79題 全外教の歴史誤解と怠慢

―「京城」について―

 

全国在日外国人教育研究協議会(以下「全外教」)という団体が、朝日新聞社『AERA』に対して同誌2004年10月4日号で「京城」等の差別語を使用したとして抗議し(註1)、同編集部が11月22日号で「お詫び」して訂正するという事件が発生した。それに対し問題記事の当事者である小牟田氏が全面的に反論する(註2)という経過となった。

全外教はそれ以前の2001年にも、兵庫県人権啓発協会の「のじぎく文芸賞」受賞作品のなかに「京城」が使用されたとして抗議する闘争を起こしている。

 本稿は、「京城」が差別語であるとする全外教の主張を考察するものである。

 

歴史の大きな誤解

 全外教のホームページのなかにある「2002年度の各地からの情報(2002年5月16日追加)」に、上述の人権啓発協会の一件が報告されている。

http://members.at.infoseek.co.jp/zencho/kakuti02.html#hyogo

http://66.102.7.104/search?q=cache:s7GBZvl2nDMJ:members.at.infoseek.co.jp/zencho/kakuti02.html+%E4%BA%AC%E5%9F%8E%E3%80%80%E5%B7%AE%E5%88%A5%E8%AA%9E&hl=ja&ie=UTF-8&inlang=ja

そこには「京城」を使用したことが「許しがたい差別事件」であることの理由が四つ挙げられている。そのうちの1と2は「京城」がその使われ方の歴史を根拠として差別語であると断定するものであり、3と4は「京城」が差別語であるとの認識が現在広く知られ定着しているとするものである。

ここではなぜ差別語であるかの理由を示した1と2を検討したい。

 

1、日本は「韓国併合」後すぐ、韓国の首都の名称を『京城』に強圧的に変更した。この都市は、民衆からはソウル(都邑を意味する固有語)と呼ばれ、行政用語としては漢城と定められていた。この変更は、地名の「創作改名」である。韓国最大の繁華街の名称を明洞から『明治町』に変え、各地に『本町』や『◯◯銀座』をつくるなど伝統的地名を日本風に改名させた。これらの「都市改名」は創氏改名と同様、植民地支配を受けた民衆にとっては屈辱的なものであり、この名称を当初から使用したのは、植民者の日本人とごく一部の日帝協力者のみであった。

 

 日韓併合以前の李朝時代に「京城」は使われていなかったかどうか。これは公私ともに多数使われていたとするのが正解である。公文書では『李朝実録』『海東諸国記』(註3)や欧米との条約正文(註4)にある。従って官庁用語としては「漢城」だけでなく「京城」もあったのである。また私文書においても日記や説話等に多く使われている(註5)。以上より「京城」を日本の「創作地名」であるとするのは完全な誤解である。日本はそれまでの朝鮮社会で使われてきた首都名の一つを採用したのである。

 次に使用者が「一部の日帝協力者のみ」としている。しかし抗日民族主義者として有名な朴殷植の著作『韓国痛史』(1915)には「京城」が頻出するので、ここでも大きな誤解がある。

 

2、日本の敗戦・韓国朝鮮の解放後、植民地時代に強要(創氏改名)された日本風氏名はすべて本来の姓名にもどされ、都市名や町名も伝統的な呼び名に復帰した。とりわけ、悪夢のような植民地支配を想起させる『京城』を使用する者は皆無であった。

 

 「京城府」を「ソウル特別市」に改称したのは、米軍の「軍政法令第106号」(1946年9月18日公布)によるもので、解放後1年以上も経過している。それまでは公式に「京城」であった。

その後も韓国人のなかでは慣例的に「京城」が使われて現在に至っている。かつては「京城電気」(1961年に合併して「韓国電力」となる)があり、現在ではバス会社の「キョンソン」(京城のハングル読み)があり、ソウル市内に「京城」という漢字名の食堂が今もあり、日本からの郵便物は「大韓民国京城市」と書いても今なお届くのである。また戦後の日本で朝鮮入門書として長く出版されてきた金達寿『朝鮮―民族・歴史・文化―』(岩波新書1958年9月)には「京城」が頻出する(註6)。あるいはまた、現在の日本各地に「京城」を冠する店名の焼肉屋は検索で数多く確認できるのである。

http://www.google.co.jp/search?hl=ja&ie=Shift_JIS&q=%8B%9E%8F%E9%81@%8F%C4%93%F7&lr=

