響姫さんにお嫁に行った小説
暗 闇
目を開けると辺りはもう暗闇に包まれていた。空に月も無く、自分が目を開けているのか閉じているのか分からぬほどの闇。風も無い空が、濡れたような暗黒を流し込んでくる。
「暑いな…」
額に手を当てると、じっとりと濡れている。いつからここで眠っているのだろうか。
ゆらりと闇が動いた。黒一色の視界に影が浮かぶ。
「……飛虎か……?」
聞仲はその影に向かって目を凝らした。飛虎以外の人間がここにいるはずがない。もし飛虎でない人間がいれば、その存在の違和感に気がつかぬ筈がない。
「飛虎…何をしている?」
「寝てろ、聞仲」
暗闇から手が伸びて、聞仲の額に触れた。冷たい。背筋に震えが走り、聞仲は小さく身じろいた。その頭を大きな飛虎の手が支え、ゆっくりと枕へ降ろす。
「飛虎、暗いな。お前の顔が見えない…」
「あぁ、そりゃ貧血だ。寝てりゃ治る」
「貧血…?」
「いや、今は確かに夜だけどよ。今日ずっとふらふらしてたからたぶん貧血だろうって、張奎も言ってたぜ」
「莫迦な…。私はそんなにヤワではないぞ」
「あー、過労だろ、過労。ほら、汗拭いてやるから寝てろよ」
飛虎は無造作に聞仲の単―――いつの間にか単に着替えさせられていたらしい―――の袷を寛げ、乾いたタオルで胸元を拭った。
いつからここにいたのだろうか。単に替えてくれたのは飛虎だろうか。……ずっとここに居てくれたのだろうか……。
「飛虎…」
「ん?」
いつも通りに優しい飛虎の声。年下だというのに、何故こんなに自分を安心させるのだろう。
「私は病気ではない。たぶん暑気当たりだろう。そう心配してくれなくても良い」
「お前が暑気当たりなんかするって時点でもう過労なんだよ。ほら」
「飛虎」
「何だ?」
汗を拭いてくれる冷たく乾いた手を、聞仲は軽く押さえた。
「どうせ優しくしてくれるなら、もっと別のことで優しくして欲しいのものだがな」
「他のこと? 何だ? サービスしろって?」
「……そうだ」
聞仲はそこまで言って口を閉ざした。即座にうち消されると思った言葉に飛虎が応えてしまったので、どう返して良いのか分からなくなったのだ。明かりが無くて良かった。頬がひどく火照っている。
「サービスって、例えば?」
だが飛虎は聞仲の沈黙を許さなかった、自分の台詞の意味さえ分かっていなかった聞仲は、その言葉に息を呑み、乾いた唇を舐めた。
「……例えば……、そうだな……」
飛虎の気配がする。馴染んだ気配だ。自分のすぐ脇に飛虎が手をついているらしい。この腕に何をさせてみたいのか……?
「…そうだな。じゃあ服でも脱いでもらおうか」
「おいおい、裸で看病しろって?」
呆れたような飛虎の声に、聞仲は首をすくませた。だが幸いなことに辺りは暗闇に包まれ、飛虎の呆れた顔を見ることも、自分の朱らんだ怯え顔を見られることもない。
「しょうがねぇなぁ」
苦笑を含んだ声。そうだ、この暗闇も音をふさぐ手だてではない。聞仲は自分の心臓の音が飛虎に聞こえるのではないかと、そのことを畏れた。
その時。
サラリ。シャリ。
微かな音。何の音だ? 聞仲は目を凝らしたが、当然その目には何も映らなかった。
サラ。サラリ。シャラ……。
「飛虎…? 何をしている?」
「何って、お前が脱げって言ったんだろうが」
まだ途中だけどよ、と断った飛虎を、聞仲は信じられない思いで探した。すぐ脇に立っている筈だ。本当に飛虎が自ら服を脱いでいるのか? いつも聞仲が脱がせようとすれば、必ず怒って手を振り払うくせに。
「飛虎…?」
いきなり手を掴まれた。その手をどこかに導かれる。聞仲はまるでこの状況を掴めずにいた。何をされているのだ?
