犬マニア

 目が醒めると、飛虎の手はフサフサしていた。本来手首から先の、太くなっていなければいけないはずの手のひらが、二の腕とさほど変わらない太さで伸びている。何だろう、このフサフサ。しかも、肉球までついている。
 ぷにぷに。
 押してみると、その肉球はぷにぷにとして気持ち良く、ぷにぷにというその感触が面白くて、飛虎は何度もぷにぷにしてみた。
 ぷにぷに。ぷに。ぷにぷに。
 肉球をぷにぷにと押すたびに、背後でぱさぱさと音がする。
 ぷにぷに。
 ぱさぱさ。
 ぷにぷに。
 ぱさぱさ。
 その時、部屋の扉がゆっくりと開いて、驚き顔の聞仲と目が合った。
「あ、聞仲! 見ろよこれ!」
「……見ろよこれって……。飛虎か……?」
「何だよ、見りゃわかるだろ」
「……分からんから訊いているのだ」
 ぱさ。
 背後でまた音がする。先ほどのように小気味良いリズムではなく、頼りなげな音だ。
「見ただけで分からない……?」
 その頼りなげな音に合わせて、飛虎も頼りなげに聞仲を見上げた。頷く聞仲の顔まで頼りない。
 飛虎は「頼りなげな聞仲」などという、史上初めて見る珍しいものに遭遇してしまったせいも手伝って、どんどん頼りなげな顔をして自分の肉球を見つめ、もう一度聞仲を見上げた。
「……飛虎よ。自分の肉球を押すような奴が、武成王・黄飛虎だと思うと思うか?」
「……俺もこの肉球については少しおかしいような気がしてたんだ。 そうか、やっぱり肉球はおかしいよな」
「うむ。それにその三角に尖った耳も、フサフサとしたしっぽも、飛 虎が持っているにしてはおかしな物だろう」
「へ?」
 飛虎は慌てて頭の上に手をやった。確かに、そこにはふしゃふしゃした手触りの、三角形の物がある。それから恐る恐る後ろを振り返ると、茶がかったベージュ色の、フサフサとしたしっぽが……。
「……聞仲、これ、なんだ……?」
「……私の方がそれを今訊こうと思っていたのだが……」
 二人は互いに目を見交わしてから、慌てて飛虎の体に他にも異変が無いかを調べた。
 調べたところ、とりあえず異常は頭上に生えた三角形の耳、本来あるべき所に生えているはずの人間の耳の消失(これは何となく、なるほどなと納得したのだが)、大きなしっぽ、手と足の先っちょが犬のそれになっている、というだけのようだった。(いや、これだけ異常があれば十分なのだが……)
「それにしても……」
 聞仲は「調べるためだ、仕方がないだろう!」と乱れさせた単衣から覗く飛虎の胸元や、まだ人間の形を残している太股、しょげたようにうなだれたしっぽや微かに震えている耳を見ながら、口元をニヤニヤと、失礼、厳しくしかめさせ、「一体何が原因でそんな事になったのか」と、至って当たり前の疑問を口にした。
「んなの、俺が訊きてぇよ。だいたいこんな妖怪じみた格好、俺ん方の責任じゃないぞ、絶対」
「ではどこの責任だというのだ」
「お前か、妲己か、とにかく仙道関係だろ?」
「私はこんな事はしていないぞ>」
 慌ててお互いに責任を押しつけ合う。そんな事をするより、もっと建設的な議論がありそうな気もするのだが、とりあえず二人ともパニクっているのでそんな事は考えられないようだ。
 その時。
「そう、それは聞仲君の責任ではないよ!」
 窓の外からラーラーラーという華麗な音楽と共に、一人の男が現れた。見たこともない派手な男の出現に、飛虎は「誰だお前?」と叫び、聞仲は「趙公明! 何をしに来た?」と叫ぶ。
 趙公明? 何だ、聞仲の知り合いか?
「やぁ聞仲君、久しぶりだね。どうだい? 僕からのプレゼント は?」
「プレゼントだと? 趙公明、貴様の仕業か>」
「おやおや聞仲君、穏やかじゃないね。君へのプレゼントだと言った ろう?」
 間に挟まれた飛虎は、狐にでも抓まれた気分だ。どうやら自分はこの男のせいで、こんな訳の分からない姿になってしまったらしい。
  聞仲の知り合いである、この男のために。
「僕は君への友情から敢えて飛虎君をこの様な姿にしてみたのさ。 どうだい、聞仲君? 君だってこの飛虎君の姿が可愛らしいと思っ ているんだろう?」
「それとこれとは話が別だ>」
「おや、聞仲君。では、可愛くないと?」
 聞仲はちらりと飛虎を見た。飛虎も聞仲を見上げている。頼りなげにしっぽが下を向き、ゆらゆらと揺れている姿が堪らなく愛らしい。
 聞仲は一瞬我を失いかけたが、寸でのところで趙公明の存在を思い出した。
「と、とにかく! この姿では人前に出すわけにもいかないだろう> どうすれば治るのだ?」
「それはとっても簡単で、かつ甘美なことさ、聞仲君」
 趙公明は満面に艶やかな笑みを浮かべた。その笑顔に、聞仲は厭な予感を覚える。
 すっと一本、趙公明は百合の花を持ち出すと、飛虎の胸元に突きつけ、そっと円を描いてみせた。
「聞仲君へのプレゼントと言ったろう? 聞仲君がたっぷりと飛虎君 を満足させてあげれば、自然と元の姿に戻るよ」
たっぷりと満足させてあげる?
 聞仲と飛虎は、間抜け面で見つめ合った。
 満足って満足って、あの満足……?
「はっはっはっはっは! お礼はまた今度で良いからね、聞仲君!」
 その声に二人がはっと正気に戻った頃にはもう遅く、趙公明は強烈な高笑いと共に、外に待機していたのであろう巨大な女型飛行艇(いや多分、マドンナ)に飛び乗ると、空高くへと消えてしまった。
 後には目を点にした聞仲と、悲しそうに耳をやや下向きに倒し、しっぽを完全に垂らしてしまった飛虎が、寝室に二人っきりでとり残された……。



