一本の道

 黄家の長男が武成王になった。今や朝歌の人間は、口を開くとこの話題で持ちきりである。
 長いこと旅をしていたというこの長男は国に帰ってくるなり軍隊に入り、黄家の後ろ盾なしに自分の力だけで軍功を積み、人望を勝ち得、とうとう武成王にまで上り詰めた。
 しかもこの男は体は大きいくせにどこかその風貌に幼さを残し、名門家の跡取りとは思えぬようなざっくばらんな振る舞いをした。
 勿論、庶民はこんな漢が好きだ。雲の上にいるような殿上人ではなく、自分たちの周りにいそうな男が権門に関係なく頂点まで上り詰める。「武成王黄飛虎」について語るとき、彼らはそれが「名門黄家の跡取り」であることを忘れてしまうのだ。

 勿論それは一般庶民だけではない。軍隊の中にあっても、その人気は絶大だ。
 武成王という男は彼と共にいるのならこの戦は必ず勝てると確信させてくれる男だ。決して自分たち一人一人の命を軽んじたりはしない。
 だからこそ、大きな牙を見せて豪快に笑うこの武成王のためなら死んでも良いと、一兵卒に至るまで全ての兵が飛虎に魅せられた。

 好ましい男が武成王になったと、軍の最高位に就く太師聞仲は微笑む。
 武成王という「武の象徴」がこの様な男であれば、殷軍は厭戦感とは無縁となり、全ての兵が皆勇猛果敢な戦いを見せるだろう。
 宴の灯りの中、つがれた酒を皆腹に収めている黄飛虎を遠くに眺めながら、聞仲は満足そうだった。

「宴に参加されるとは珍しいですね」
 張奎が聞仲に声を掛ける。こういう席が好きではない聞仲は、今日も柱の蔭の目立たぬ所でひっそりと酒を飲んでいた。自分がいては紂王始めほとんどの者が気楽に酒を飲めない、ということもある。だから聞仲は滅多に宴には顔を出さない。
 確かに自分が何故今日宴に出るつもりになったのか聞仲自身にもよく分からなかったので、張奎の問いかけには気のない返事しか出来なかった。
 何故ここにいるのかは分からない。ただ、先ほどからずっと、無意識のうちに視線が若き武成王を追っている。
 聞仲の視線の先にいる黄飛虎は、紂王となにやら顔を寄せ合って、酒をすすりながら楽しげに談笑していた。
 紂王は黄飛虎を気に入っているらしい。だが、それにしても紂王の顔は、他の臣下に示す物よりもずいぶんと和らいでいる。

「……陛下とずいぶん親しげだな」
「久しぶりとはいえやっぱり幼馴染みですから」
「なに?」
 聞仲が張奎を振り返った。そんなことは初耳だ、という顔である。その顔を見て張奎の方が驚いた。
「聞仲様、ご存じなかったんですか?」
「……うむ」
「……まぁ無理もないですね。まだ陛下が受王殿下でらした時のことですから」
 聞仲は受王の教育には熱心だったが、しかるべき相手とさえ付き合っているのなら、そのプライベートにはまるで無関心だった。そういえば先の武成王の息子が同じ年頃だというので城内によく出入りしていたらしい、ということを何となく思い出す。
 あれがこの男だったのか。

 聞仲は、紂王に向かっても遠慮なく大口を開けて笑っている男を見つめた。
 ……この男は幼少の頃、一体どんな風だったろう?
  名家の嫡男としての期待を一身に受け、きちんと手入れされた髪や爪をした少年だったのか? それとも腕白で天真爛漫な?
 多分後者だろう。まだ三十にもならないような若造のくせに、この聞仲に向かってすら何かと兄貴風を吹かす。子供の時に出会ったとしても、きっとこの男は自分に向かって兄貴風を吹かせたことだろう。
 その様子を想像して聞仲は微笑んだ。
 こんな気分になる自分が信じられない。誰かに風上に立たれることがこんなにも好ましく思えるなんて。

 紂王が自ら黄飛虎に酌をしている。大きな盃だ。紂王は、こんな風に豪快に酒を飲む男を左右に置きたがる。
 全て飲み干した飛虎の肩に手を置き、紂王が何か言っている。額が触れ合わんばかりに顔を寄せ、二人は笑いあっていた。
 ここからでは何を話しているのかは聞こえないが、飛虎も相手が皇帝であるということを忘れているらしく、時々肘で小突き返している。
 どこから見ても仲の良い、楽しそうな風景だ。
 だが聞仲の眼には「楽しそうな風景」とは映っていなかった。
「……仲が良過ぎはしないか?」
 聞仲は口に出してそう呟いたが、それは張奎に言っているというよりは自分に言っているようなささやかな、だが熱のこもった声だった。
「良いんじゃないですか? 先ほど陛下はこの席は無礼講だと仰っていましたから」
「……いや、そういうことではなくて……」
「……は?」
「うむ……」