その手のひらに、しっとりとした肌を感じた。なめらかな、だが確かな存在感を持つ肌。飛虎の胸に手を合わせているということに気がつくまで、暫くの時間を要した。
「飛虎…」
呼んでも返事はなかった。手のひらに残る肌の存在以外、そこには何もなかった。
「飛虎!」
聞仲は不意に、本当はそこに誰もいないのではないかと恐ろしくなった。飛虎の肌。本当に……?
「飛虎、居るんだろう?」
「当たり前だろ」
即座に答えが返ってきたことに聞仲は一瞬安堵したが、だがすぐにまた不安になった。飛虎がこんな事を、する筈がない。飛虎は本当にここに居るのか? 本当に……?
「明かりをつけてくれ」
「断る」
「飛虎!」
「俺だってお前のご希望に添うように、これでも必死なんだぜ。これ以上恥ずかしい真似をさせるのは、いくら何でも俺が可哀相だと思わないのか?」
「だが飛虎、お前が見えない」
「そうそう見られても困るんだよ」
聞仲は指の先に力を込めた。肌は弾力をもって、聞仲の指を受け止める。飛虎の肌。本当に?
「飛虎…」
「もっと脱ぐのか?」
聞仲はここに飛虎が居ることを確かめたくて手を更に伸ばし、飛虎の肩を捉えて、首に手を回した。
「!」
首を引き寄せるより先に、唇に唇を感じた。飛虎の唇。本当に……?
「飛虎…」
その唇は無言で聞仲の唇をついばみ、舌でそっと唇の形をなぞった。
飛虎からキスをされたのは、初めてのことだった。そう、いつも仕掛けるのは聞仲で、飛虎はそんな時必ず逃れようとした。だが、この唇は確かに飛虎の唇だ。飛虎が私にキスをしている。信じられない気持ちと信じたい気持ちが、瞬時に聞仲を捕らえた。
「飛虎…!」
聞仲は体をねじって飛虎の体を己の体の下に敷いた。飛虎の息を呑む音が辺りに響く。
聞仲は目を凝らした。胸を合わせている筈の飛虎の姿が見えない。そこには一段と濃い闇が広がっているばかりだ。
「おい、聞仲…?」
「そこにいるのだな?」
「何だよ、触ってるくせに」
飛虎の指が唇に触れた。太く、少しささくれ立った指。そっと聞仲の唇をなぞり、優しく頬を撫でる。
聞仲はその手をきつく握りしめた。手首の節が太い。飛虎の手だ。
押さえつけるように頭を抱きしめる。長い髪に腕を刺す無精髭の痛み。飛虎の髪。飛虎の頬。飛虎の唇。飛虎の首筋。
聞仲は己の怯えを打ち消すように、その一つ一つをきつく握りしめ、唇で辿り、歯型をつけた。
「おい聞仲、お前そんなに具合良くないんだから、大概にしとけって」
指の関節が痛むほど、きつく抱きしめている聞仲の手を、飛虎が優しくほぐした。
「ほら、ちゃんと俺、ここに居るだろう?」
「飛虎…」
そっと背中に腕が回される。飛虎の太く堅い腕。大きな手のひらの感触。ゆっくりと足を絡め、お互いの体を手で探りあう。
飛虎の足首。飛虎の膝頭。飛虎の尖った腰骨。飛虎の肘の内側の小さな窪み。
「飛虎、灯りをつけてくれ」
「駄目だって。灯りなんてつけたら恥ずかしくて、こんな事できねぇからな、俺」
「だが…」
「お前が元の体に戻ったら、すぐに見えるようになるって。血が足りねぇからいけないんだぜ。働き過ぎるとそうやって損するんだ。肝に銘じとくんだな」
「まともに働いた褒美がこれだというのなら、随分な話だとは思わんか?」
聞仲の頭がそっと飛虎の胸元に抱き寄せられた。
「太師殿には手加減ってもんを覚えてもらわねぇとな」
「手加減? 私がそんな事をできないということは、よく知っているだろう?」
言うなり聞仲は飛虎の胸に舌を這わせた。飛虎が口の中で小さく叫び声を上げる。飛虎の突起を探し当て、クチクチと音が出るほど舐め上げた。
頭の芯が痺れている。せっかく飛虎の体を思う様まさぐっているというのにどこか夢心地で、聞仲はこれが現実であることを確かめたくて、執拗に飛虎の胸を口に含んだ。
「ほら聞仲、そんなにしてるとどんどん具合悪くなるぞ」
「心配してくるなら、灯りをつけてくれても良いだろう?」
「恥ずかしーんだよ!」
大きな声を出して誤魔化そうとしているが、飛虎の声は微かに上擦っている。感じているのだと思うと、聞仲はいきなりこの行為に現実じみた興奮を覚えた。
「飛虎」
「たんまたんま、ちょっと待てって!」
顔を上げた聞仲を、飛虎は押さえつけて布団に押しつけた。
「お前は具合悪いんだから、それ以上無茶すんなって!」
「ではこのままで終われと言うのか!?」
叫んだ声は思いの外切実で、二人の間に沈黙が走った。多分、飛虎の顔も自分に劣らず、朱らんでいるに違いない。
「……だから、別に終われとか言ってねぇじゃん」
消え入りそうなほど小さな声が聞こえたかと思うと、聞仲の下腹は、温かく、湿った感触に包まれた。
「…飛虎…?」
柔らかな、じれったいような圧迫感。
「飛虎、何を…。やめないか!」
聞仲は狼狽えた。飛虎が自分をくわえ込んでいる。こんな事を飛虎がするなんてどうかしている……!