「……どうすんだよ、聞仲」
「うむ…」
 二人はちょこんと寝台の上に座り込み、困ったように、手持ちぶさたな様子で、しかし決してお互いに目を合わせないようにして、今後の対策を練っていた。
 今後の対策と言っても、趙公明の言ったことが本当なら二人のやることは一つである。
「仕方ない、飛虎」
「やっ、やだぜ、俺!」
 まだ何も言う前からこの反応。飛虎もやる気満々のようだ。では遠慮なく、と聞仲が手を伸ばす。
「って、ど〜してそ〜いう事になる> 俺は嫌だって言ってるんだ ぞ!」
 飛虎が慌てて聞仲の手を振り払う。
 耳は思いっきり後ろに向き、しっぽがぶんぶん揺れている。
「しかし飛虎だってこうしてしっぽを振って喜んでいるではないか」
「ばかやろー! 犬ってのは怒ってたってしっぽ振るものなんだぞ!」
 ふーふーと唸りながら、飛虎が上の牙を見せる。なるほど、どうやら飛虎は完璧に犬になってしまったようだ。
「ここでそういう事をするのって、思いっきりあの男の思うツボだろ うがよ! お前悔しくないのか?」
「ではこのままで良いというのか>」
「ぐっ」
 飛虎は言葉に詰まった。良いのかと言われれば、もちろん良い訳はないのだ。
 その固まってしまったところを、聞仲がもちろん見逃す筈がない。
「飛虎>」
「どぁ>」
 飛虎は寝台に押し倒され、勢い余って天蓋の柱に頭をしこたまぶつけた。目から火花が飛び散る。
「ったたたた……」
 後頭部をさすっていると、がら空きになった胸に聞仲の手が忍び寄った。
「うわっ何すんだっ! 駄目だって聞仲>」
 耳がぴるぴると震えている。
「可愛いっ! 可愛いぞ、飛虎> 誘っているのか?」
「んなわけねぇって……きゃん!」
 口をついて出る叫び声が、犬が助けを求める声になっている。飛虎は必死で叫んでいるつもりなのだろうが、どうやら聞仲には逆効果のようだ。
「きゃんだと……? また私を歓ばそうとして……飛虎!」
「違うって違うってど〜してそうなるんだ >」
 もう何を言っても無駄である。
 飛虎の抵抗も何のその、やめろと言っても聞仲の勢いが止まるわけもなく、聞仲はアレよアレよと言う間に、そう、おっぱじめてしまったのだった……。

