中弦の月
月は中弦の弧を描いていた。
昼間の暑さが嘘のような、暖かくもなく、涼しくもない夜。どこまでが夜の闇でどこまでが自分の体なのか分からなくなるような、そんな夜だった。
目の前には盃をあおる飛虎がいる。
祝い事があったわけでもなく、諍いがあったわけでもない。永遠に続いていく同じ一日を切り取った、見事に相似形を描く一日。頬を朱に染めて旨そうに酒を嘗める飛虎の笑顔すら、昨日のものとも明日のものとも分からなくなりそうな一日だった。
「おい聞仲、呑みが足りねぇぞ」
聞仲に向かって飛虎が徳利を差し出す。すでにぬるくなった冷や酒が、まるで自分の体温のように喉を滑り落ちていく。
聞仲は目を閉じて笑みを作った。
完全にイーブンなこの夜。時が止まっている。止まるはずのない飛虎の時間までが。全く平凡で何の変哲もない、そんな夜。
これこそが聞仲にとっては完璧な夜だった。
「何だ、聞仲? ニヤニヤしやがって」
「そういう飛虎こそ口元が弛みっぱなしだぞ」
太師府で見せる冷たい美貌も、この夜の前では形を変える。
多分、飛虎だけにとって平凡な、聞仲の笑顔。
「それで聞仲、今日閲兵を行ったときにさ、昼間のあの暑さだろう? あんまり暑いもんだから俺も嫌になってさ」
どうでも良いような話を肴に酒をあおる飛虎の、よく動く喉仏を見ながら、聞仲は酒をあおった。
幸せを形にすれば、きっとこんな夜になるだろう。
「でさ、そん時、竜環のヤローが閲兵場に水捲きやがってさ」
「ほう、それは兵もさぞ驚いたろう」
「驚いたのは俺だって!」
大きな掌が聞仲の肩をばんばんと叩いた。叩かれた拍子に盃が傾き、酒が聞仲の胸を汚す。いくら飛虎に叩かれたとはいえ、物をこぼすなど自分らしくない、やはり酔っているのかと聞仲が思うより先に、飛虎が「おっと悪い、汚れたか?」と自分の袖で聞仲の胸元をぬぐった。
「飛虎よ、それではお前が汚れるではないか」
「俺の服なんかいつだって汗と埃でドロドロだから、いいんだよ」
「ドロドロの服で拭かれたのでは、私の服までドロドロになるな」
飛虎の手が胸を上下する。少し痛むほど力強いその手の感触に、聞仲は目を閉じた。その幸せな痛みのために。
「お前の酒で俺もお前も汚れた訳だ。で、俺の服の汚れで俺もお前もドロドロになった、と。おあいこで調度良いぜ?」
ニヤリと牙を見せて笑う飛虎に、聞仲は柔らかい笑顔を見せた。
「莫迦なことを」
この男はこうした何気ない言葉を使って、自分をいくらでも歓ばす。こんな些細な予想外のことが聞仲にとってどれだけ幸せか、この男は知るまい。
「それで、水浸しでは閲兵にならなかったろう」
「ああ、もう水遊びみたいだった」
「くくっ。武成王が自らこれだからな」
「たまにだって! 毎日同じじゃつまんないだろう?」
「そうか?」
聞仲は胸元の酒に濡れた感触を楽しみながら、「平凡なのが一番かもしれないぞ」と微笑んだ。
「まぁな。でもほら、閲兵の最中に水遊びが出来るほど平和って事だ。平凡な毎日の中のちょっとしたハプニングって奴は、人生のスパイスだぜ」
「酔っぱらいめ」
何という幸せだろうか。めまいを起こしそうな程に。
ニヤリと笑って見せた聞仲の腕を肘で小突きながら、「人のこと言えんのかよ」と飛虎が豪快に笑う。
その尖った肘の感触が、どれほど聞仲を歓ばせるかを飛虎は知らない。豪快な笑顔や汗と埃で汚れた服、徳利を差し出す太い腕が、聞仲にとってどれほどの意味を持つのか、多分一度として考えたことはないだろう。ましてや胸元をぬぐう腕一つで、聞仲がどれほど幸せになるかなど。