「飛虎、何を考えている…!」
「…あのなぁ」
ゆっくりと飛虎は聞仲を吐き出し、呆れたような声を出した。
「いつも俺がやめろっつってもやるのはどなたさんでしたかねぇ…?」
「そんなことを言っても飛虎、いつも嫌がっているのに何故今日に限ってやるのだ!」
「…いつも嫌がってるって、やられんのが恥ずかしくて嫌がってるんであって、しゃぶるのは初めてですが?」
「だから何故そんな事を……!!」
飛虎の答えはなかった。替わりに、また暖かい飛虎の口にすっぽりとくわえられ、聞仲は思わず目を閉じた。
「したくてしている訳ではないのだろう……?」
返事はない。
決して巧いとは言えないその行為が、聞仲を余計昂ぶらせた。普段は決してこんな事をしないのだ。例え私が頼んだとしても、こんな事をする男ではないのだ。そんな思いがぐるぐると頭の中を渦巻いている。聞仲の息が湿り気を帯びてきた。……飛虎が私のために、そう思うとすぐにも昇りつめてしまいそうだ。
「……こんなモンでいいのか?」
飛虎がそっと顔を上げたとき、聞仲はお預けを喰らったように情けない声を漏らした。
「飛虎…?」
「何だよ! 俺お前みたいに、その…の、呑んだりとかはさすがに出来ねぇぞ!」
羞恥の混じった声。聞仲は下腹を疼かせながらも、今飛虎がどんな顔をしているのか想像して、小さく笑った。
「笑うな!」
「すまない。ただ、嬉しくて……」
「こんな事2度としねぇからな! お前が具合悪いっつーのにあんな事しようとするから、特別にやってるんだぞ!」
「分かっている」
中途半端に投げ出されたままだというのに、聞仲は満足そうに息をついた。何という日だろう。相変わらず辺りは暗闇に包まれたままだというのに。まだ頭の芯はぼんやりと霞んでいるというのに。だが、体に残るこの生々しい感覚は、確かにこれが現実だと告げている。
現実?