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 聞仲の指がゆっくりと飛虎の顎のラインをなぞる。まだヒゲの手入れをしていないのにいつもより無精ヒゲが少ないのは、やはり犬化していることの影響だろうか。口の中に指を入れてみる。大きな牙が触れる。一瞬舌がいつも教えれているように聞仲の指を包み込もうとしたが、この状況を思い直したのだろう、いきなり前歯が聞仲の指に噛みついた。
「っつ、飛虎、指が千切れたらどうする」
「千切ってやろうと思ったんだよ……!」
 何のかんの言って、飛虎の声は弾んでいた。嫌がって抵抗など見せてはいるが、この弾んだ息が感じている証だ。
 いや、今日は弾んだ息や朱らんだ顔ばかりが証拠ではないぞ。
「飛虎」
「んだよ…、やめろよ聞仲……だいたいこんな朝っぱらから……」
「しっぽが振れてるぞ」
「!」
 飛虎は慌てて後ろを振り返り、己のしっぽがフサフサと揺れているのを確かめると、赤面しながら「だから怒っても振るんだって、さっき言ったろ!」と言い返した。
「飛虎、確かに犬は怒ってもしっぽを振るが、その時は耳を後ろに向け、上牙を見せ、鼻に皺を寄せて唸るものだ。第一、しっぽの振り方も違う。もし今お前が怒っているというのなら、もっとしっぽをぴんと伸ばして警戒するように振るだろう。だがお前のこのしっぽの振り方と来たら……」
 聞仲は最後まで続けることが出来なかった。顔面に鋭い一発をお見舞いされたのだ。
「何をするか、飛虎!」
「うるせ〜! いい気になって喋りやがって> しっぽが揺れるのなん て、ただの生理現象だ!」
「ではこれが勃つのと同じことか?」
 聞仲は先ほどからのキスだけで、思い詰めたように天を向いている飛虎の下半身に手を伸ばした。
「何しやがんだ! やめろバカ! 触んなー>」
 飛虎の怒りの何という可愛らしさ。確かに耳が後ろを向き、鼻面に皺が寄っている。
 だがしっぽは……。
「なるほど。こんな素晴らしいアンテナがあるとは思わなかった」
 聞仲は意地悪く笑うと、飛虎を自分の膝の上に座らせた。
「うわわっ」
 飛虎の背を胸に受け、大きく膝を割ると、聞仲はゆっくりと飛虎の胸をまさぐった。
「やめろよ聞仲…、第一今日の朝議はどうすんだよ……!」
「どうするもこうするも、お前のこの姿ではどうにも出来ないだろ う」
「そ、そりゃ俺が出れねぇの分かってるけど、そうじゃなくて、お前 が出ないとまずいだろ!」
「私は今日、偏頭痛だ」
「太師が仮病使って……きゃん!」
 胸の突起をきつくつまみ上げると、飛虎は痛みのためか……感じているのか、大きな声で叫んだ。
「やめろよ聞仲……朝っぱらからぁ……>」
 飛虎のしっぽが盛大に揺れている。そのふわふわとした感触が下腹を打ち、ひどくくすぐったい。
「こら飛虎。嫌がってるつもりなら、少しくらいそのしっぽをやめた らどうだ」
「そんなこと言ったって……きゅぅうん」
 鼻にかかった声。耳がぴんぴんと動いている。試みに下半身へと手を伸ばすと、もうそこはトロトロに溶けていた。
「ほう…」
 その蜜を指先で掬い取り、後ろに擦り付ける。そこは聞仲の指をきつくくわえ込み、やや上に生えているしっぽも軋みそうな勢いで揺れていた。
「これは少し窮屈か、飛虎……?」
 顔をのぞき込むと、飛虎は目に涙を溜めて、そっと首を横に振った。
「も…何でも良ーからやめろって>」
 しっぽに刺激され、聞仲の下腹も熱く昂ぶっている。このしっぽの刺激がいいんだか悪いんだか、あんまり興奮してしまって聞仲にも判別が難しい。しかしこんなしっぽごときに下半身を刺激されるのも何となく癪なので、聞仲は飛虎の体をくるりと一八〇度回転させ、お互いに向き合う形で飛虎を膝に乗せた。