飛虎の些細な行動の一つ一つが聞仲の胸の奥深くまで沁み通ってくる。自分はこれほどまでに飛虎が好きなのかと泣きたくなる。
飛虎はそんな自分の一挙手一投足を聞仲がどんな思いで受け止めているのかを、全く知らない。
それで良いのだと聞仲は微笑む。
胸が締め付けられるようなこの胸の痛み。自分の感情がここにあるということを示す痛み。
人は聞仲には感情が無いと言う。冷徹な美貌の影に息づく物は何も無いと。
聞仲自身、長い間ずっとそう信じてきた。自分には感情はない。朱氏が死んだときにそれも一緒に死んだのだと。
だが今目の前には飛虎がいる。聞仲の中にぐいぐいと自分の存在を突き入れ、聞仲でさえ忘れていた感情を揺さぶり、育て、忘れることが出来ないほどの大きさに蘇らせてくれた飛虎が。
感情など無い方が良いのだと、ずっとそう思っていた。感情があるから辛いのだ。感情があるから苦しむのだ。期待も失望も喜びも悲しみも、それらすべての感情が無ければ何に思い煩うことがあるだろう。
だが飛虎と初めて会ったとき、そのあまりに鮮やかな印象が聞仲の心を変えてしまった。
期待も失望も、喜びも悲しみも、飛虎が故であると思えばその全てには特別な意味があった。
この気持ちを告げてしまおうかと思わぬ事もなかったが、聞仲は決して自分がそうはしないことを知っている。気持ちを告げれば、少なくともこの息苦しい痛みからは自由になれるだろう。だがそれによって飛虎が変わったら?
自分を突き放すにせよ受け入れてくれるにせよ、それは聞仲が今知っている飛虎ではない。飛虎のこの無邪気な笑顔が変わってしまうとしたら、それは自分を受け入れてもらったとしても、それを上回ってあまりある程の苦しみなのだ。
勿論聞仲だとて飛虎を抱きしめたいと思わぬ夜はない。飛虎の声を聞くにつれ、もし彼を抱きしめたなら飛虎はどんな甘い声を漏らすのだろうと、彼の汗に濡れた肌を見るにつれ、飛虎の肌はどれほど滑らかに愛おしいだろうと、聞仲の想いは募るばかりだった。
だが聞仲は飛虎の変化を畏れた。それがどんな変化であっても飛虎が変わってしまうということは……それは「飛虎の時間が流れる」事のように思えた。いつまでも変わらぬ自分とは違う存在である飛虎の、その変化が聞仲には怖かった。
だから聞仲は、ただこの胸を引き裂く相手が飛虎であるという、その事実だけに満足する事に決めていた。
「どうした? 聞仲?」
飛虎を見つめているのに何処か遠くを眺めているような聞仲に不安になったのか、飛虎がそっと聞仲の前で手を振った。聞仲をのぞき込む瞳が心配げに歪められている。
……まったく、何という男なのだろう……。
聞仲はしびれるように痛む胸を押さえながら、「何でもない」と笑ってみせた。
「呑ませ過ぎたか?」
「お前ほどではないさ」
「よく言うぜ」
言いながらも飛虎は肴の皿や盃をまとめにかかっている。
「なんだ? もうお開きか?」
「ああ、年寄りはとっとと寝ちまえ」
「ひどいことを。ああ、皿は後で片づけを寄越すから、そのま まで良い」
「そうか?」
そのまま立ち上がろうとした飛虎の足下の方こそおぼつかない。そのあまりの微笑ましさ。
「なんだ飛虎、お前の方こそ大分過ごしたようだな。送っていこう」
現実モードへ
進むラブラブモードを
読んでみる
小説トップに 戻る |
![]() 「東岳大帝廟」 トップに戻る |
![]() 「新月の遠吠え」 メニューに戻る |