「歴史と国家」雑考第1題 名目的権力と実質的権力

 

 人間が二人以上集まれば「社会」をつくる。ロビンソン・クルーソーのように全く孤独で生きているのなら、それは社会ではない。

 社会を構成する「人間」とは何か。それは意識・精神を持つ存在である。だからそれらを持たない動物は、いくら集まっても社会をつくらない。それは単なる「群れ」である。

 猿の集団には「ボス」がいて、彼の統率下に集団が運営されるという見事な「社会」を描く霊長類研究がかつてあったが、今は否定されている。ボスは個々の猿のなかで比較して最も腕力の強い猿でしかなく、ボスが他の猿に命令・指示するという統率行動はしないし、自分の身を張って集団を守るということはないと報告されている。

 また蜂は一匹の女王蜂、複数の雄蜂、多数の働き蜂と分業して「社会」を構成しているとされている。しかし蜂は意識・精神を持っていないので、それは本能に基づく役割分担と呼ぶべきものである。それぞれの蜂は、何か困ったことが生じても本能のままに行動するのみで、女王に指示を仰いだり、命令を待つことはない。

 

組織化された社会

人間が構成する社会は、個々人がバラバラで統制のとれていない段階と、その次にそれが組織化されて一つの主体となる段階がある。前者を「組織化されていない社会」、後者を「組織化された社会」と呼ぼう。例えば群集や野次馬、ホームレスたちなどは「組織化されていない社会」と言える。社会学ではこれを「準社会」と言うようである。

 これより次の段階にあるのが「組織化された社会」であるが、その最小単位は「家族」であり、また最大のものは「国家」である。「家族」と「国家」の間には、地域・学校・会社などの様々な組織化された社会が存在し、たいていの人々はこの社会に属している。

 この「組織化された社会」の大きな特徴は、それ自体が一つの主体であるために、一人の人物が対外的な「代表者」であると同時に、対内的な「支配者」となっていることである。家族においては「主人」であり、会社においては「社長」であり、国家においては「元首」(王や天皇、大統領など)である。

 

家族のあり方

 家族を例にとると、生活において必要なガス・電気・水道・電話等の対外的契約は、家族の代表者である「主人」の人格名で締結される。逆に家庭内では建前上、この主人のもとに支配される社会という形を呈する。実際には建前どおりに家庭内暴君として主人が権力をふるう場合もあるし、反対に妻が実質的権力を握り、夫は妻の言われるがまま、という場合もある。いずれの場合であっても、形式上は「主人」という一人の人格の意思に他の家族全員の意思が従属しているという形をとる。例えば、子供の進学や結婚などの重大事はお母さんが子供と決めていても、結局は「お父さんにちゃんと言っておきなさいよ」と一家の主人の最終的承諾の場の必要性を説くものである。つまり家族は、対外的代表者であり同時に対内的支配者であるところの「主人」という人格に究極的に表現される、ということになる。

 これは家族に限らず、同好会サークルでも会社でも国家でも、組織化された社会すべてに通用するものである。もし代表者すなわち支配者が二人も三人もいたら、それは組織の分裂である。家族でこれが起きれば「オレはそんなこと聞いてないぞ」「なぜ勝手にそんなことをしたのか」と夫婦喧嘩になる。家族では人間的信頼関係があるので、どちらかが「まあ仕方ない」と折れて分裂(離婚)に至る場合は少ない。しかし会社や国家でこうなると、「仕方ない」で済ませることは出来ないので、それは大変なことになる。

 ところで、家族における主人は生身の人間であり、従って仕事や用事のために長期間留守にすることもあるし、大病を患って動けない身体になってしまうこともある。つまり家族の代表者として実際には行動できないことがよくある。その場合に例えば対外的契約はどうなるのか。その時は妻や子供が主人の人格名で代理に署名・捺印することになる。

