穏やかな世界
天井ではゆったりとファンが回っている。穏やかな日だ。ここはいつでも暖かい。
黄飛虎は窓枠に手をかけ、外の風景を眺めていた。
おかしな風景だと思う。
なだらかに続く轍の間に、ぽっかりといくつもの駅が浮かんでいる。
小さな世界。
自分もまた、この世界を作る1つの要素なのだ。
ふと目を上げるといつの間に入ってきたのか、前の席には柏鑑が座っていた。この世界の管理人のような彼を、時々こうして汽車の中で見かけることがあった。
「よう」
「ああ」
会えば挨拶ぐらいは交わすが、特に会話らしいものを交わしたことはない。
霊獣なのだろうか。妖怪仙人? 黄飛虎にそれを見分ける力はない。
柏鑑の長い角やつるりとした丸い顔を見るとはなしに見ていると、突然彼が黄飛虎に視線を止めた。
「黄飛虎」
「あ?」
声をかけられると思っていなかった飛虎は、驚いて居ずまいを正した。
「私に何か聞きたいことがあるのではないのですか?」
「え……」
いや…と口ごもりかけて、飛虎は膝の上で拳を固めた。
聞きたいことなら、本当はある。ずっと尋ねてみたいと思っていたことが。口に出すことが憚られて、いつも飲み込んでいたのだ。
柏鑑が促すように見つめている。
黄飛虎は拳を開き、いつの間にかかいていた汗を膝で拭った。
「その…賈氏は、ここには…いないんだな……」
疑問形のような、断定形のような、その曖昧な尋ね方が、飛虎が何度も何度も妻を求めて封神台の中を彷徨っていたことを物語っていた。
だが。
「いません」
そう、1度たりとも、彼女の駅を見つけることは出来なかった。
「ああ…分かってるんだ」
「死んだ人間の全てがここに来れるわけではありません」
「分かってる。賈氏の魂魄は飛ばなかった。だからここにいるはずがないってちゃんと分かってるんだ。……でも……」
目を伏せる。それでもずっと、探さずにはいられなかったのだ。
汽車はゆっくりと進んでいく。駅の間に青い空と雲が見える。白い雲。雲の間にも長く続く轍と駅が浮かんでいる。
ここはどういう世界なのだろうか。
汽車は思いだしたように止まり、また走り出していく。いくつかの駅を通過した頃、飛虎はぽつりと口を切った。
「俺はここに来るまで、あいつのことを本当には分かっていなかったんだと思う」
「奥方ですか?」
「いや……」
窓の外に続く景色を眺めながら、飛虎がゆっくりと告げる。
「聞仲だ」
「ほう」
景色がゆっくりと変わっていく。この世界は魂魄が増えるたびに姿を変えてゆく。
変わりゆく世界を、汽車はゆっくりと走る。
「俺はあの頃、聞仲のことを何でも知っていると思っていたし、あいつの気持ちは手に取るように分かると思っていた。だがそれは単なる傲りだったらしい。……こうしてここで全てを失って、初めてそれが分かった。」
「というと?」
「ああ……」
汽車が止まり、扉が開く。ぼんやりとその扉を眺めていても、誰かが乗ってきた様子はなかった。
扉が閉まって汽車が動き出す。黄飛虎は先を続けた。
「あの頃の俺には賈氏も子供達も親父も兄弟もいて、とにかく家族が多かった。俺にはそれが当たり前で、家族というのは空気のようなものだと思っていた。
……だがここには誰もいない」
飛虎の口が小さく「俺は一人だ」と形を作る。
柏鑑は何も言わなかった。ただぽっかりと開いた丸い目で飛虎を見つめている。
「自分の家族が誰もいない世界に来て、俺は聞仲の孤独って奴がどんなものなのか、初めて分かったような気がするんだ……」
小さいと思っていた封神台は、中にはいると無限かと思われるほど広かった。どこまでも続いていく轍に広い空。駅は頼りないほど小さく、それが自分の世界の全てだった。いつでもうるさいくらいに自分を取り巻いていた者達はもういない。
この不思議な世界の中で、自分はただ一人だ。
……聞仲を除いて。
「きっと聞仲は、向こうの世界にいた頃からこんな世界に住んでいたんだと思う。……俺は友達面して、何でも分かってるつもりになって、そのくせ何にも分かっちゃいなかったんだ」
この世界の中に自分はただ一人きりだ。だが自分には聞仲がいる。
ではあの頃の聞仲は?
