く ち び る


  聞仲の唇は薄い。すっきりと引き締められたその唇は、陶器のように冷たかった。いつでも固く閉ざされた唇は、しかし自分の名を呼ぶときだけ柔らかく開いた。聞仲は柔らかく、本当に柔らかく自分の名を呼んだ。低く、澄んだその声で
「飛虎」と。

 黄飛虎はその声を聞くのが好きだった。低く、美しい声で自分の名前を呼ばれるのが好きだった。
 無骨な武人である黄飛虎だが、聞仲が自分を呼ぶ時にだけ、特別にその唇を柔らかくすることに気づかぬほど鈍くはなかった。その事実は、黄飛虎をいくらでも喜ばせた。
 聞仲は子供の頃の自分にとって、強く美しい憧れだった。長じて親友となった今、つい聞仲の意外な子供らしさにつられて世話を焼いてしまうが、それでも、外見上は自分より遙かに若い、しかし確実に自分より十倍の長さを生きている殷の太師を、今でも特別に思っていることに変わりはない。

「飛虎」と聞仲が自分を呼ぶ。

「飛虎」と、柔らかな声で、柔らかな唇が。

 いつまでも、聞仲が自分を「飛虎」と呼ぶと思っていた。
 いつまでも、柔らかなその声で、柔らかなその唇が。



 黄飛虎の唇は薄い。口はやや大きめで、その口を少し開けると、大きな牙が覗いた。声は低く少ししゃがれているが、深みのある心地良い声をしていた。
 よく笑いよく怒鳴る口は、よく動く。
 若い頃から、黄飛虎の口元には笑い皺が刻まれていた。その笑い皺を見るのが、聞仲は好きだった。

 黄飛虎が自分を「太師」から「聞仲」と呼ぶようになったのは何時からだったろうか。小さかった手はいつの間にか聞仲の手よりも大きくなった。それにつれて大きくなっていった黄飛虎の態度が、聞仲にはとても好ましかった。

 今まで自分は殷の太師として、また、王家の教育係として、尊敬と、それと同じだけの畏怖を一身に集めてきた。そんな自分の肩を大きな手で叩き、弟か、あるいは彼の子供のようにでも接する黄飛虎が、聞仲は好きだった。

 そう、聞仲は黄飛虎が好きだった。自分が代々王家の人間に注いできた愛情とは違う愛情を、黄飛虎には感じていた。

 黄飛虎にはいつも笑っていてほしかった。大きく口を開けて、大きな牙を覗かせて、大きな声で笑っていてほしかった
 そんな黄飛虎の笑顔をいつまでも見ていられると思っていた。たとえ黄飛虎が年を取ってただの老人となっても、自分は変わらずに彼を好きでいるだろう。三人の子供に囲まれて(もう一人息子が仙人界にいるが、仙人は親子の情すら絶つものだ)、大きな口で笑っている飛虎を、いつまでも見ているだろうと。
 そして、たとえ黄飛虎が自分を置いて逝ってしまっても、自分の心の中にはいつまでも、黄飛虎の笑顔が残るだろう。
 大きく口を開けて、大きな牙を覗かせて、頬には笑い皺を刻んで笑う、黄飛虎の笑顔が。

 それ以外の姿を目にするとは思っていなかった。黄飛虎が自分に笑顔以外の顔を見せるなどと。
 聞仲は目を閉じ、瞳の奥に黄飛虎の姿を映した。今そこに移る飛虎の唇は、固く閉ざされている。

 閉ざされたその唇が、聞仲への心すら、固く閉ざしていることを示していた……。



 薄闇の中に、くっきりとシルエットが浮かんだ。その影を見るまでもなく、黄飛虎はそこに聞仲が立っていること知っていた。
 聞仲。殷の太師。殷を捨てた自分は、聞仲をも捨てたことになるのだろうか。