ということは、主人が主人としての役割を現実には果たせなくても、形の上では主人が家族の代表者としての役割を果たしていることになる。つまりは「主人」なるものは実際に今そこにいてもいなくても、あるいはその能力があろうとなかろうと、家族の代表者としての地位にある限り、形の上は主人の人格名で家族が運営されるのである。別の言い方をすれば、実質的権力を主人本人が握ろうが他の家族成員が握ろうが、それとは関わりなく名目的権力は主人が持つという形式性の上にこそ、家族が家族として維持されるのである。

 

国家のあり方

 このようなあり方は家族だけでなく、会社でも国家でも同じことである。国家を例にすると、国家の代表者=支配者は元首(ここでは分かりやすく「国王」としておく)である。もし国王が代表者=支配者であることをやり遂げる意思と体力があるなら、政府機関から上がるすべての文書に目を通して決裁し、各機関に次々とトップダウンで命令し、そして戦争には自ら甲冑を着て戦場に赴くという文字通りの「王」を演じるだろう。しかし寄る年波には勝てず、病気もするだろうから、その時は国家権力のうちの実質的権力を皇太子あるいは有力下臣に任せて、自分は名目的権力に止まることになる。

すなわち、政策・法律公布・条約・任免・褒章・宣戦という国家にとって重要な仕事つまり国事行為は、下位の者がその中味を実際に決めても、建前=形式上は国王の名前で遂行するという体制になる。

 実質的権力を国王が握っていようが下位の者がにぎっていようが、それとは関わりなく、国家の代表者=支配者として国王の名前でもって国事行為がなされるという建前=形式こそが国家にとって最重要なのである。つまりは名目的権力に国家の本質を理解する鍵がある。

 従って実質的権力を持つ者にとって名目的権力者の国王は、極めて重要な存在となる。後者がただの飾り、単なる建前などと言われようが、国家の代表者=支配者であるという形式を有する限り、その存在そのものが大義名分であり、旗印なのである。実質的権力者が大義名分を失うと、失脚するしかない。

 

名目的権力と実質的権力の分業

 そして名目的権力と実質的権力の体制的な分離・分業が、国家にとって次の段階へ踏み出すものであった。

 日本において実質的権力を持たない天皇制が、連綿と千数百年も続いたということは、名目的権力と実質的権力とが分離されている状況をそのまま制度化したからと言えよう。なぜなら権力志向の政治家たちが血みどろの権力闘争によって獲得を目指すのは実質的権力であり、天皇は名目的権力に止まる限り倒されることはない。名目的権力者として聖的権威を有する天皇の下で、太政大臣・征夷大将軍・総理大臣といった人たちが実質的権力者として、政治・経済・軍事・外交などの俗的権力を執行する。このような聖俗の分業は、国家体制としてはそれなりに合理性を有するものだと言えるのである。

 逆にこれが未分化の国家では、国王が実質的権力をも掌握しようとするものであるから、権力闘争の当事者として他のすべての政敵を圧倒して完全勝利せねばならない。血で血を洗い、多数の死者を出すような激しい闘争も珍しくない。王室が権力闘争の当事者であるがゆえに、権力を掌握したときにはすさまじく強力な王朝国家となるが、逆にそうでない時には王室の命運が尽きたとされて、いとも簡単に打ち捨てられ、王朝の交替となる。中国はじめアジアの多くの国々が、その政治や経済状況の中味に変化がないのに王朝交替の繰り返しという歴史を歩んできたのは、権力の分業体制が達成されなかったためと考える。

 現在世界各国で、君主制の国家はイギリス・スウェーデン・オランダ・ベルギーなどのヨーロッパ諸国の一部と、アジアでは日本やタイ、イスラム教国の一部であり、アフリカや中南米ではほとんど皆無である。共和制は進んだ体制で君主制は遅れているという考えでは、この事態は説明できない。

 権力の分業体制を達成した国家に君主制が残り、それが達成できなかった国家では国王が権力闘争に耐え切れず君主制が廃止されて共和制となり、達成しているか否か以前に国王の権力がいまだに強力な国家では君主制が維持される。現代世界における君主制、共和制のあり方はこのように解説できるだろう。

 日本の天皇制の歴史は、このような権力の分業という観点から分析すると、興味深い一面が見えてくる。

 

           ホームページに戻る

           第2題に行く