 目と目が合うせいか、飛虎は恥ずかしそうに目を伏せた。だが、例え目を伏せていても、ぴるぴる動く耳が聞仲を微笑ましい気分にさせる。
 もっとぴるぴるさせてみたい。そう思って、聞仲はまた飛虎の後ろに手を忍ばせた。
 ぴくり。
 飛虎の耳が動き、それと同時に、手が聞仲の胸を押さえた。
 ぷにぷにとした肉球の感触……。自由を得たしっぽは盛大に唸っている。
 これは、微笑ましいどころの騒ぎではないぞ……。聞仲は指を二本、三本と増やしてみた。
「ひゅあん」
 こらえようとしても漏れてしまった声に慌てて、飛虎は自分の口を押さえた。だが、両手が聞仲から離れしまうと支えがないので辛いのだろう、飛虎は聞仲の肩口に額をすりつけてきた。
「きゅうぅん、くぅう……」
 鳴き声をあげる度に、飛虎の柔らかな耳が聞仲の首にぶつかり、フワフワと撫でていく。しっぽを見れば、思わず飛んでいってやしまわないかと心配になるほどの勢いだ。
「飛虎? ここだけでそんなに良いか?」
「な、何言って……きゅあん!」
「ここだけでそうまで良いと言うなら、ここなどどうだ?」
「きゃん>」
 聞仲が前に手を這わせると、飛虎はそれだけで達ってしまった。
「……飛虎……」
 驚いたのは聞仲の方だ。まさか飛虎がこんなに簡単に達くなんて……。
「てめ…聞仲…」
 涙ぐんだ瞳。悔しそうな口元。はぁはぁと漏らす息まで愛おしい。
「そんなに良かったのか?」
 聞仲がそっと唇を舐めながら尋ねると、飛虎は即座に「ふざけんな!」と怒鳴り返してきた。
 飛虎の目元が朱らんで、壮絶なまでに艶っぽい。どうやら、耳が生えたりしっぽが生えたりするという、この異常なシチュエーションに興奮しているのは、自分ばかりではないらしい……。
「……そういうことなら飛虎」
「何がそういうことだよ>」
 聞仲は素早く飛虎を四つん這いに這わせた。獣のスタイルだ。飛虎の顔が更に朱味を増す。
「せっかくだ、飛虎。この状況を心ゆくまで楽しむとしよう」
 四つん這いの飛虎に聞仲が覆い被さる。初めてのスタイルに、飛虎はいつもと違うよがり声を上げた。
「やめ…や、聞仲> なんか…これ、イヤだ……やだって言っ…ん、 聞仲…きゅあん…っ>」
 ぐいぐいとのしかかってくる聞仲の腹に押されて、飛虎のしっぽは少し窮屈そうだ。そうか、犬同士と違って、私が背中を抱きしめているからかと思うと、聞仲はおかしくなって小さく笑った。三角の耳やしっぽを生やし、獣のように交わっていても、やはり飛虎は人間なのだ。そんな当たり前のことが、今の聞仲には何だかおかしかった。
「はぁっはぁっ、はっ…はぁ…っ、んっ、聞仲、聞仲、やだって、これ、や だ…んっ」
 聞仲の思惑など知らぬげに、飛虎は切ない息を上げ続けている。
 自分の手足で体を支えるという安定感の無さが不安にさせるのだろう。飛虎は何度も何度も「こんなのはイヤだ」と言い続けた。もちろん聞仲がそんな飛虎の訴えを聞き遂げるはずもない。なおも聞仲が挑み続けると、とうとう飛虎の腕は崩れ落ち、肘までぺったりと寝台に倒れ込んでしまった。
「やだ、聞仲…やだ、や…ん、やめろって……あ、あぁっ!」
 しっぽがゆらゆらと揺れている。先ほどまでの勢いはなく、ゆるゆると、何かを訴えているような揺れ方だ。そのしっぽが頼りなく聞仲の腹をくすぐる。終わりが近づいているのか、と思うと、聞仲も自分がかなり登りつめいていることに、今更ながら気がついた。
「飛虎、出すぞ? いいな?」
「ん、聞仲…、は、あぁ…!」
 その瞬間、今までぴくぴくと動かしていた耳も、窮屈そうに、だが思い詰めたように激しく動かしいてたしっぽも、まるで時間が止まったかのように動きを止めた。その静けさの中、それだけが生存の証であるかのように、細く、長く、震える飛虎の声が辺りに響いた。