従って「京城」は、戦後の韓国・朝鮮人にとって「悪夢のような植民地支配を想起」させるものでは決してないし、ましてや「『京城』を使用する者は皆無であった」ことはあり得ない。ここでも大きな誤解がある。

 彼らの歴史認識は誤解が多く、もはや歪曲・虚偽のレベルといっても過言ではないだろう。

 

歴史研究の怠慢

 全外教の「京城」に関する誤解だらけの歴史はどこからでてきたのか。それは梶村秀樹の「『京城』ということば」(註7)という小論である。ここから関係部分を引用してみると、

 

平民の間に口語的に最も広く使われていたのは本来固有朝鮮語の都を意味する『ソウル』であり、また李朝政府の官庁用語・行政区画名としては漢城府と呼ばれていた。」(54頁)

日本帝国主義は『日韓併合』直後の1910年10月10日、『朝鮮総督府令』第二号をもって、公式呼称としての『漢城府』を『京城府』に変えるとともに、通用語としても日本語の『京城』を強要した。」(55頁)

解放後‥『京城』は『ソウル』に、ソウル市内の日本式小地名も、例えば『明治町』→『明洞』というように改められたのである。」(57頁)

朝鮮人が自発的に『京城』ということばを用いた例は、親日開化派の系譜に立つ尹致昊らが、1898年に一時『京城新聞』という新聞を発行したくらいで、そのような例外を除いてごく少ない。」(55頁)

解放直後、何をおいてもまっ先に、『京城府』を廃して、『ソウル特別市』に改めることに重要な意義があったのである。」(56頁)

 

ここには全外教が「京城」を差別語である根拠としたものの全てがある。つまり彼らの誤解は梶村に全面的に依拠するところから始まったと考えられる。

 一方において原田環は「近代朝鮮における首都名の表記について」(註8)という論文で梶村を批判した。それは多くの歴史資料を集めて詳細な検討を加えており、完璧と言っていいほどに論破するものである。この問題については学問的には決着したと言ってもよい。従ってそれは梶村に依拠する全外教をも否定するものとなる。拙稿でも大いに参考にさせてもらっている。

 問題は全外教がこの論文をどう読み反論したかであるが、それが全く見当たらない。当論文発表から数年が経っているにも拘わらず、全外教が梶村に依拠して抗議を行なったということは、彼らはそれを知らなかったことになる。それはかなり有名な論文で、一般向けの新書版でも紹介されている(註9)ので、知らなかったでは済まされない。

すなわち彼らは、今や批判に耐えられない1986年の梶村のレベルにとどまっており、調査研究の更なる努力をしておらず、怠慢としか言いようがないのである。

彼らは誤った歴史認識によって差別語でも何でもない言葉を「差別語」として社会に定着させてきた、と考えざるを得ない(註10)。

 

(註)

1)       全外教のメールマガジンhttp://backno.mag2.com/reader/Back?id=000008770958号(2004/10/15発行)に報告されていましたが、一時閲覧できないことがありました。別のHPでこの記事が残っているものがありましたので、これを紹介します。http://nipponsaisei.air-nifty.com/sakura/2004/10/post_48.html

2)       小牟田哲彦「『京城』『鮮鉄』は差別語か」(産経新聞社『正論』2005年2・3月号)。

3)       例を挙げると『宣祖実録』二五年(1592)一〇月の条に「京城人心、非如前日之比」とある。『海東諸国記』では成宗二年(1471)の条に「自斎浦由金山至京城」とある。

4)       李朝は開港期に欧米諸国と条約を締結した。条約正文の文字は漢字とアルファベットとなる。ここでの首都名の漢字表記は「漢城」「漢陽」「京城」「漢京」の四種類であった。その一つである「京城」に対応するアルファベット表記が「Seoul」である。このことから「京城」の訓読み=朝鮮読みが「ソウル」であり、また「ソウル」の漢字表記が「京城」であったことが推定できる。

5)       『徴録』『青丘野談』『於于野談』『海泉野録』等々。下記(関連論考)参照。

6)       この本では植民地時代はもちろんのこと、李朝時代の歴史記述のなかで9ヶ所、戦後の歴史記述のなかで4ヶ所に「京城」が使用されている。

7)       内海愛子・梶村秀樹・鈴木啓介編『朝鮮人差別とことば』(明石書店1986年11月)所収。

8)       原田環『朝鮮の開国と近代化』(渓水社1997年2月)所収。

9)       川村湊『ソウル都市物語』(平凡社新書2000年4月)270頁。黒田勝弘『韓国人の歴史観』(文春新書1999年1月)95〜96頁。

10)       多くの報道機関では、「京城」は使ってはならない差別用語として登録されている。また人権博物館でも差別語として取り扱っている。

http://www.liberty.or.jp/

歪曲・虚偽の歴史認識がこのように定着してしまっていることは、残念なことである。

 

