永遠の感触


 聞仲のしなやかな髪を黄飛虎が指先に絡めた。
 あまりにもそれが突然で、聞仲は危うく声を出すところだった。
 枯れ葉でもついているのかと思ったが、どうもそうではないらしい。飛虎は丹念に丹念に聞仲の髪を取り、撫でて弾き、指先に巻き付けては放している。
「何をしているのだ?」
「綺麗な髪だなーと思ってさ」
 しげしげと顔を寄せ、飛虎は次に一本一本の髪を取り上げてじっくりと眺めた。
「綺麗? 私の髪がか?」
 それに答えず、飛虎はまだ聞仲の髪を検分している。
 ……飛虎の髪の方がよっぽど綺麗だろうに。
 聞仲は出かかった言葉を飲み込んだ。いくら飛虎が鈍くても、己の心を晒すような言葉は口に出せない。飛虎の妻は朝歌でも有名な賢夫人であり、しかも夫を愛している。何気ない言葉が命取りだ。
 聞仲は出かかった言葉の代わりに「ばかばかしい」と素っ気ない返事を返した。
「何がばかばかしいんだよ」
「男の髪が綺麗でどうする」
「でも俺の髪、毛先がパサパサだって周紀の奴がうるせーんだ。手入れしろだの少し切れだの……。聞仲は何か手入れとかしてんのか?」
 飛虎の義兄弟である四大金剛は、義兄弟というより「親衛隊」と呼ぶ方がふさわしい。もっと率直に「シンパ」とでも呼ぶべきか。髪の長い、美しい顔をした義弟が飛虎の髪を手入れしようとする図は、さすがに聞仲には面白くなかった。
「特に手入れなどしていないが、お前は私よりもきつい日差しの下で埃にまみれることが多いのだから、傷んでいても当然だろう。どれ、見せてみろ」
 飛虎は素直に少しかがみ、聞仲に横顔を差し出した。
 聞仲よりもよほど柔らかい、猫の仔のような髪をしている。亜麻色の髪は日の光を浴びると透き通って輝き、影が差すと深みを増した。
 その髪をすくってみると、普段は蔭になって見えない耳や扇情的なうなじを見ることができた。首を傾けているからだろう、飛虎の首筋はくっきりと浮かび上がり、そこに歯を立ててくれと言わんばかりに存在を誇示している。
「細い髪だな」
「どうせすぐはげるとか言う気だろ? もう聞き飽きてるぜ、それ」
 気にしているのかいないのか、飛虎はぞんざいに頭を振って見せた。髪は絹糸のように飛び散り、ふわりと元の形に収まった。
「傷んでいるのは毛先だけだろう。切ってやるからそこに座れ」
「お前が切るのか」
 驚いたように飛虎が聞仲を見上げる。聞仲は何と言って応えたものか一瞬迷ってから、片頬だけで上手に笑って見せた。
「私は何をやらせても巧いぞ」



