62「京城」は差別語ではない

 野崎充彦著『コリアの不思議世界』(平凡社新書 2003年9月)の58頁の4〜6行目に次のような一文がある。

 

柳夢寅(15591623)の『於于野談』には、「駿馬が京城(都)で子を生めば外方(地方)で養うべきであり、士人が外方で生まれれば都で育てるべきだ」という言葉が記されており‥‥

 

 ここで注目すべきは、李朝時代の文献『於于野談』に「京城」という言葉が使用されていることである。

 他に李朝時代の文献で「京城」が出てくるのは、拙論第24題 「差別語」考にあるように、時の領議政(日本の太政大臣にあたる)等を歴任した柳成竜の著書『懲録』であり、首都の名称として頻出する。またそこには、壬辰倭乱(豊臣秀吉による文禄の役)の際の首都防衛隊として、「京城左右衛将」や「京城巡検使」の任命記事まである。

以上から、李朝時代に首都を「京城」と呼ぶことが珍しいことではなかったと考えられる。

ところが朝鮮史研究で著名な故梶村秀樹氏は、『朝鮮人差別とことば』(明石書店1986年11月)53〜55頁に次のように書いておられる。

 

朝鮮の首都ソウルを「京城」と呼ぶ呼称は日本帝国主義が造作したものであることはあまり知られていない。‥

「京城」ということばは「北鮮」ということばと同様、あるいはそれ以上に広く無意識に使われている差別用語ないし帝国主義用語の見本であるといえる。‥

李朝の両班支配階級の書きことばとしての漢文の中ではハングルのソウルをそのまま使えないものだから、漢城を使うかその他、京都・京師・京洛・都城・都邑・長安・皇城・京北・広陵など多くの別称が用いられたが、そうした別称の一つとしてたまたま「京城」を用いている例も稀にはある(丁茶山等)。‥

 

李朝時代に稀であるという点については先述のように誤りといえよう。

また現代において朝鮮全般の概説書として長く出版されてきた金達寿さんの『朝鮮―民族・歴史・文化―』(岩波新書1958)には、解放後に成立した韓国の首都ソウルを「京城」と繰り返し表現している。

朝鮮人自身が李朝時代や現代に「京城」を違和感なく使っていたのは確かなのである。それがどうして「日本帝国主義が造作した」「差別用語」「帝国主義用語の見本」となるのであろうか。

そして「京城」という言葉自体に差別的・侮蔑的な意味合いは全くない。だから日本人も朝鮮人もごく普通に「京城」を使うことがあるし、たとえ差別語だという見解があることは知っていてもうっかり「京城」を使ってしまうことも出てくる。

しかし朝鮮史研究の大家からの発言の影響力は大きく、「京城」を使った人に対して差別だ!と糾弾する活動にお墨付きを与えた。

差別語糾弾は、前出の『朝鮮人差別とことば』264頁に、

 

差別語をめぐる糾弾の運動は‥‥数も多く幅広く行われている。それらすべてをここに収めることが出来ないため、若干の事例の収録にとどまっている。「差別と闘う実践」の報告は、それだけで、何冊もの本になる程、その蓄積は厚い。

 

とあるように、1970年代以降の時代的風潮であった。これには異議を唱えることが困難であったのであり、そしてこの傾向は今も続いているのである。

 

(関連論考)第24題 「差別語」考

 

(追記)

東洋文庫670『青邱野談 李朝世俗譚』(平凡社 2000年9月)の157頁には次のような記述がある。

「京城とは本来、天子の居るところを指す言葉で、転じて都を意味するようになり、朝鮮ではソウルを表す「固有名詞」として定着した。日韓併合のときに、ソウルを京城府として改めたので、往々にして日帝時代以後の呼称であるかのように誤解されているが、すでに『新増東国輿地勝覧』(1530年編纂)巻一「京都上」城郭の条にも見えるように、古くから使用されていたものである。」

8月28日記)

 

(追記)

 柳成竜の『懲録』の翻訳は、平凡社東洋文庫357にあります。その62頁に「京城左・右衛将」「京城巡検使」の任命記事があります。

 

 川村湊『ソウル都市物語』(平凡社新書)の270頁には、「京城」について論じられており、

「京城という名称を排除することはまさに歴史の改竄、歪曲につながってゆく」

と結論されています。

10月25日記)

 

(追記)