[   [   [

 ぐったりと伸びている飛虎を愛しげに撫でてやると、飛虎のしっぽはゆっくりと、気持ち良さげにぱたぱたと揺れた。あんなに恥じらいを見せていても、やはり情事の後の微睡みは格別のようだ。
 ん?
 しっぽが揺れている?
「飛虎、お前、ちっとも治っていないではないか」
「え?」
 気怠げに飛虎が自分の体を見回すと、確かに未だ健在なしっぽや肉球が目に入る。
 飛虎はうんざりして溜息をついた。
「……あの男、嘘ついたんじゃねぇの?」
「いや、あぁ見えて、趙公明は嘘をつくような男ではなかったはず だ。……ひょっとして、お前の満足が足りなかったか……?」
 聞仲の冷静な声に、飛虎はぎくりと身を竦ませた。冷静な声だろうと何だろうと、聞仲がやる時はやるということを、飛虎は体で知っている……。
「ぶ、聞仲? やだぜ、俺>」
「遠慮をするな、飛虎。やはり馴れない後背位などでやったのが良くなかったのかもしれんな」
「後背位とか言うな! 第一すごい疲れたから、もう絶対嫌だか らな>」
「やはりお前が心から満足するとなると、いつもの正常位の方が良 いのか?」
「だから人の話を聞け >」
 聞仲が人の話など聞く男ではない、というのはもう今更なのだが、それでも飛虎は必死に抵抗など試みた。だが馴れない姿勢を取らされたためか、それともあの男の術がかかっているためか、飛虎は常の力が出せるほど、体調が完全ではなかった。
 勿論、聞仲がそんな飛虎を自分の良いように考えない訳がない。
「飛虎、何だかんだと言っても、すっかりやる気だな?」
「違うって! バカ、止めろ>」
「可愛い奴だ、飛虎>」
「うわ ん、本当にやめれ >」

