風の強い日
風の強い日だった。黄飛虎は目に入った砂に苦心しながら、城壁の上から外を眺めていた。
もうじき、聞仲が帰ってくる。
そう思えば、目に入った砂くらいはなんでもないことだった。
聞仲に聞いてもらいた事があるのだ。どうしても、まず聞仲に伝えたいことが。聞仲はどんな顔をするだろうか。いつもの端正な顔を緩ませて、笑ってくれるだろうか。
マントが風に乗ってなびいた。目を閉じてくしゃくしゃになった髪を押さえた途端、肩に手が触れた。
「どうした飛虎。目に砂でも入ったか?」
あまりにも涼しい声。飛虎は痛む目をしかめながら、それでも何とか目を開けて、肩に乗る手の主を見た。
「あぁ聞仲、風が強いな」
「うむ。中にいれば良いものを」
「お前に話があったんだ」
右目を抑えようとした飛虎の手を、聞仲は咎めるように掴んだ。
「目に傷がつく。見せてみろ」
飛虎は素直に腰をかがめた。
風が飛虎のマントを聞仲の元に運ぶ。思いがけず、聞仲は飛虎のマントに包まれた。
聞仲が長い指で飛虎の目を少し開いて中を確かめるのを、飛虎はさせるままにしていた。もう片方の手が耳を覆うようにして顔を固定するのがくすぐったい。
「どうだ?」
「あぁ。多分これだろう。もう少しかがんでくれ」
言われるままに背をかがめた飛虎の視界いっぱいに、聞仲の顔が映った。焦点が合わぬほどその顔が大きくなった時、飛虎は右目に温かく湿った物を感じた。
「聞仲?」
瞳を舐められているのだと気付いた時、飛虎は背筋に何かが走ったような気がした。照れくさいような、くすぐったいような、少し怖いような、それでいてどこか懐かしいような……。
「どうだ、飛虎」
「あ?」
聞仲の声に、飛虎は我に返った。目の前に、聞仲の顔がある。美しく整った、白磁の顔。
飛虎は少し呆けたように目をしばたかせてから、右目の痛みが去ったことを知った。
「あぁ、取れたみたいだ」
「そうか」
聞仲は頷いて轉車の上に手を置くと、遠くを眺めた。
風が強い。
今この城壁の上にいるのは、飛虎と聞仲ばかりだった。
「飛虎、話とは?」
出し抜けに振り向いて聞仲が飛虎を見上げた。
その台詞に、やっと飛虎は自分が何のためにここで聞仲を待っていたのかを思い出した。
「あぁ、聞仲、聞いてくれ」
飛虎は笑顔で聞仲に向き直った。聞仲はこれを聞いたら、ぜんたいどんな顔をするだろうか。
「結婚することになったんだ。相手はあの賈家の娘だ。ちょっと俺には勿体ないくらいだけど……聞仲?」
聞仲のマントの襟を風が運び、飛虎の視界から聞仲の顔を消し去った。
「あぁ…」
聞仲は細く長い指で髪をかきあげると、ゆっくりと飛虎に向かった。
「風が強いな、飛虎。中に入ろう」
「えっと…聞こえてたか?」
反応の鈍い聞仲に、飛虎は恐る恐る訊ねた。
風が聞仲のマントをたなびかせる。飛虎の目に、聞仲は遠い異境の神のように見えた。
「無論だ、飛虎」
風が収まるのを待って、聞仲は微笑んだ。
「中に入って祝いの酒を飲まなければ」
透き通るような聞仲の微笑みに、飛虎は安心して相好を崩した。
「おめぇに一番に伝えたくってさ。ずっと待ってたんだ」
「あぁ」
「聞仲にだけは、その、何て言うか、個人的に話を通しときたくてさ」
「そうか」
「あぁ、だって」
飛虎は砂まじりのつむじ風を足元に絡ませて、照れたように笑った。
「お前は俺の、親友だからさ」
風が強かった。黄色い砂が辺りに漂っている。
聞仲は小さく「そうだな」と呟いた。
「あぁ、飛虎。風が強いな……」
「おう、早く下に降りようぜ」
聞仲の笑顔に安心して、飛虎は足早に階段へと向かった。聞仲は、だがその場に立ったまま、風に舞う髪を指先で押さえていた。
「聞仲?」
マントを、襟を、美しい髪をなびかせて、聞仲はただ遠くを見つめている。
飛虎の目に、やはり聞仲は遠い異境の森に眠る、美しい神のように見えた。その姿に、飛虎は声をかけることを躊躇って、少しの間見蕩れた。
この男が自分の親友であることを、飛虎は心から誇りに思った。この男が祝ってくれる自分たちの未来は、きっと明るく希望に満ちたものであるのに違いない。
飛虎は嬉しくなって、聞仲に声をかけた。
「聞仲! 早く下で呑もうぜ」
「あぁ、今行く、飛虎」
ゆっくりと聞仲は飛虎に近づいた。口元にはどこか玻璃細工めいた微笑を浮かべていた。
城壁の上に小さな竜巻が起こり、そして消えた。
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