(関連論考)第24題 「差別語」考 第62題 「京城」は差別語ではない

 

(追記)

民族差別と闘う連絡協議会(現・在日コリアン人権協会)は1992年11月に、「『京城』についての見解」を出している(下記註)。そこでは「京城」が植民地支配36年間のみに存在した都市名であるとして、「京城」の使用に反対する主張をしている。しかし本稿にある通り、「京城」は植民地支配以前も以後も、公的にも私的にも使用されていたのが歴史事実である。この連絡協議会も、梶村の誤れる歴史認識をそのまま継承したと思われる。あるいは時系列的に考えて、梶村の誤りを継承した協議会を全外教がさらに受け継いだとなるのかも知れない。

(註)この協議会の見解は、堀田貢得『実例・差別表現』(大村書店 2003年)249〜250頁に所収。

(追記)

 7月23日、全外教のメールマガジンに関係して一部追加。

 7月25日、『韓国痛史』の著者を間違えておりました。「朴殷植」に訂正します。指摘して下さった方にお礼申し上げます。

 

(追記)

 森田芳夫は、「京城」について次のように論じている。

 

(1)   京城・ソウルの呼称

 現在のソウルは、高麗時代に「漢陽府」、1394年に朝鮮王朝の首都になって「漢城府」と改めたが、日本統治開始後、1910年10月1日、朝鮮総督府令で、その名称を「京城府」と改め、管轄区域は「従来の漢城府一圓」とされた。

 「京城」は、『大漢和辞典』に「天子のいますところ」「皇居」「みやこ」とあり、朝鮮総督府『朝鮮語辞典』にキョンソン(京城の音のハングル表記)は、「王都」とある。

 『三国史記』に、都(慶州)の城郭を修理する官署を「京城周作典」と記しており、『高麗史』には首都開城を「京城」と記した例が多く見られる。〔例、「在京城庶民」(成宗10年7月)、「契丹主入京城」(顕宗2年正月)、「京城戒厳」(恭愍王12年4月)〕

 また朝鮮王朝期に入って、都、漢城を「京城」といい、『新増東国輿地勝覧』巻一 京都上に「城郭京城」「宮城在京城之中」「宗廟在京城」の記述が見える。

 日本でも明治年間に漢城を「京城」と記している。〔例、「明治十年、予カ京城ニ入ル時」(花房義質入京踏程概測図)、「大鳥公使京城に帰任する」陸奥宗光『蹇蹇録』〕

 終戦後、1946年8月15日、ソウル市憲章で「京城府をソウル市と称す」としたが、同年9月18日に米軍政法令第106号により、同令公布10日後から京城府を「ソウル特別市」と改称することが定められた。(註1)

 ソウルは、朝鮮語「都」の意味で、古代から朝鮮人の用語であった。(註2)

 日本人も、ソウルの語をよく知っており、昭和の初めに日本人仲間で歌われた京城小唄(西条八十作詩)に「ソウル、チョッタチョッタ、チョッタソウル ホイ」の句が入っていた。

 

(註)

1)ソウル特別市史編纂委員会『ソウル百年史』第1巻(1977年12月)「ソウルの名称と沿革」

2)金沢庄三郎『日鮮同祖論』(汎東洋社、1943年5月)に「『三国遺事』巻頭の王暦第一に、徐伐Soporの注に「今俗訓京字、云徐伐、以此故也」とある。今日の朝鮮京城をSeoulといふのは、そのなかからP音が脱落したもの」と記している。

森田芳夫「朝鮮における日本統治の終末と文化面の推移」

(学習院大学東洋文化研究所『調査報告26』1990年9月)36〜37頁

 

 この森田の一文は、梶村秀樹の「『京城』ということば」(1986年)に虚偽があると批判していることは明らかである。しかし民族差別と闘う運動団体はこういった学問的批判を無視(あるいは無知なのであろう)して、「京城」を差別語と断定し、社会に定着させてきた。

 

 森田芳夫: 1910年生まれ。著書としては『朝鮮終戦の記録』『韓国における国語・国史教育―朝鮮王朝期・日本統治期』『在日朝鮮人処遇の推移と現状』が有名。その研究の実証性については、在日朝鮮人研究者の金英達はじめ多くから高い評価を得ている。1992年没。

 (2006年3月22日記)

 

ホームページに戻る