記 念 日
さっきから背中が重い。背中合わせで書き物をしているはずの飛虎が、どうやらもたれかかっているらしい。だるいのだろう、かなりぐったりとしている。
「飛虎、大丈夫なのか?」
「おー…」
「部屋で寝ていたらどうだ?」
「別に病気じゃねーからいい……」
確かに病気ではない。病気ではないからこそ聞仲は飛虎が心配なのだ。
「飛虎よ、本当に大丈夫なのか?」
「んなに心配してくれるなら、なんで昨日あんなひどい事したんだよ」
「いやそれは…」
昨日の夜の話だ。昨日。それは飛虎と初めて結ばれた夜から一年目の、記念すべき日だ。ここまで言えば、何故飛虎がぐったりしているのかすぐに分かるだろう。
そう、聞仲は「記念H」と息巻いて、あんな事やこんな事、そんな事までやってしまったのだ。
飛虎もそう嫌がっているようではなかった。さすがにあんな所をそんな事しようとしたときは「やり過ぎだ、バカ!」と蹴られたりもしたが、そこはこれ、押しの一手で何とかやり遂げちゃったりして、でも飛虎だって色っぽい顔で「……バカやロー!」などと恥ずかしがる程度で結構乗り気だったように見えた。
などとつらつらと思い返している間にも、背中にのしかかる飛虎はどんどん重みを増していく。
「飛虎、やはり部屋に戻った方が良い」
「大丈夫だって」
「飛虎…!」
少し大きな声を出すと、背中の気配が少し戸惑った。
「飛虎、行くぞ!」
畳みかけるように飛虎の腕を力一杯握って立ち上がらせると、飛虎はそんなに抵抗もせずに、大人しく聞仲に従った。
二人で並んで歩いていると、武成王府の人間達が飛虎に声をかけてくる。声をかけられると、それがどんな下っ端相手でも、飛虎は気軽に挨拶を返した。
飛虎は部下を「部下」として見ていない。一人一人の部下達が、飛虎にとっては大切な「仲間」だ。理想的なことではあるが、自分はそんな事をするつもりは全く無い。
聞仲は飛虎と違って人間に興味がないし、自分の部下には部下以外の価値を見いだせずにいる。飛虎が羨ましいようにも思えるし、やはりまだ若いのだなとも思う。
「飛虎、具合が良くないのだ。そういちいち付き合っていては体が持たぬぞ」
「別に平気だって」
部下が立ち去ってしまうと、平気だと言いながら、飛虎はしんどそうに溜息をついた。
「平気そうには見えないぞ」
「だからそう思ってくれるなら……」
「昨日のことを今言っても仕方あるまい。第一飛虎だってそう嫌そうには見えなかったぞ」
澄まして答えると、飛虎はすぐに赤くなった。赤くなって俯いてしまったところを、聞仲は内心微笑んで、飛虎の手を引いた。
辺りには誰もいなかった。先ほどまで武成王府の人間がうるさかったというのに、少し場所を外れたせいだろうか。手を引かれて歩くのを、飛虎は嫌がらなかった。俯いて、怒ったように顔を朱らめながら、それでも大人しく聞仲に手を引かれていた。
辺りはまだ明るく、残暑が厳しかった。日がきついせいか、周りの木々が光っているようで美しい。
美しい?
聞仲は辺りを眺めた。景色が美しいなどと感じたのは、一体いつ以来だろうか。右手に包まれた飛虎の手のひらが、この景色を美しくさせているのだ。
聞仲がうっとりと浸っているその時。
「武成王!」
遠くで叫ぶ3人の兵士の姿を見つけ、いきなり飛虎は聞仲の手を振りきった。
「あ、お前ら、あの後どうなった!?」
三人が走り寄ってくる。
聞仲の気分はぶち壊しである。こいつらせっかく私と飛虎が良いムードだったのに、すごく珍しく良いムードだったのに、それをぶち壊すとはどういう了見だ!!
