102 国家と外国人差別

 

 「国家とはそもそも何か?」から考えていきたい。

 人間が人間たる所以の一つは、それが社会的存在であることだ。人間は全く孤独で生きることは出来ず、何らかの社会=共同体を形成しつつ生きるものである。社会の最も小さな単位が家族であり、最も大きな単位が国家である。家族と国家の間には、地域・学校・会社などの大小様々な社会=共同体があり、ほとんどの国民はこれに属している。

 これらの社会=共同体の共通する性格は、構成員どうしでは優しく、逆に他者には厳しいということになる。なぜなら社会=共同体の構成員は、自分たちを守るということが第一番に大事なことであるからだ。

 家族は構成員それぞれが自分たちの家族を守るために働き、活動する。そして家庭内に見ず知らずの他者が闖入すれば排撃する。それが当たり前である。

 学校も同じである。そこの学生・教職員といった構成員でない人間が理由もなく学校内に立ち入れば、排除される。たとえ立ち入りを認められても、部外者である限り構成員とは違う立場である。

 さらに国家も同様である。自国を侵略しようとする他者に対しては断固排撃するのが国家である。国家の構成員は国民であり、外国人は部外者であるので、国民と外国人とは違う立場である。外国人が国民と全く同じ権利を有することはあり得ない。国家機関は自国民を優先して保護する義務があるのであって、逆に外国人を自国民同様に保護する義務というものはない。外国人が国民より不利なことは世界中のどの国でも共通することであって、当然なのである。

 これを「差別」「排外主義」と厳しく批判する主張がある。しかしこれはいかがなものであろうか。国家も社会=共同体である以上、部外者=外国人に対して処遇に違いを持たせるのは当たり前ではないか。だからといって外国人を侮辱することは許されないが、外国人に国民と全く同じ権利を与えるべきものではない。

 ある人は、国家そのものが差別なのであるから国家の存在を否定すべきだと主張する。もしこの考えを推し進めるならば、自分が国家の構成員であることを拒否しなければならないし、国家活動が自分に及ばないようにしなければならない。具体的には出生届や死亡届を出さない、パスポートや運転免許は取らない、健康保険や国民年金に入らない、犯罪に遭っても警察に届けない、家が火事になっても消防署に通報しない、困窮しても生活保護を受けない、そして何よりもお金を使うような生活をしない‥‥。国家を否定するというのはこういうことである。これを実践しない人が国家の否定を説いても、何の説得力もない。

またある国家否定論者には自分の日本国家のみを否定して他の国家(特に韓国や中国)を肯定する傾向が見られる。思想に一貫性がないというのは致命的なことで、奇妙奇天烈としか言いようがない。

 

(追記)

 以前のある講義。講師は国家そのものが差別構造であるという思想を持っており、「国家主義/差別」というテーマでのレポート提出を宿題として出した。本稿がそのレポートである。

 

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(関連論考)

第1 「名目的権力と実質的権力」 第40題 在日朝鮮人は外国人である

第49題 合理的な外国人差別は正当である