって、どのくらい時間が経ってからだろうか。呆然と事の成り行きを頭の中で整理していると、聞仲の耳の底に微かに引っかかった、先ほどの言葉が甦ってきた。

「ひめはじめ…? ひめはじめって、姫……あ!」

 気がついた時には後の祭り、それが一生に一度しか味わえないであろう飛虎からの「お誘い」だったと気がついた時には、もう飛虎は遠く手の届かない所に行ってしまった後だった……。



 手の届かない所に行ってしまったのが飛虎の本体だけでないことは、すぐ翌日にも気がついた。
 飛虎の視線、飛虎の声、飛虎の笑顔が戻ってくるのに、それから一ヶ月を要したが、その後一生かかっても飛虎の「お誘いc」だけは戻ってこなかったということを、最後に一言添えておこう。



めでたくもありめでたくもなし



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