45天皇制と首領制の比較

―天皇・首領が法に反する命令を出したら…―

 

 今回は久しぶりにHPのタイトル「歴史と国家」に沿った論考です。分かりやすく書くことに心がけますので、歴史の勉強にお付き合いください。

 

1、藤原宮子称号事件

今から1300年近く前の奈良時代の話。聖武天皇の生母である藤原宮子(太政大臣藤原不比等の娘)の称号について、興味深い事件があった。そのあらましは次の通りである。

 

@     聖武天皇は、神亀元年(724)2月4日に即位した際に「私の母である正一位の藤原宮子夫人を尊んで『大夫人』と呼ぶようにせよ。」という勅を発した。(註1)

A     時の左大臣の長屋王は、その一月半後の3月22日に「この前の勅によって藤原夫人を『大夫人』とお呼びすることとなりました。しかしながら私どもが法律である律令を調べますと、この場合は『皇太夫人』とお呼びするようになっております。勅に従えば律令の規定に反して『皇』を取り去らねばならないし、律令の規定に従えば違勅という罪を犯すことになります。この場合どうすればいいのか定めがありません。いかがいたしましょうか、お伺いします。」と奏上した。(註2)

B     聖武天皇はこれに対して「文章に書く場合は『皇太夫人』とし、口で言う場合は『大御祖(おおみおや)』と呼びなさい。前に出した勅は回収して、新たに出し直しなさい。」と命令した。(註3)

 

以上のような経過の事件である。ここで何が興味深いかと言えば、天皇の権限と法律とはどちらが上位か、という国家の根本を考えるのに重要な材料を提供していることである。

現代の感覚では、天皇であろうが誰であろうが法を守るのは当たり前、だいたいお上が法を守らないで下々が法を守るわけがないとなるが、古代は違った。天皇は絶対であり、法に束縛されないのである。だから天皇自身は生母を律令の規定通りに「皇太夫人」と呼んでもいいし、それに反して「大夫人」と呼んでもいいのである。しかし官僚は律令の通りに「皇太夫人」とすべきなのか、それとも天皇の発する言葉=勅(みことのり)の通りに「大夫人」とすべきなのか、どちらを選んでも罪になるという深刻な問題となる。

事件以前であったら、天皇は絶対であるから勅が優先し、もし律令と矛盾すれば律令のその部分が無効となる。だから本来長屋王は、勅が下ったので律令を変える、としなければならなかった。

しかし彼はそうせずに、こんな矛盾した勅は困りますと聖武天皇に訴えたわけである。そして天皇は臣下である彼の訴えを聞いて、その勅を撤回して新たな勅を発した。つまり天皇は臣下の言うことに従って前の勅を取り消すという形で、自分も法に規制されることを表明したのである。

これは天皇の権限は法に規制されるという新しい考え方が生まれたということであり、しかもそれは現在に通用するものである。

この考え方が日本社会に定着したのは近い過去のことである。これに至るまでには長い年月が必要であった。しかし事件は、国家と法について現代に繋がる考え方が生まれたという点で、日本史上非常に重要な意味を持つと考える。

 

(註1)『続日本紀』神亀元年二月丙申条

「勅して正一位藤原夫人を尊びて大夫人と称す。」

(註2)『同紀』同年三月辛巳条

「左大臣正二位長屋王ら言さく、伏して二月四日の勅を見るに、藤原夫人を天下皆大夫人と称せといへり。臣ら謹みて公式令を検ふるに、皇太夫人と云へり。勅の号に依らむと欲せば、皇の字を失うべし。令の文を用いむと欲せば、恐るらくは違勅にならむ。定むるところを知らず。伏して進止を聞かむ。」

(註3)同年同月同条

「詔して曰く、文には皇太夫人とし、語には大御祖とし、先の勅は追ひ収めて、後の号を分かち下すべし、と宣ふ。」

 

2、北朝鮮との比較

ここで唐突であるが現代の北朝鮮の話をする。北朝鮮の首領制と日本の古代天皇制とを比較してみたい。

北朝鮮は首領制の国で、今の首領は金正日総書記である。果たして首領の権限と法律とはどちらが上位か、ということである。

北朝鮮における首領の権限は文字通りの絶対である。首領の口から発せられる言葉は金日成の場合は「教示」、現在の金正日の場合は「御言葉(マルスム)」と呼ばれ、何が何でも絶対に実行しなければならないとされている。(註4)

