81題 コリアンタイム

 

民闘連(現在は在日コリアン人権協会)の会議なんかに何度か出席したなかでいつも不思議だったのは、会議が時間通りに始まらないことであった。みんなで決めたその時刻にその場所にいるのは2〜3人というのが多かった。私一人という時もあった。それから2〜30分して1〜2人、1時間ほどしてまた1〜2人現れる。2〜3時間の遅刻も珍しくなかった。

 ある会議で次回の会議の日時を打ち合わせた時、K君がこの日のこの時間にしてくれと指定し、そのように決まったにもかかわらず、肝心のK君が遅刻するのである。それが10分や20分ではない、1〜2時間もである。

 私にとって民闘連というのは運動組織というより親睦団体のように思っていたから、他人の遅刻は気にならなかった。しかし、遠くK市から1時間半もかけてA市での会議にきた女性Kさんが、なかなか始まらない会議にイライラして、私に「せっかく来たのに。私には門限があるから決めることはさっさと決めて、早く帰りたいのに。」と言った。私は「まあコリアンタイムだから」と答えたら、それを聞いたYさんがえらく怒ったものだ。ある本(何の本だったか忘れた)に、朝鮮人というのは時間にルーズなことが多い、これをコリアンタイムというようなことが書いてあったので、この言葉を使ったのである。

 かつての民闘連の指導者であった佐藤勝巳氏が、その著作『在日韓国・朝鮮人に問う』(亜紀書房)のなかで「民闘連の会議では、一時間、ときには二時間くらい遅れてはじまるのはザラであった。」と書いてあるのを読んで、思わず膝をたたいて、そうだそうだと叫んでしまった。日本人でも遅刻常習犯はいるが、会議の始まる時間になれば特に理由のない限り遅刻者を無視して始めるものだ。遅刻する者が悪い、とするのが常識である。しかし民闘連ではそのような作風にはならなかった。

 呉善花著『スカートの風』(三交社)という本は、日本人と韓国人の民族性や価値観の差異を描いた好著である。このなかで韓国人は日本人とは違う意味で人間関係の上下のけじめをつけようとする性向があることが書かれてあった。これを読んでコリアンタイムもこれではないかと思った。すなわち、自分はエラいのであるから遅刻してもよい、時間通りに来た人はエラい人を今か今かと待ち、ようやく登場したらさあ始めましょうとなる、そしてエラい人は自分のいない限り会議が始まらないことに満足し、これによって人間の上下関係がはっきりする、となるのである。

つまり時間を真面目に守るのが下位で、破るのが上位という社会的位置関係になる。民闘連では朝鮮の民族性を垣間見る体験をしたということになろうか。

 

(追記)

 10年以上前にミニコミ誌に書いたものの再録。一部改変。

 こんなことを書くことは品がないのですが、当時は書かずにはおられなかったということです。今はどうなっているのでしょうか。「コリアンタイム」が死語になっていればいいのですが。

 

 ところで最後に「朝鮮の民族性を垣間見る」と書きましたが、そこまで言うことかと感じられた方がおられると思います。このことについて私の仮説を述べます。

 朝鮮関係資料を調べるときに私の感じる印象が、法律やルールについての朝鮮人の考え方が日本人とは異なっていたのではないか、ということです。

 

・例えばかつての韓国の新聞に、行政当局の規制(景観を損ねる商店の看板強制撤去)に対してある商店主が「法律を盾にとって抗議した」という記事がありました。内容は商店主の方を非難するものでした。しかし日本では法律を盾にとって抗議するのは正当な行為で、法律に基づかない規制の方が権力の横暴とされます。韓国では日本とは逆の考えになるようでした。

・かなり以前のことですが、韓国から来日した人にゴミは分別して出さないといけないと注意しましたら、そんなことをしなくても全部持っていってくれる、怒られたことがないからこれでいい、と頑として守ろうとしませんでした。そういうルールがあることを知りながら守らなくてもいいとする発想にビックリしたものです。

・在日朝鮮人の歴史を調べると、戦前戦中の彼らに対する日本人の眼差しは決して悪くはありませんでした。悪くなったのは戦後です。彼らは、自分たちは解放民族なのだから日本の法律は守らなくてよいとして、かなりの横暴を繰り返しました。これは、植民地時代は自分たちが下位で日本は上位だから日本の法律を守ろう、しかし解放後は逆転して上位となったのだから守らなくてよい、というような考え方をしたからだと思われます。

 

 彼らには、人の行動を制約する法律やルール(以下「法」という)というのはお上が下々に対して課するもの、つまり支配のためのものであるという発想があるようです。だから支配される立場である下位の者ほどそれを守らねばならないが、逆に支配する立場の上位に昇ればそれだけ守る必要がなくなる、守らない程度の大きさがその人の社会的ステータスを表す、となっていきます。従って「法」を生真面目に守るのは低い地位の人間のすることだ、というような価値観になります。コリアンタイムもここから派生したものではなかろうか、と思います。

 

これはアジアで古くからある価値観だと考えられます。この考えではお上が下々を規制するものが「法」ですから、議会やみんなで決めたものよりもお上の個人的意思のほうが優先される社会となります。一方近代的な考えでは議会やみんなで決めた法律・ルールが「法」ですから、上位の者こそが率先して「法」を守らねば下々も守るわけがない、あるいは「法」を守ることによって自分たちの権利が保証されるとなります。前者の古代アジア的価値観は後者の近代的なそれとは全く違い、「法治」ではなく「人治」といわれる所以です。彼らはこの伝統的価値観を引きずってきたのではないか、というのが私の仮説です。

 しかし現在の在日は日本に同化されており、また韓国も近代化してきていますので、こうした価値観は減少してきていると考えていいでしょう。(下記註)

 

 一方北朝鮮ではこの価値観を今なお強固に残していると考えられます。例えばここの人民は韓国や日本のドラマや音楽に接することを禁じられていますが、首領はじめ幹部の人たちは毎日のように見ており、そしてカラオケに興じていることが知られています。将軍様が見たり歌ったりしているものを人民が同じように楽しんでなぜ悪い、という発想がない国です。社会的に上の地位にある人ほど「法」を守らなくていいとする伝統的価値観の典型でしょう。

このようにもともとの価値観が違う国ですから、我々とは共存・共生が難しいと言えます。

もし北と南が統一することになれば、この価値観の違いで大きな摩擦が起きるだろうというのが私の予測です。

 

(註)

 文化人類学の伊藤亜人さんは、

「(韓国では)制度よりも人間関係を優先するという点は、韓国人が隣国の日本に来てはじめて気付くことのようである。もっとも、この点でも近年は少なくとも建前ではかつてほどではなくなっている。以前は、規則や制度に阻まれて不可能なことでも、有力なコネ(ペック)さえあればなんとかなるという韓国的な楽観がまかりとおった。」(河出書房新社『アジア読本 韓国』1996年 62頁)

と書いておられます。この「制度よりも人間関係優先」という考えが古代アジア的価値観と言えるものでしょう。韓国でもこの価値観が薄れていっているようです。

 

(参考論考) 第8題 「現代に残る古代国家」  第45題 天皇制と首領制の比較

 

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