 聞仲はすぐにその言葉が正しかったことを証明した。花瓶を下ろした飾り台に座り、落ちていく自分の髪をきょろきょろと見つめている飛虎は、さっきから感心しきりといった表情を見せている。
「大したもんだな、聞仲」
「だろう?」
「周紀や賈氏が切るとなんかくすぐったくってやなんだよ。でもお前が切るとちっともくすぐったくないな」
「コツがある」
「なんだ?」
「岩を掴むようにガシガシと頭を押さえ、遠慮会釈無しに切る」
「おいおい……。ちゃんと上手に切れてるんだろうな」
「うむ」
 聞仲が手鏡を取って飛虎の前にかざすと、飛虎はそれをちらっと覗いて更に唸った。
「大したもんだなぁ」
「そうだろう」
 鏡を飛虎の手に預けたまま、聞仲はまた剃刀を持ち直して飛虎の髪を削るように切り始めた。
「どん位練習したんだ?」
「練習とは?」
「何回位人の髪切ったことあんだよ。三百年も生きてんだから、三百回位か?」
「ばかな。なぜ私が他人の髪を切ってやらねばならんのだ?」
「え?」
 聞仲は忙しく手だけを動かしながら、飛虎の驚いている顔を盗み見た。口元の緩みを抑えるのが難しい。何とも愛らしい、飛虎の間抜け顔であることか。
「……もしかして、初めてか……?」
「うむ。記念すべき第一号の被験者と言うところだ」
「巧くいったから良いようなものの、へたくそだったらどうすんだよ!」
「だから言っただろう、飛虎?」
 顎に手をかけて、飛虎の顔を上に向かせる。前髪の長さもきちんと揃っているし、毛先も自然な感じに馴染んでいた。
「私は何をさせても巧いのだ」
「だからってお前……」
 飛虎は大きく口を開けて何か怒鳴ろうとしたらしいが、すぐにあきらめたように首を振って大きな溜息を一つ吐いた。
「どうせ聞仲はさ、俺の頭なんかどうなったって構わないんだろうよ」
 肩に落ちた髪を払いのけてやりながら、聞仲が唇の端で薄く笑う。
 飛虎の髪だから失敗など絶対にしない。他人の頭ならばどうなろうと知ったことではないが、自分がこと飛虎の事で失敗するはずがないのだ。
「やな笑い方だなぁ」
「巧くできたのだから良いではないか」
「はいはい、聞仲はすごいよ」
 タンクトップの中に髪が入ってしまったらしく、しきりと胸や背中に手を回している飛虎が、拗ねたように唇をとがらす。その愛らしい仕草に聞仲は思わず微笑んだ。
「脱いでから切ってもらや良かったな」
「うむ、さすがにそこまでは気がつかなかった。すまん」
「いや、このまま川に行って水でも浴びるから良いよ」
「この寒い中か?」
「平気平気、体の頑丈なのが俺の取り柄だ」
 言いながら再び鏡を取り、しげしげと髪を見つめている。
「しかし本当に巧くできたな。周紀や賈氏だといかにも切り立てですって感じになるのに、全然切ってないみたいだぞ」
「また切りたくなったらいつでも来るがいい」
「ああ…。なぁ、全然切ってないみたいじゃないか? これで周紀の奴、納得するかなぁ」
 どうやら飛虎は聞仲の言葉など上の空のようだ。それほど髪の手入れをされるのが嫌なのだろうか? 聞仲も飛虎の真似をして一つ溜息を吐いてから、その頭に手を置いた。
「飛虎よ…。五センチは切ったのだぞ。いくら何でも気づかぬはずがないだろう」
「そうか?」
 首の半ばまで伸びていた前髪は、顎のラインで揃えられている。サイドを少し短くしたので、首も覗けるようになった。
「でも他人が髪切っても、普通気がつかないだろう?」
「それはお前だけだ」
 これだけ切ったというのに何を言っているのだと、その自分の姿形に無頓着な様子が、聞仲を幸せにもし、不安にもさせる。本当に全く何という自覚の無さだろう。
「四大金剛や奥方がお前の髪の変化に気づかぬとは思えんがな」
「そうか……? まぁ、賈氏が気づいてあいつらに言っといてくれるか」
 やっと気を取り直したように鏡を聞仲に渡すと、飛虎はくるりときびすを返し、廊下に向かって歩き出した。
「助かったぜ、聞仲! 俺ほんとにあいつらに髪やられんの、くすぐったくて駄目なんだ」
「またいつでも来るがいい」
「おう」
 後ろも見ずに聞仲に手を振り、飛虎が廊下に消えていく。飛虎の姿が完全に見えなくなった途端、聞仲の顔に愛おしげな笑みが現れた。
「全く、飛虎ときたら…」
 掌に細い髪の、力強い肩の、しなやかな首筋の感触が残っている。今まで一度で良いから思う様撫でてみたいと思っていた髪だ。今日は思わぬ役得で、存分に味わうことができた。
「全く……」
 何という触り心地だったろう。そしてあの無防備な様子はどうだ? 最愛の妻や義兄弟の契りを交わした者にさえ切らせたがらない髪を、聞仲にはすんなりと切らせた、あの信頼は?
「飛虎ときたら……」
 思わぬ天恵を受けた午後であった。きっといつまでも、この掌が飛虎の髪を覚えているだろう。たとえ千年の時が経ち、いつか一人きりになっても、この掌にだけはいつまでも飛虎が居るだろう。
聞仲は掌の飛虎に口づけた。


永遠の、その感触に。



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