もし教示・御言葉が法と違っていたならば、前者が正しく後者が取り消されることになる。金日成も金正日も多弁で有名であり、法を気にすることなく饒舌に発言する。これが繰り返されるのであるから、法は当然のことながら機能しないし、意味をなさない。そして首領の個人的な発言が最高の法となるから一貫性や整合性を問われることはあり得ない。たとえ思いつきの発言であっても、すべての官僚や国民は疑問を抱くことなく実行するのみである。これが首領制である。

北朝鮮からの亡命者の話を読むと、警察(国家保衛部のこと)に逮捕されたことがあったが何の法律に違反したのか逮捕した警察も知らなかった、そもそも法律というものがあるのかないのか分からない、あったとしても見ることが出来ない、ということであった。北朝鮮は法治国家でないと言われる所以は、こういう社会であるからだ。

 

(註4)

「唯一思想体系の十大原則」(1974年2月)の抜粋

[] 偉大な首領・金日成同志の教示を執行するにおいて,無条件性の原則を徹底して守らなければならない。

@ 偉大な首領・金日成同志の教示をすなわち法として、至上の命令として受け止め、どのようなささいな理由も口実もつけることなく、無限の献身性と犠牲精神を発揮して、無条件に,徹底して貫徹しなければならない。

D       偉大な首領・金日成同志の教示執行台帳を作成して教示執行状況を正しく把握し…決して教示を中途半端にせず、最後まで貫徹しなければならない。

E       敬愛する首領・金日成同志の教示を言葉でのみ受け止めて、その執行を怠ける現象、無責任で主人らしくない態度、要領主義、形式主義、保身主義をはじめとするすべての不健全な現象に反対し、積極的に闘わなければならない。」

(講談社『北朝鮮 その衝撃の実像』1991より)

 

3、まとめ

ここで先の藤原宮子称号事件を考えてみる。事件は天皇自身が臣下の忠告によって法に反した勅を撤回したものである。現代人から見ると些細な内容の事件であるが、これは天皇も法に服さねばならないという現在につながる法理念が芽生えたという点で、歴史上重要である。(註5)

そして古代社会から一歩踏み出し法治国家へ向けて歩み始めようとしたこの出来事が、千三百年も前の奈良時代に起きたことに注目されるのである。その後の詔・勅がすべて法に沿っていたとは言えないし、また天皇が法を超越した存在であることに変わりはなかった。しかし現在の法治国家に至るまでの長い道のりではあったが、それに向けての小さな第一歩であったと考える。

一方の北朝鮮の首領は法を含め何物にも束縛されず、彼の発する教示・御言葉が至上の法となる。首領の絶対性に例外はない。首領の個人発言が法であるから、官僚も国民も自らの行動の規範となるのが安定した法体系ではなく、首領のその時の考えや気持ちに左右されるという社会である。これは律令という法体系が成立した日本の奈良時代より以前の段階ということになる。奈良時代以前といえば古墳時代だ。現在の北朝鮮は日本の古墳時代に相当するのである。

この時代の天皇の姿を描く『古事記』『日本書紀』は、国家と法という視点から現在の北朝鮮の首領と重ね合わせて読むと、面白い一面が見えてくる。

 

(註5)古代と現代の法理念の違いについて要約すると、

古代の律令は、官僚が職務を執行する際の規準の法である。天皇は法を執行するのではなく、法を超越した存在であるので、法を守る必要はない。天皇は絶対であるから詔・勅が法以上の効力を持ち、法と矛盾すれば法の方が無効になる。これが本来の古代社会である。

 現代の法律は、官僚はもちろんのこと国民すべてが守らねばならず、国民は法律を守ってこそ権利が保証されるという意味がある。法を超える存在はあり得ない。また上の立場にある者が当然にそして率先して法を順守せねばならない、そうあってこそ下々も法を順守するものだ、と考えるのが現代である。こういった点が、古代の法理念と違うところである。

 

(参考)

http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihachidai

 

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