 心あらずな風情だった聞仲は、やおら立ち上がると紂王と飛虎のいる上座に向かった。慌てて張奎も後を追う。聞仲様には珍しく、酔っていらっしゃるのだろうか……?
「陛下」
「おお、聞仲」
「よう」
 紂王は少し煙たそうに、飛虎は心から楽しそうに聞仲に向かって声をかけた。
「何を話しておいでだったのですか?」
「うむ、旅の話を聞いておったのだ」
 いかにも「うるさい奴が来ると酒がまずくなる」という顔をしている紂王には目もくれず、聞仲は飛虎の表情を伺った。
「聞仲、どこで飲んでたんだ?」
「あそこだ」
 今まで自分がいた柱の蔭を指さすと、飛虎が「おいおい」と顔を歪めて見せた。
「駄目じゃねぇか、太師ともあろうもんがあんな末席にいちゃ」
「……私がいてはつまらぬ思いをする者も多いからな」
「何根の暗いこと言ってんだよ」
「飛虎よ、聞仲は一人が好きなのだ、そっとしておいた方が良い」
「そうやって陛下が甘やかすからこんな友達も出来ねぇような奴になるんですよ! ほら聞仲、こっちで一緒に飲もうぜ」
「飛虎……!」
 慌てて制しようとしたが、「どうせ断るか?」と紂王が聞仲を盗み見る。だが聞仲はそんな紂王の様子にはあえて気づかぬ振りをして「ああそうしよう」と腰を下ろした。
「旅の話をしていたのか?」
「ああ」
「私にも聞かせて欲しい」
「ああ勿論」
「待て聞仲、余は始めから聞き直すような真似はしたくない。飛虎の話は途中からになるが、それでも良いか?」
「はい陛下」
「うむ」

 正直紂王は聞仲が苦手だし、気のおけない飛虎と二人で酒を呑む方が愉快だ。だがここにいると言う聞仲を無理してどかせることは出来ないし、もしそれが出来るくらいなら、始めから聞仲を苦手だなどとは思わないだろう。
「それで飛虎、南方のその者達はどうしたのだ?」
「はい、そいつらがずいぶん太った女を連れてきて、この村一番の美人だからぜひ俺の嫁にしろって言うんですよ。俺は勿論ここに滞まるつもりはないってちゃんと言ってんのに全然駄目で」
「それでどうしたんだ」
「いやもう何しろ族長の家に泊まってたもんですからその場で祝言をあげろと言わんばかりに盛り上がっちゃって。仕方がないので夜中にこっそり逃げてきたんですよ」
「やってしまえば良かったのに」
「東伯侯より太った女ですよ!」

 意味のない会話だ。途中から聞いたとしても何の問題もない。
 だが聞仲には、それを話している人間に意味があった。
 飛虎は紂王に問われるままに旅のエピソードを披露している。楽しそう目元を弛めながら、身振り手振りも交えて。
 聞仲はそんな飛虎をただ見つめていた。
 心が揺さぶられる。この男の何がこうまで自分を揺さぶるのか。
 人が良さそうに下がった目尻。すっきりと通った鼻筋。意志の強そうな眉。長めというよりは、多分伸ばしっぱなしにした無頓着な髪。武人らしい厚い胸。逞しい肩。長い手足。座っていてもそれと分かる細い腰。この体のどこかに、自分を揺さぶるものがあるだのだろうか?
「何だよ聞仲? 人のこと 何じろじろ見てんだ?」
 飛虎が話を途中でやめて、聞仲を怪訝そうに見た。紂王もつられて聞仲を見る。
 自分がそれほど不躾に飛虎を眺めていたのかと思うと、不覚にも聞仲は狼狽えた。何と言ったものか言葉が見つからない。

「聞仲様は少しお酒を過ごしているんです」
 後ろに控えていた張奎がさっと口を挟んだ。
 何を言うと張奎を振り返ると、「いいからそういうことにしておきなさい」と張奎が眼だけでそう告げた。
 ……自分はそれほどおかしいのか?
「聞仲でもそんな事ってあるんだ」
「あ、ああ…そうだな……」
「へぇ」
 嬉しそうに笑う飛虎の笑顔に、聞仲の心臓がことんと鳴った。