そう、現実であるからこそ、この行為は夢のようだった。
想いに身を沈めていると、肩に飛虎の手が触れた。額に息がかかる。目を凝らしても何も見えない闇の中に、だが確かに飛虎がいる。
その飛虎が、太く大きな息をついた。
「飛虎?」
そっと、未だ脈打つ聞仲自身に、飛虎の手が添わされる。
「飛虎? …何を?」
「くそ…よく分からねぇな……」
太腿の上に、飛虎の足が触れる。
ゆっくりと、呑み込まれていく……。
飛虎が自ら腰を落としている……? 私を迎え入れるために……? まさか…。
だがこの甘い息づかい。時々そこはひくつく様に痙攣を起こしながら、収縮をくり返した。
「飛虎…お前……」
「ん…動くなバカ!」
肩に置かれた手が震えていた。聞仲に完全のにしかかるように体重を預けながら、飛虎は緩慢に体を揺すった。時々一カ所を聞仲にすりつけ、自らを抉っては切ない喘ぎ声を漏らしている。
……本気なのだ……。
本気で飛虎は、私のために体を開いている……。
どくん、と、心臓がひどく大きな音を立てた。その度に、飛虎は小さく突き刺すような息を漏らす。
「聞ちゅ…、動くなって…っく……!」
気がつくと、手足が勝手に飛虎を押し倒していた。結ばれたままの体が、軋むような痛みを聞仲に与えた。だがそんな事は些細な事だ。聞仲は飛虎の体を組み敷いて、深く、体の奥底まで刺し貫いた。
「や…よせ、聞仲!」
「今更……!」
飛虎の匂い。飛虎の声。飛虎の汗に濡れた体の感触。
聞仲は体中で飛虎を感じようと、その体を貪った。
小刻みな、悲鳴とも喘ぎとも取れる声が飛虎の口をついて出る。それと共に耳に入る自分の息づかいが、まるで獣のようだ。
「ふっ、んん……、聞仲……!」
飛虎が聞仲の背に爪を立てる。それを痛いと感じる余裕はもはや無く、代わりにそれを堪らなく愛しいと感じた。
「飛虎……」
「聞ちゅ…、あぁ…っ」
その瞬間、暗闇の中に白い輪郭が飛び込んできた。
仰け反った喉。飛び散った髪、そして、快楽をこらえようと歪められた顔。
「……飛虎!」
叫び声と共に、聞仲は飛虎の奥深くに己の想いを叩きつけた。
「辺りが見える……」
「頭に血が昇ったんだろ」
また布団の中に押し戻された聞仲は、さっさと身繕いをしてしまった飛虎に、また看病の続きをされる羽目になった。
「ならもう私が安静にしている必要はないのでは……?」
「過労なのは変わんねぇだろ。ったく、無茶ばっかしやがって」
「……その無茶のおかげで目が見えるようになったのなら……」
良いではないかと言いかけて、聞仲は口を閉じた。……飛虎がすごい形相で睨んでいる……。
「……反省してんのかよ」
「すまない……」
目が見えないでいる間の飛虎は、本当に優しかったのに(サービス満点、とも言う……)、辺りを認識できるようになった途端にこれだ。
「言っとくけどな、聞仲」
タオルを絞りながら、飛虎は怒ったように口を開いた。冷たいタオルの感触が、火照った額に気持ち良い。
「もう2度と! 絶対に!! あんな事はしないからな、俺!!」
「あんな事というのは自分から服を脱いで私をしゃぶり、のしかかって体を重ねたことか?」
さらりと言ってのけると、飛虎は瞬時に赤くなって、それから額のタオルを聞仲の顔にぐいぐいと押しつけた。
「く、苦しいぞ、飛虎!」
「うるせぇ!! どの顔がそういう事いいやがるんだ!!! これか!! この顔か!!!!!」
「分かった、飛虎! もう言わないからやめてくれ!!」
天然道士に力一杯そんな事をされては、歯が全滅して鼻が折れるだろう……。やっと力を抜いた飛虎は、忌々しげにタオルを畳み直し、聞仲の額に叩きつけた。
「せっかく俺が看病してやったって言うのに、恩を徒で返しやがって!」
「……そうそう徒でもなかっただろう……?」
飛虎が恐ろしい顔で睨む。
……そんなに恥ずかしかったのなら、もっと普通に恥ずかしがれば良いものを……。
「何か言ったか!?」
「……いいや、なにも……」
しっかりと上掛けをかけ直しながら、聞仲は飛虎の様子をそっと窺った。怒りのためか羞恥のためか、首筋まで赤く染めている風情が何とも言えずに愛らしい。
……早くまた具合を悪くしなければ。あんな飛虎を味わえるのなら、多少の貧血くらい安いものだ……。
本気で心配してくれている飛虎に悪いとは思いながら、それでも聞仲は心の中で小さくこぼした。
多分今日という日は、天帝が与えてくれた息抜きの一日なのだ。このくらいの心がけの悪さは大目に見て欲しい。
もう一度、こちらを睨みつける飛虎と目があった。神妙そうに、だが少しだけ嬉しそうに聞仲が微笑むと、一瞬眉をしかめた飛虎は、それでもすぐに口元だけで小さく笑った。
そう、あの暗闇は、きっと天帝のくれた暗闇。
幸せな恋人のための、特別な暗闇。
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