87 暴力にみる民族的違和感

暴力にみる民族的違和感

 今から50年以上前の1952年6月25日、朝鮮戦争2周年に際し日本共産党が起こした吹田事件がある。その当事者の一人が当時の思い出を次のように語った。

 

吹田操車場へ乱入デモをし、岸部から国道を吹田に向かっていたとき、デモ隊の後方からウィポン車に乗った茨木警察の一隊がデモ隊を追い越して先頭に出ようとした。これに対して火炎びんで攻撃を加えた。警官は車から転げ落ち、田植えをしたばかりの田圃に逃げ込んだ。火傷した警官が逃げられずに路上に転がっている。デモ隊はそれを竹槍で突こうとした。隊長だった私はそれを止めた。日本人は止めた。朝鮮人は何を言うか、やってしまえと、ピストルも全部奪ってしまった。

 日本人は巡査をやっつけろと火炎びんを投げたけど、殺す気はなかったから、無抵抗になった奴を竹槍で突くことはできなかった。朝鮮人は突いた。止めたら日本人は言うことを聞いたが、朝鮮人は怒った。その差がいまだに分からない。民族が違うからか。私の思想が中途半端なのか。殺してしまってもよいという所までになっていないことは事実だ。ビビった。その差というのが、いまだに分からない。

 朝鮮人教育闘争のときにも、南警察署だったか税務署だったかを襲撃した。あのときも、日本人は勝ったらそれで終わったが、朝鮮人は頭を割るところまでいく。そのときもビビった。

上田等『大阪の一隅に生きて七十年―私の総括―』(創生社 200211月)73

 

 当時の共産党には多数の朝鮮人が入党していた。党はメーデー事件、大須事件、吹田事件等々の大規模な暴力闘争(=騒乱事件)を引き起こした。その闘いに朝鮮人たちが大いに活躍したのである。上田氏はこの時にともに闘った同志であり、彼らの行状の実際を語る貴重な証言者(下記註)であるが、そこに「その差がいまだに分からない。民族が違うからか。」と違和感があったことを記録している。

 これと同じような暴力に関しての民族的違和感は、1970年代に朝鮮高校生と喧嘩した日本人の思い出話にも出てくる。「あいつらは千枚通しを持ってきて、ホンマに突いてくるんや」などと民族の違いを語る体験談を何回も聞いたことがあった。

 またヤクザの世界でも、武闘派と呼ばれた過激な組に朝鮮人が多いという話を聞き、やはり違和感を持ったものであった。

 あるいは彼らの家庭内暴力(DV)でもまた、拙論第65題 在日一世の家庭内暴力にある通り日本人との違いを感じさせるものであった。

 しかしこのような違和感は、1980年代ごろから聞くことが少なくなった。在日朝鮮人は同化して日本人と変わらなくなってきたということであろう。

 今は来日外国人の犯罪内容に、民族的違和感を持つ時代となった。

 

(註)

 共産党は自分たちが主導したこれらの闘争について今なお口をつぐんでいる。ある党員の方にこれについて話題にすると、「挑発する気ですか」と言い返された。彼らには自分たちの歴史を隠蔽する体質が強いようである。闘争の具体像については、上田氏のように党から離れた人でないとなかなか情報が得られないのである。彼のような貴重な証言がこれからも出てくることを期待する。

 

(関連論考)第76題 在日の犯罪と生活保護 第34題 差別とヤクザ

 

レイプ事件考

 このごろレイプ事件がよく報道されている。それを読みながら、かつての在日活動家たちの隠れたレイプを思い出す。
 古い資料だが『マルコポーロ』1993年9月号に、梁石日、崔洋一、鄭義信の対談があった。

 崔「一時流行ったんだな。左翼少女を口説くときは日帝三十六年史で落とせというのが。」
 鄭「いまだにそんな手を使っている人、いるんだよね。」
 梁「男の風上にもおけんなあ。」
 崔「梁さん、唇、震えてますよ(笑)。」

 朝鮮問題に関わる日本人女性たちが、在日活動家に警戒心をなくし、レイプされるという事件が少なくなかったのである。そして彼女たちは、反体制意識を持っていたために警察に通報することもなく、泣き寝入りした。周囲からは運動団体内でフリーセックスが流行ったと思われたのだろうが、実態はレイプであった。
 人権に最も敏感なはずの在日活動家が何故そんなことをするのか。また日本の女性たちは、活動家とはいえ在日男性がたずねてくると、なぜ警戒心をなくして部屋にあげてしまうのか。
 今はどうなのか知らないが、昔はそういう時代であったということである。

 

(追記)

吹田事件について、上田さんとは反対の立場にある警察側の資料を紹介します。

いっぽう、吹田市警察では、応援の茨木市警察の警察吏員とともにウェポン車に同乗しこの集団を追尾していたが、集団が吹田市の中心部に向かうのをみて、ウェポン車は集団の後方から右側を通過し追越しをかけようとした。これをみた数人の者は、所持していた火炎びんを数個投げつけた。ウェポン車は命中した火炎びんの炎で十数人の警察官が被服を焼かれ、火だるまのようになって車外に転落した。ウェポン車は若干の警察官を乗せたまま、かろうじて前方に離脱することができた。

 しかし、車外に転落したこれらの警察官は、数人の者に取り囲まれて暴行された。なかでも、茨木市警察の一巡査部長および巡査は、人事不省におちいり、所持していたけん銃と実包が強奪された。

   大阪府警察本部『大阪府警察史 第3巻』昭和48年3月 349〜350頁

 

 これを上田さんの回想記と読み比べると、事実関係に矛盾がありません。正反対の立場の資料は矛盾となることが多いのですが、この件に関してはそうではありません。彼は事件の裁判に関わっていたので、そのなかで事実が検証されていったのでしょう。

 彼が回想した民族的違和感の体験は非常にリアリティがあると言えます。

2006年3月11日記)

 

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