「太公望よ、何故姫昌をたてて殷を滅ぼそうとする?おまえも所詮妲己と同じだ! 仙道の力をもって人間界を支配しようとしている!!」

 聞仲が、今や黄飛虎の仲間であり、軍師である太公望を非難している。
 そう、自分は太公望の仲間であり、ここに立つ以上、聞仲の敵なのだ。
 いつの時でも、黄飛虎は聞仲と並んで立っていた。自分は聞仲の片腕であり、聞仲もまた、自分の代え難き片腕であった。

 今、聞仲は遠く離れた荒野に立っている。

 自分は聞仲の敵なのだ。互いが互いの片腕であると、一瞬たりと疑ったことのない男の、自分は敵となったのだ。
 聞仲と自分との間に広がるその距離が、それを厳然と示していた。

「では何故殷を滅ぼす必要がある!? 妲己一人を倒せば事は済むではないか!!」

 薄く形の良い唇が、黄飛虎の好きだったその唇が、奇妙に、初めて見る形に開き、初めて聞く激しい声をたてている。

「フッ… これから殷がよくなれば万事解決だ! 妲己を倒してな!!」

 それでも、聞仲の唇はやはり美しかった。怒りのためかいつもより赤味の濃いその唇は、悲しくなるほど美しかった……。



 「遅くはない!! 殷は何度でも甦る!!」

 太公望とお互いの主張を交した後、これ以上の問答は無用と禁鞭を手にした時、太公望を撃つ筈だった禁鞭を受けたのは黄飛虎だった。
体全体で彼は太公望を庇っていた。聞仲よりも悠に十寸は上背があるその大きな体で、大きく太い腕を伸ばして太公望を庇うその全身が、自分を拒んでいた。

「聞仲…確かに妲己に操られていようと陛下が陛下であることに変わりはねぇ。だからって何してもいいのかよ!?」

 黄飛虎の大きな口が叫んだ。

「腐った国を守るよりもっと大切なものがあるってわかんねぇのかっ!!」

 自分にとって、決して聞き逃せないような言葉を口にしていても、それでも黄飛虎の口から覗く牙は、聞仲が最も好ましいと思っているそれだった。

「来いよ! おまえも!!」

 しかし、聞仲には黄飛虎が自分に向かって伸ばした腕も、もう自分を誘うために伸ばされたものとは思われなかった……。

 額が割れ、くすんだ赤い血が顎を伝い胸元を汚している。強い瞳が聞仲を射抜くために見開かれていた。
 黄飛虎は太公望を庇い、太公望は黄飛虎を支えている。彼らの周りには多くの仲間が、今の黄飛虎の仲間が取り巻いている。

 もう、自分だけを見ていた黄飛虎はいないのだ。

 そして自分もまた、黄飛虎の幸せだけを願っていた自分には戻れないのだ。

 禁鞭を持つ腕が震えた。しかし聞仲は、しっかりとその宝貝を持ち直し、自分にとって最も愛しく大切な――後にも先にも、これほどの愛しさを自分に与えるものはいないであろう黄飛虎に向かって禁鞭をふるった。

 その瞬間、何か叫んだような気がした。

 だが心が喩えようもない音を立てて軋んでいたので、自分が何を叫んだのかさえ、聞仲には聞き取れなかった―――。

 気がつくと、黄飛虎達は荒野の上に横たわっていた。先に気づいた者たちの話を合わせると、太公望が巨大な竜巻を起こし、自分たちを守ったという。

 皆がショックから立ち直れずにいた。今更らながらに聞仲の力が身に染み、修行のためと仙人界に帰った者すらいる。
 自分たちを守るために功夫を使い果たした太公望はまだ目覚めない。
 ざわざわと、西岐の王城にさざ波のような動揺が走っていた。

 黄飛虎だけが何かに取り残されていた。
 心の中に、何か大きな穴があいてしまったような、そんな虚しさを覚えていた。

 あの時聞仲は「裏切り者」と言った。自分に向かって「裏切り者」、と。
 聞仲は自分にとって何という存在なのだろうか。このような状況にあって、まだ自分は聞仲を諦められずにいるのだろうか。自分が聞仲を裏切り、彼の敵になったということが未だに冗談のようにしか感じられない。