 岩波書店から出版された金達寿『朝鮮―民族・歴史・文化―』(岩波新書 昭和33年9月)は、長年にわたって朝鮮関係の入門書として有名なものであった。そこには併合以前の李朝時代および1945年の解放後、首都ソウルについて下記のように「京城」が当然のように使われている。この事実は、「京城」は日本帝国主義が造作した差別語だとする見解と全く矛盾する。

 

李朝時代

「李成桂は王位につくと1393年二月‥さらに翌年の一〇月には都を漢陽(京城)へ移した。」(78頁12行)

「李氏朝鮮はここに都城をさだめると、これをさらに漢城(京城)と改めた。」(80頁2〜3行)

「小西行長の軍を先鋒として‥諸軍総計一五万八〇〇〇が相ついで朝鮮に上陸し、たちまち南鮮を席捲して五月初めには京城を占領した。」(89頁11〜15行)

「そのときはもう京城をおとされ、国王の宣祖は、さらに小西行長軍に平壌からも追われて義州におちのびる」(90頁最終行〜91頁1行)

「彼らの党争がいかに民心を離れていたかは、宣祖が京城をでるときの一事をみてもわかる。敵が京城に迫ると宣祖はただちに北方へ難を避けたが‥」(90頁3〜4行)

「ついで四六年にはフランスの軍艦があらわれて首都京城の入口である江華島を占領し‥」(97頁10〜11行)

「この条約によって‥釜山ほか二港を開き、京城に公使館、各開港場に領事館をおき‥」(99頁12〜13行)

「開化党の幹部金玉均らは日本に渡って日本の政府すじと協議をとげた末、京城にある日本駐屯軍の援助のもとに‥」(101頁5〜6行)

「全琫準のひきいる数千の農民軍は‥いたるところで政府軍を打ち破って首都京城に迫った。」(104頁11〜12行)

 

戦後(解放後)

「一〇万の群集京城駅に殺到‥京城学徒大会‥これは1956年版『韓国便覧』「光復十年日誌」の冒頭であるが‥」(198頁3〜5行)

「このころ私は東京で京城からきたある新聞記者と会い‥京城であるていど紳士の体面を保つ生活をするには‥」(208頁6〜8行)

「いわゆる左翼派は四六年二月京城で民主主義民族戦線を結成し‥」(201頁11〜12行)

「戦乱開始の三日目にはすでに京城は陥落・解放され‥」(211頁2〜3行)

1月9日記)

 

 

(追記)

「京城」の読み方は「ソウル」であった

 20年ほど前であったか、ある年配の在日朝鮮人が「ソウルはソウルと呼ぶか、ハンソン(漢城)と呼んだのであって、キョンソン(京城)なんて使ったことがない。うちの爺さんもみんなそうだった。」と仰っていたのを思い出す。その時は、なるほど「京城」というのは日本が押し付けた名前なのだと納得していた。

 ところが原田環氏は「近代朝鮮における首都名の表記について」(渓水社『朝鮮の開国と近代化』1997年所収)でこのことについて詳しく論じ、日本押し付け論を完全に否定している。

 それでは李朝時代にも多く使われた「京城」をどう読んでいたかについて、原田氏は朝鮮が欧米諸国と結んだ条約に注目する。

 李朝末期に閔氏政権は日本と江華島条約を結んで開港し、その後アメリカ、イギリス、ドイツ等々の欧米諸国と条約を結んだ。その時の条約正文には、首都名の一つとして朝鮮側が「京城」、それに対して相手側が「Seoul」と表記されている(下記註)。つまり「京城」のアルファベッド表記は「Seoul」だったのである。

 原田氏は結論として「京城」の訓読み、つまり朝鮮読みが「ソウル」であったとする。非常に説得力のあるものである。私が聞いた「キョンソン」を使ったことがないという話も、京城は訓読みして「ソウル」と読んでいたからだと推測できる。李朝〜植民地時代では京城はソウルと読むことが定着していたものと思われる。

 原田氏の論文は多くの方に是非読んでいただきたいものである。

 

(註)

欧米との条約では、朝鮮の首都名は「漢城」「漢京」「漢陽京城」「京城」の四通りが使われた。これに対するアルファベッド表記は「Hanyang」「Seoul」の二通りである。
 このうち最も多く使われたのが「漢陽京城」とそれに対応する「Hanyang(Seoul)」という両者併記である。

(1月23日記)

【参考】

第79題 全外教の歴史誤解と怠慢

 

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