 ……朝歌の空に、虚しい悲鳴がこだまして、消えた……。

[   [   [

 卓の前に、飛虎がぶすくれて座っている。少し遅い朝食にも手をつけず、聞仲から目を反らし、先ほどからずっとそっぽを向いている。やはり相当おかんむりのようだ。
「飛虎よ、あれで治ったのだから、そう怒らずとも良いではないか」
「……」
「飛虎、口ぐらいきいてくれても良いだろう?」
 聞仲が飛虎と朝っぱらからHなんて物をしまくったのは、飛虎のしっぽや耳、肉球を取り除く為なのだ。どう考えてもそれだけが理由ではないだろう、などというのはつれない勘ぐりというもので、聞仲は飛虎のためにあんな事やこんな事をしたのだ。
 飛虎から見たらまた別の意見もあろうし、「本当にお前の言ってることは一〇〇%真実か?」と言われれば少し自信のない聞仲だが、それでもこんな風におあずけよろしく無視されては立場がないではないか。
「飛虎…」
 ちょっと可哀相な声を上げて、聞仲が飛虎の手を握ったその時。
「やぁ飛虎君! 立派な人間に戻ったようだね>」
「ちょ……趙公明!」
「出たな、派手男!」
 いつの間に入ってきたのか、趙公明がまたあの奇妙な(いや、豪華な)音楽とともに二人の後ろに立っていた。
「どうやって入ってきた!」
「って言うかお前、今まで覗いてたのか?」
「あぁ、二人とも、どうか一斉に違うことを喋るのはやめてくれた まえ。それにしても、二人のラブラブぶりには驚かされるばかり だよ」
 大げさに頭に手をやり、軽く振るその気障な様子に、二人は思わず「誰のためにあんなことしたと思ってるんだ!」と異口同音に叫んだ。
「はっはっはっ。僕のリクエスト通り、一斉に同じことを喋ろうという のだね?」
「そうじゃねぇだろう!」
 人の話を聞かないのは仙道の決まり事なのか、趙公明は二人の話を全く聞かずに、飛虎の顎を掬い上げた。
「何しやがる!」
「見事だよ、聞仲君。何もHでなくても人間に戻すことは出来たと いうのに、敢えてHを敢行した君は本当にトレビア〜ンだ」
 ……Hでなくても……?
 聞仲は飛虎の顎にかかっている趙公明の腕を払い落とし、喉元を締め上げるように掴みかかった。
「今何と言った、趙公明……?」
「あぁ聞仲君、怖い顔をするのはやめたまえ。最初に言ったはずだ よ? 飛虎君を満足させれば、と」
 目が点になっている聞仲をからかうように見つめてから、まるでそうは見えないが実はすっかり脱力してしまった聞仲の腕を外すと、趙公明は自分の衿や胸元を軽く払った。
「僕は満足させろ、とは言ったけれど、何もHをしろとは言っていな いよ。飛虎君の大好きな剣術の稽古で思いっきり汗をかいて満足 させても、人間には戻れたのにね。あぁ、それでもHしてしまう聞 仲君の情熱には、完敗だよ」
 趙公明はそれだけ言うと満足したのか、「それでは二人とも、これからも幸せにやりたまえ! アデュー!」と言うなり、また鋭い高笑いを後に残し、空の彼方に消えてしまった。
「何という奴だ、趙公明め……!」
 消えていった上空を見上げて聞仲が一人ごちていると、肩にずっしりと飛虎の手のひらの重みが加わった。その重みが、肩の上でギリギリと増していく。
 聞仲は顔だけは涼しげであるものの、背中にはイヤな汗をかきながら、そっと後ろを振り返った。
 ……案の定、そこには目の据わった飛虎がいる……。
「……飛虎……?」
「……剣術の稽古でもするか、聞仲……」
「いや、もうお前は人間に戻れたわけだし……」
「なぁに遠慮するな、聞仲……。おっと、宝貝はなしだぜ…?」
 飛虎の目元が昏い……。
 ……これは、マジだ……。
「いや、飛虎! 今日は朝議もさぼったことだし、早く仕事に戻ら ないと……>」
「聞仲…」
「私もお前も、やりかけの仕事があったろう? そろそろ片づけて しまわないと……!」
「ぶ・ん・ちゅ・う……?」
「……いや、あの……」
 有無を言わさず掴んだ肩を引きずって、中庭に聞仲を連れ出す飛虎のもう片方の手には、真剣が二本握られている。
 そんなこと言ったって、私がそんな術をお前にかけたわけではないぞ、私だって趙公明の被害者じゃないか、などという哀願は軽くシカトである。これは剣術の稽古(この場合、これが稽古というのかは甚だ疑問の残るところではあるが……)をしたぐらいでは、飛虎の機嫌は直らないだろう……。

 聞仲は、自分の方にこそしっぽと耳がついているのではないかと思った。


 ひどくうなだれた耳と、足の間、腹に付きそうな程しょぼくれた、可哀相なしっぽが 。     



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