53題 馴染めないジェンダー論

 

以前よりジェンダーについては、おかしなことを言う人がいるものだ、という印象を持っていた。最近出たAERA Mook『ジェンダーがわかる』(朝日新聞社 2002年4月)を読んで、その感をますます大きくした。

この違和感について体系立てて論じるほどの力は私にはないが、AERAのなかでジェンダー論の典型的なところや疑問な部分を抜書し、コメントをつけることにしたい。

紹介する抜書は青色、私のコメントは濃赤色である。

 

 

 

「『男のように働けない』から女性を差別するというのであれば、変えなければならないのは『男のように働く』という働き方のルールのほうでしょう。」(8頁)

「男のように働けない」からと言う雇用主に対しては、「男のように働ける」労働条件や労働環境を要求するのが筋だろう。なぜ働くルールを変える必要があるのか。

 

「異性愛をノーマルとして異性愛でないもののすべてを逸脱として病理化するのが異性愛主義者なら、逆に『同性愛』と呼ばれているものを脱病理化してみえてくるものは、『異性愛が排除したもの』の豊かさであり多様性です。」(8頁)

ホモやレスビアンという「多様性」がこの世にあることは分かるが、それらに「豊かさ」が見えてくるとは一体どのようなものなのだろうか。その方面の雑誌を本屋で立ち読みすることがあるが、私には「豊かさ」を感じない。

 

「男性の甘い物好きは恥ずかしいという奇怪な規範」(13頁)

この論者(男)はそのような規範のある奇怪な社会のなかで生活しているのだろう。可哀想だからそこから離れなさいと忠告するしかない。

 

「『同性愛者』のアイデンティティが歴史的につくられたものであるなら、アイデンティティを主張すること自体が必要なのでなく、同性を性の対象にすることがどうして社会的に嫌悪されるのかを問題化することが究極的に必要だ、ということは確認されなければならないでしょう。」(25頁)

同性を性の対象にすることは普通ではない。だが世の多くの人々は普通を求めるものであり、普通でない人とは距離を置くものだ。それをなぜ「社会的嫌悪」と呼んで問題化しようとするのか、これが理解できない。

 

「男性たちが『家族のため』と思い込み、お昼もろくにとらずに仕事を続けているとき、妻たちは銀行振り込みのお金を自由に使い、テニスで汗を流したり、お昼にはフランス料理を楽しんでいる、といった状況に男性はなぜ声をあげないのでしょうか。」(31頁)

論者(男)の周囲には、このような働き蜂と有閑マダムの生活をしている家族が多いのだろうか。家族というものを勝手に想像し戯画化して論じているように思える。学問・研究というものには程遠い。論者の肩書きは大学教授とあるから、ビックリする。

 

「生まれながらにして男女は異なり、あらゆる性差が生物学的な運命である、そういう固定観念から私たちを解放するために、社会的・文化的に構成された性別(ジェンダー)という概念が生まれました。」(36〜37頁)

男女が生まれながらにして異なるのは当たり前。それでも個々人が自分で判断して「解放」と称する生き方を選択するのであれば、周囲はそれを尊重するべきだ。しかし「私たちの解放」といって他人を巻き込もうとするのは、いかがなものか。私はこんな「解放」なるものはお断りする。

 

「『女装』する男性はまだまだ少ない。これが悩みの種である。」(39頁)

こんな考えを堂々と書く論者(女)の周囲には女装趣味の男性が集まっているのだろう。私は近づきたくない。

 

「仕事ができる男性が女性にももてるのである…仕事能力を発揮する女性は男性から避けられる傾向がある。」(53頁)

この論者(男)は、これまでどのような職場でどのような人間関係で仕事をしてきたのだろうか。ここでもこういう職場や人間関係を勝手に想像して戯画化しているとしか思えない。

 

「『性別役割分業している夫婦』は、今の社会が家族を単位としている社会で、そのことが性差別を生み出し、多様な生き方を邪魔していることに気づいていない」(55頁)

家族のあり方はそれぞれで決めればいいだけだ。性別役割分業するもいいし、それをしないのも構わない。しかし自分の家族のあり方が他人の「多様な生き方を邪魔している」ということはあり得ない。論者(男)は大学教員ということだが、こんな主張を授業で行なったり本に書くことの方が人様の「多様な生き方を邪魔していることに気づいていない」。困った方である。

 

「企業社会では、小説はビジネス書やパソコン解説書より格下にみられます。」(67頁)

経営者のなかには小説を「格下」のように思う人はいるかも知れないが、組織としてそのように見る会社はないだろう。ビジネス書や解説書で儲けて小説では赤字の出版社ぐらいではないか。

 

「『女の子だから《危ねえよ》って使っちゃだめだよ。』『男の子だから《僕》って言いなさい。』等のような忠告を受けた人は少なくないでしょう。その理由は単に『女だから』『男だから』と言われても納得いくはずがありません。」(82頁)

これで納得しないなら、どうしたらいいのか。社会に出た時、躾がなっていないと恥をかくのは親であり学校である。

 