 ああ、自分はやはりどこかおかしいのかもしれない。
 そういえば暴れる妖怪仙人を始末しようとした自分をいきなり殴り飛ばした飛虎のことを、名前も知らぬ初めてあった男のことを、気にして調べさせたというのも自分らしくない。あんなもの、その場で忘れてしまった方がきっといつもの自分らしかったのだ。
 軍に入った後の飛虎のことすら気になって仕方がないといのもおかしい。奴の功罰だけではなく、細かな動向についてまで何故ああまで気になるのか。
 いやそれよりも、態度の大きなこの男の兄貴風をとがめるどころか好ましく受け入れてしまっているのは何故なのか。あんな、まだ三十にも満たないような若造なのに。
 そして今日、自分は宴にまで出ている。正気の沙汰ではない。やはり自分はおかしいのだ。
 目の前で楽しそうに話している飛虎と紂王を見ていると、何か本当に目が回ってきた。自分のおかしな態度について考えるにつれ、そして紂王と飛虎が親しげに笑い合うにつれ、聞仲は頭の中に靄がかかり、動悸が大きくなっていくような気がした。
 紂王が飛虎の肩に手を置く。飛虎が笑いながら紂王の胸を押し返す。
 胸がむかつく。二人の姿が自分とは遠いところにあるような気がした。

 そして聞仲はいきなり立ち上がった。

「聞仲?」
「失礼する」
 くるりときびすを返すと、聞仲は足早に宴の広間を後にした。
 その場にいた誰もが太師の様子に目を見張り、慌てたように後を追う張奎の姿まで広間から見えなくなると、皆一様にほっと息を抜いた。



「……聞仲はどうしたのだ?」
「酔ってたんでしょう。いやぁ、あいつにもあんな可愛い所があるんですね」
 楽しそうな飛虎に紂王が首を振る。
「聞仲はそんな男ではない。お前は日が浅いから分からぬだけだ」
「そんなことないですよ」
「いや、余は幼い頃から聞仲を知っているが、あの男は最近少しおかしいのだ。余など何もしていないのに時々睨まれているのだぞ」
「陛下が何か悪さをしているんじゃないですか?」
「していない!」
 紂王はさも心外だと言わんばかりに声を大きくした。
「全く、お前はおかしくなった聞仲しか知らんからそんな風に呑気にしているのだ」
「へぇ」
 酒を舐めながら愉快そうに紂王を見る飛虎に向かって、紂王は大げさに溜息を吐いた。
「お前とこうして話をしているときなど、特に視線が厳しい気がする……」



「聞仲様……、聞仲様!」
 暗い廊下を一心に歩いていく聞仲に、張奎はさっきから何度も声をかけているのだか、聞仲はいっこうに歩調を緩めない。
「聞仲様!」
 その少し必死な声が届いたのだろうか。何度目かに張奎が叫んだ後、急に聞仲が足を止めた。まさか止まると思っていなかった張奎は、聞仲の背中に勢い良くぶつかってしまった。
「張奎」
「すいません聞仲様」
 慌てて謝った張奎に、聞仲は妙に座った目を向けた。
「私はおかしいか?」
「は?」
「自分で考えてみると確かにおかしいような気もするが、端から見ても分かるほどおかしいか?」
 張奎は一瞬何を言われたのか分からなかったようだが、すぐに呆れたように聞き返した。
「……どの辺がですか?」
「あの男のことだ」
「あの男?」
 わざと分からない振りをする張奎に、聞仲は少し苛立った声をあげた。
「黄飛虎だ」
 睨むように張奎を見つめる。張奎はその視線を受けて、困ったような、笑い出したいような、いたずらな子供を慈しむような、そんな複雑な顔をした。

 暫く変な沈黙が続いた。だがこのままだといつまで経ってもここでこうして睨めっこをしていないといけないだろうと、仕方なく張奎が口を開く。
「聞仲様……」
「何だ?」
 他人が聞けば聞仲の返事は落ち着いた物に聞こえただろうが、これは勢い込んでいる声である。何ということだ。聞仲様ともあろう方が。
 聞仲は張奎が何か決定的な答えを寄越すものだと信じているようだった。美しい無表情の中に期待感が見て取れる。
 そんな顔色を変えずに期待されても張奎だって困る。ここで聞仲が望むとおりに答えることも、自分が思っている通りに告げることも、どちらもまずいような気がした。
 聞仲は張奎が続きを口にするのを待っている。仕方がないので張奎は「そんなんだから聞仲様はいつまでたっても独身なんです」と近いような遠いような答えを返した。
「……何を言っている、張奎」
「あ、僕残っている仕事を片づけないといけないんで、もうこれで失礼します」
「待て張奎!」
 張奎はもう聞仲を無視する事に決めた。こういうことは自分で決着をつけるべきで、他人が口を挟んで良い問題ではない。