300年の孤独。
親兄弟はもちろん遙か昔に死に絶えている。自分が人間として生きていた頃の者達は誰一人生きてはいないというのは、どれほど悲しい世界だったろうか。
新しく生まれてきた者も皆、すぐに老いて死んでいく世界は、どれほど不気味で恐ろしい世界だったろうか。
それでは今生きて接している人間も、きっと聞仲の目には「過去に去る人間」としてしか映らなかったのではないか。
そんな世界の中で、聞仲は自分を見つけてくれたのだ。
自分を親友だと。自分を特別だと。そう言ってくれた聞仲は、どれほどの願いと希望を自分の中に見いだしてくれたのだろうか。
自分はそのことに気づかなかった。
もちろん、もしその意味を正しく知っていたとしても、迎える結末は同じだったろう。自分は殷を、聞仲の元を去り、そしてあの最後を迎えただろう。そうするしかなかったのだ。
だが聞仲は。
あの時「裏切り者」と言った聞仲の、深い心の傷を思う。あれはただ言葉の通りに受け取れば良いという言葉ではなかったのだ。
あまりにも心ない自分にぞっとする。
この状況にならなければ、きっと自分は生涯気づくことがなかったのだ。なんという高慢。
こんな自分の「友情」を聞仲はどう受け止めていたのだろうか。聞仲の白い頬。寂しい後ろ姿を思い出す。
聞仲。
聞仲。
きつく飛虎は目を閉じる。
孤独という仮面を付けた、本当は誰より誰かを求めていた聞仲に泣きたくなる。
天井ではゆったりとファンが回っている。窓の外は悲しいほど晴れ渡っている。
この美しく穏やかな世界の中で、悲しく不思議な世界の中で、飛虎は自分の孤独と、聞仲のそれ以上の孤独を激しく想った。
「……でしょう?」
「え?」
今まで黙って話を聞いていた柏鑑が突然口をきいたので、飛虎は弾かれたように顔を上げて彼を見つめた。
「悪い、何だって?」
「ですから」
柏鑑は緩やかに飛虎を見ていた。
「ここは、良い世界でしょう?」
「……ああ…」
静かな目だった。全てを見通す目立った。
そのぽっかりと空いた不思議な目を見ていたら、飛虎の膝を何かが小さく打った。
はたはた、はたはたとそれは膝を打ち、心の内を示すように、小さく小さく広がっていった。
「すまない、柏鑑殿。仕事中だろうに、こんな話につきあわせて」
目元を拭って顔を上げると、相変わらず柏鑑は優しく飛虎を見つめていた。
「時間だけは沢山ある場所です。構いませんよ、私も退屈ですから」
「そうか……」
「ああ、ほら」
汽車が速度を緩める。
ゆっくりゆっくり小さな駅に入線すると、そこには聞仲が立っていた。頬には笑みを浮かべ、窓越しに飛虎の姿を探している。
「早く行ってあげなさい」
「ああ」
急いで立ち上がり、扉に向かう。
扉に手をかけてから、飛虎はちらりと柏鑑を振り返り、小さく「ありがとう」と告げてからホームへ飛び降りた。
「聞仲!」
「飛虎、待ちかねたぞ」
発車する窓からその様子を眺め、柏鑑が小さく苦笑する。
「毎日通っているのに、待ちかねたはないだろうに」
汽車はゆっくりと走り、後には聞仲と飛虎だけが残った。
「どうした、飛虎。泣いていたのか?」
「いや、何でもない」
「そうか」
聞仲の手が伸び、飛虎の目元に触れた。聞仲は何も聞かない。何も聞かずにあるがままの自分を受け入れてくれる。
「お前がいてくれて、良かった」
聞仲はゆっくりと微笑んで、「私もだ」と頷いた。
「さぁ飛虎、お茶の用意をしておいた」
「ああ」
飛虎の心を庇うように、聞仲は飛虎の肩に手を置いて、ゆっくりとテーブルに導いていく。
高く青い空。どこまでも続く轍。
飛虎は聞仲と共にいる。
いつまでもいつまでも、この小さな世界の上に、二人はこうして共にいるのだ。
この美しく、奇妙な世界の上に。
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