 自分から望んで殷を出てきた訳ではないというのは、間違いなく嘘だ。もしも黄家が殷王朝に忠誠を誓っていなければ、黄飛虎はもっと早くに、何の抵抗もなく西岐に移ったろう。

 だが聞仲のことは……。そう、聞仲のことだけが黄飛虎の気がかりだったのだ。

 聞仲は、自分の離反を「裏切り」と取った。
 いや、聞仲は自分の離反の真相を、正しく知っているだろう。聞仲ならば分かってくれる筈だと信じていた。それは、自分の甘えだったのか。
だがそうだとするのなら、聞仲が自分たちにとどめを刺さなかったのは何故だろう。

「駄目だな、自分に都合の良いことばかり考えちまう……」
「何か言ったさ? 親父?」
 いつの間に側まで来ていたのか、次男の天化が(こんな事でもなければ戻ってくる筈もなかった、仙人界にいた息子だ)自分の顔を覗き込んでいた。

「ああ、すまん、ちょっとぼーっとしてた」
 自分の気持ちを見透かしているかのような目で、天化が肩を竦ませた。

「親父も複雑だろうけどさ、」
 煙草をくわえなおしながら、天化はまっすぐな瞳で自分を見上げている。
「でも聞太師は殷の太師で、親父は西岐の『開国』武成王さ」
「ああ、分かってる」
 天化の煙草を奪うように口にくわえてみる。久しぶりに吸った煙草は苦く、喉にからみつくようだった。

「大丈夫さ」
「……何がだ?」
 天化が不思議な色を帯びた目で自分を見ていた。

「大丈夫さ。聞太師は親父のこと、ちゃんと分かってるって」
「何言って……」

 言いかけた言葉を、黄飛虎は飲み込んだ。きっと天化には自分の気持ちが分かっている。強がる必要はないのだ。
 それにその言葉は他でもなく、今黄飛虎が一番聞きたかった言葉。

 聞仲は、自分のことをちゃんと分かっている。自分の立場も、自分の、聞仲に対する気持ちも。

「……そう思うか……?」
「ああ」
 くわえていた煙草を天化の口に戻してやり、大きく二回、天化の頭を叩いた。

「親父、師叔の目が醒めるまでに、元に戻るさ」
「ああ」

 暫く会わないでいる間に、天化はどの息子とも違う男になっていた。こんなにも、自分の息子に力づけられるとは。

 ……だが、聞仲は?

 聞仲は自分を失ったことをどう思っているのか。「裏切り者」と言ったその言葉は、自分を失った悲しみを表していると、そう自惚れてもよいのだろうか。
 だとしたら、その悲しみを少しでも和らげられる人間を、黄飛虎は自分の他に知らない。

 黄飛虎が知らないということは、そんな人間は存在しないということだ。

「聞仲……」
 自分と聞仲は、敵と味方になったのだ。もう、心ない人間が聞仲を無意識に傷つけても、聞仲の肩を抱いてやることはできない。
 だが今、聞仲を傷つけているのが、他ならぬこの自分だとは。

「聞仲……」
 聞仲のあの陶器のような唇は、もう憎しみを抜きにして、自分の名を呼ばぬのだろうか。

「聞仲……」
 それでも自分は、こうしなければならなかったのだ。
 聞仲の唇。薄くてすっきりと引き締まった、陶器のような唇。黄飛虎は、本当にその唇が好きだった。一度だけ触れたことのある唇。

―――――一度だけ、交えたことのある唇―――――

 次に会った時が、きっと自分たちのどちらかが死ぬ時だろう。それは最初から決められたことであるかのように、はっきりと目の前に横たわる事実だった。

 せめて、次にまみえる時まで生きていられるように。
 決して自分たちを、自分たち以外の者が殺めないように。

 それが、最も誠実な自分たちの姿だろう。

 せめて……、
 せめて、あの唇を裏切らないように。

 あの唇を。

――――一度だけ交えたことのある、
          あの唇を――――



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