だが三人(いや飛虎を入れて4人)は、そんな聞仲の気持ちなどにはお構いなしで下世話な話に花を咲かせている。
どうやら中の一人が女に振られたらしい。よくもまぁあんな下っ端共のプライバシーまでいちいち把握しているものだ。
つまらない思いで見つめている聞仲の前で、飛虎は振られたらしい男の肩に、大きな手をかけた。
「お前の良さが分からねぇ女なんか、こっちから振ってやれよ。お前みたいな好い男はそういねぇのに、見る目のねぇ女だ。な?」
飛虎は優しく微笑んだ。その笑顔に、男も少し笑おうとしたらしく小さく頬を歪めてから、急に顔をくしゃくしゃにした。
「……俺、武成王にそんな風に言ってもらうと、なんか……」
「何だ何だ、こんな事くらいで泣く奴があるか」
飛虎は男の背に手を回し、抱き込むようにして背を撫でながら、自分のマントで男の涙を拭ってやった。
聞仲は後頭部を思いきりハンマーででも殴られたような気がした。
何だ飛虎!! 私の前でそれは一体何の真似だ!!!
「飛虎!」
今まですっかり存在を忘れていたらしい聞仲に怒鳴られて、飛虎はびっくりしたように、そして少しバツが悪そうに聞仲を振り返った。
聞仲は今自分がどんな顔をしているのかまるで分からなかったが、嫉妬に歪んですごい顔をしているのには違いない。ひょっとしたら額の豎眼も開いているかもしれない。
「お前達、武成王は今日少し体調を崩しているのだ。悪いが話の続きは明日にしてもらおう」
「え!? す、すいませんでした、武成王!」
「いや、別に大したことねぇから…、おい聞仲!」
「行くぞ、飛虎」
「悪い、又な!」
恐縮して小さくなっている三人に、しきりと手だけで拝んで謝りながら、飛虎は聞仲に引きずられるように連れ去られていった。
「…何もあんな言い方しなくたって……」
太師府の聞仲の私室に連れ込まれ、飛虎は寝台の上に放り投げられた。聞仲は少し怒っているらしく、返事もしないで飛虎のマントを脱がし、上着をてきぱきと剥いでいった。
タンクトップとズボンだけになった飛虎に、聞仲は上掛けを投げて横になるよう、顎で示す。
「…聞仲、なぁったら……、何怒ってんだよ……」
聞仲はそれでも口をきかずに、寝台の脇にある机の上に書類を広げ、乱暴に座った。
飛虎はふと思い当たって、聞仲に尋ねてみた。
「……なぁ聞仲、ひょっとして、妬いてるのか……?」
「誰に妬くというのだ」
やっと口をきいた聞仲に、飛虎は少し嬉しそうに笑った。
「何だその顔は」
飛虎の笑顔をどうとったのか、聞仲は更に顔をしかめて飛虎を睨んだ。
「別に。なぁ聞仲、やっぱり俺、かなりだるいみたいだ」
「だから私が言っただろう!」
「うん。だから聞仲、冷たい物が飲みてぇな」
「酒と言うつもりではないだろうな?」
「まさか。冷たい水が飲みてぇ」
飛虎はまだ笑ったままで、聞仲に甘えて見せた。聞仲はしばらく飛虎を睨んでいたが、勿論こういう勝負に聞仲が勝てる訳ないのだ。
「今持ってこよう」
「おー」
聞仲が席を立って扉を閉めると同時に、飛虎は今度こそ辛そうに息を吐いた。
「あー…、マジでかったりー……」
聞仲が氷を浮かべた水を運んできた時、飛虎はぐっすりと眠りについていた。眉間には皺が寄っている。天然道士であるといっても、やはり相当無理をしていたらしい。
先ほどの飛虎を思い出す。私としたことが、あんな名も無いような兵士にまで嫉妬するとは……。だが聞仲は、飛虎のこととなると見境のつかなくなる自分を、それほど嫌ってはいなかった。
「……全く、飛虎ときたら……」
すっかり眠り込んでいる飛虎を前に、聞仲は水をどうしたものか少し悩み、口移しでそれを含ませてみた。
「ん……」
小さく小さくうめいて、飛虎はそれを飲み下した。
唇には、嬉しそうな笑みが上っていた。
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