 聞仲に背を向けて広間に歩を戻すと、先ほどまで紂王と酒を呑んでいたはずの若き武成王の姿が見えた。
「ああ張奎殿、良い所に」
「武成王、陛下のお相手はもう良いのですか?」
「ああ。何か聞仲が酔っぱらってるの初めて見たから、ちょっと心配になってさ」
「ああ」
 張奎は思わず微笑んだ。なるほど、この男なら三百年の孤独を埋めてくれる相手にはふさわしいのかもしれない。
「聞仲様ならこの廊下の先にいます。僕は仕事があるので、武成王、頼んでも良いですか?」
「ああ!」
 短く返事をするなり、黄飛虎は小走りに駆けていった。素直な足取り。なんの躊躇いも無いような。
「頑張って下さいよ、聞仲様」
 それが我が事のよう嬉しくなって、張奎の足取りも少し軽くなった。



「聞仲!」
 物思いに沈んでいた聞仲の目の前に、突然物思いの種が現れた。聞仲は全くの無表情でぎょっとした。
「何だ、飛虎」
「何だじゃねぇよ、大丈夫なのか?」
「……うむ」
 曖昧に頷くと、飛虎は「ふーん」と疑わしげに返事を寄越したが、それでもそれ以上追求するような真似はしなかった。
 自分のすぐ脇を庇うように歩く飛虎を見上げて、聞仲は先ほどの張奎の台詞を思い出した。あれはどういう意味なのだ?
「どうした、聞仲? どこか具合でも悪いのか?」
「いや、大丈夫だ。ただ張奎がおかしな事を言ってたので、どんな意味かと考えていたのだ」
「おかしなこと?」
「ああ、こんなだから私はいつまでたっても独身なのだ、と。私が独りでいるのは昔……」
「昔?」
 言いかけて聞仲は口を結ぶ。
 親しくなったとはいってもまだ付き合うようになって日の浅い飛虎に、自分は何を話そうというのか。朱氏とのことは今まで誰にも告げたことのない、自分の中の最も大切な思い出ではなかったのか。
 いきなり黙ってしまった聞仲を飛虎が覗き込んでいる。少し肩を下げ、大きな目でじっと自分を見つめて。
 ……やはり自分はおかしいのだ。この男になら、朱氏の話をしても良いような気がするなど。
 それは、自分の孤独を話すということだ。

 ……孤独……?

「まぁ、言いたくないなら言わないでも良いけどさ」
 聞仲の張りつめた空気を読んだのだろう。飛虎は大きく腕を伸ばして頭の後ろで組むと、まっすぐ背を伸ばして前を見た。
 そう、この男にはまっすぐな姿勢がよく似合う。聞仲は胸が熱くなることにとまどいを覚えながら、だがこの男には自分のことを知ってもらいたいと思った。

 自分のことを。自分の、この深い孤独を。

 それは聞仲にとって初めての感覚だった。いや、いつか遠い昔には、自分もそんな気持ちを持っていたのかもしれない。
 だとしたら、その気持ちを思い出させてくれたのはこの男だ。凍った大地に春の雨が沁みるように、聞仲の心に飛虎が沁みていく。
「いや、飛虎よ。少し長い話なのだが、私の話を聞いてくれるだろうか。私がまだただの人間で一介の兵士だった頃の話だ」
 聞仲もまっすぐ背を伸ばし、飛虎を見つめた。飛虎の澄んだ瞳に自分が映っている。いつまでもこの目に自分を映していたいと、胸が痛むほど思った。
 飛虎が満面の笑みを作る。先ほど広間で見せていた笑顔とは比べ物にならないほど嬉しそうな、優しい笑顔だった。
「あぁ、もちろんだ、聞仲!」
「ありがとう、飛虎。昔、まだ殷が今ほど強大ではなかった時代の話だ。私は―――――」



 肩を並べて廊下を歩いていく。
 これから先、二人はずっとこうして肩を並べて歩いていくことになる。この夜、聞仲と黄飛虎の道は交わったのだ。それはまっすぐに伸びた道である。

 天にまで続く、揺るぎない一本の道。その道を友と歩んでいける幸せを、体中で噛みしめながら。



宜しければ忌憚のないご意見をお聞かせ下さい。

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