「タリバンは…女性たちにブルカの着用を強制し、女性から教育の機会を奪いました。アメリカのブッシュ大統領夫人やイギリスのブレア首相夫人は、こうしたタリバンの政策を人権弾圧と見なし、アフガニスタン空爆はタリバンの手からアフガニスタンの女性を解放するためとして、これを正当化しました。そこには、植民地主義の時代の帝国の論理が再帰しています。現地の男性の抑圧から現地女性を解放する救済者という衣をまとうことで、自らが行なう殺略や暴力を覆い隠す論理です。」(73頁)

こんな古臭い左翼論理を振りかざす人が、今もいるということだ。まるで化石と言うほかない。

 

「私たちの社会では、男性の大食は頼もしいと見なされる一方で、女性の大食は品がないとして戒められる」(99頁)

論者(女)のいう「私たちの社会」というのが怪しい。大食を「頼もしい」と見なす社会があるのだろうか。論者周辺のごく狭い社会なのだろう。男であれ女であれ、大食は品がないし健康にも悪い。

 

「日本の社会では…酒の味を知った大人の男は甘いものへの嗜好に決別すべきであるとされています。」(101頁)

論者(女)周辺の男性はこんなことを言われ続けてきたのだろう。可哀想と言うしかない。酒も好きだが甘いものも好きという男性は結構多いものだ。

 

「戦争になれば、女性は国家のために多産を奨励されますが、敵になびいたりレイプされたりして、人種や民族の区別を乱す『混血児』を生むことは非難されます。」(108頁)

ここ半世紀の戦争では多産を奨励した国は、管見ながら知らない。また敵になびけば女だけでなく男でも非難されるのが当然だ。敵にレイプされて混血児を生むことが非難された、という事実がどこかにあるのだろうか。非難されるべきは、女性を守れなかった男性である。

 

「『あ、また<女>やってる!』と、自分で腹立たしくなることがある。細かいことに気を回しすぎる、相手に好感を持ってもらいたくて必要以上に迎合する…。もちろん性格もあるが、逆らわず、人間関係を良好に保つよう気配りするのは女の役目という身にしみついた習性は、わかっていても変えにくい。」(109頁)

細かいことに気を回す、人間関係を良好に保つよう気配りするなどは、女男関係なく、人間としてやらねばならないこと。しかし論者はこれを女だけの役目とされる環境に育ってきたということだ。親の教育方針だったのだろう。しかしだからと言って、それをやらないぞ、ということにはならないはず。

 

「現実には履歴書にはいまだ性別欄があります。東京の労働組合『女性ユニオン』では『性別を書いて』と言ったら記載の強制という犯罪に、『顔写真貼ってね』と言ったらそれも性別を特定する手掛かりに使うのでこれも記載の強制という犯罪にあたる、という見解を早くから表明しました。」(114〜115頁)

履歴書に性別を書かず、写真も貼らない。こんな人間を雇えるわけがなかろう。これを主張する労働組合があるとは困ったものだ。

 

「わたしたちの(西欧型)信念体系である《世界中どこでも人間は男性と女性の二種類の性がある》という概念が、実は「性のグローバーリズム」であり、決して《普遍的ではない》事実がうかがえます。それどころか「性がある」という概念自体、限りなく実体化した「まぼろし」ではないでしょうか。」(117頁)

人間には男性と女性の二種類があるというのは普遍的事実だ。これが西欧型信念体系とは笑止千万。また「実体化した『まぼろし』」とは表現として形容矛盾。「まぼろし」が実体化することはあり得ない。実体化しないから「まぼろし」なのである。

 

「女性が家計の経済的負担をもっと担ってくれれば、男性だって残業せずに早く帰って子どもの面倒をみるといった生き方はやりやすくなるはずです。」(166頁)

女性が働いているか否かという家庭の事情で、男性は残業するしないを決めるというのはあり得ない。また子供の面倒を見やすくなるかどうかも関係ない。勝手な想像でしかない。

 

「一緒に暮らすのが女同士、あるいは男同士であってもかまわないでしょう。ではなぜそれでも世の中には、男と女の区別が横行しているのでしょうか。」(167頁)

同性が一緒に暮らすのは、当人たちが納得していれば「かまわない」のは当たり前だ。そして世の中に男女の区別があるのも当然だ。しかしその区別がなぜ「横行している」という表現になって疑問を呈するのか。当然のことを当然と見られない性癖の持ち主と見える。

 

 

(追記)

 ジェンダー論はいくら読んでも理解できない。女性差別反対を行動する時に「誤りを正すには行き過ぎもまた必要である」という毛沢東風の実践をする理論なのかもしれない。しかし私には奇を衒った言動のように思われて仕方ない。

論者の肩書きはほとんどが大学の教官である。なかには女子大教授もおられるが、その方がジェンダーを主張するとは、さらに理解できなくなる。

私にとっては違う世界の理論、あるいはインテリの戯言のように思える。

 

(参考)

http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daisanjuuhachidai

http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuugodai

 

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