第38題「同じ」と「違い」

―差別と闘う論理の矛盾―

女性問題における「同じ」と「違い」

 数年前になるが、女性問題研究の江原由美子さん(都立大学)の講演を興味深く聞いたことがあった。その中で一番関心を寄せられたのは、次のような分析である。

 

 女性差別については二つの対立した考えがある。一つは、女性は男性と能力が劣らないし、現に並みの男性以上にバリバリ働く女性も多い。女性は男性と違いはなく、従って同じように扱われるべきだ。だからこそ女性であるからといって差別するのはおかしい、という考えである。

 もう一つは、女性は男性と根本的に違うのであって、男性と同じというわけにはいかない。女性は弱い立場なのだから女性としての権利(すなわち男性にはない権利)を堂々と主張すべきであり、またその権利を獲得することが女性解放なのだ、というものである。

 前者は男性との「同じ」を重視し、後者は「違い」を重視する。そして前者の考えに立つ女性は後者に対して「女だからといって甘えている」という批判になり、後者の考えに立つ女性は前者に対して「女の裏切り者」という批判になる。

 

 江原さんの発言を正確に伝えたかどうか分からないが、私なりにまとめてみた。彼女の講演を聞きながら、民族差別(在日朝鮮人差別)問題と共通するものを感じた。

 

差別と闘う運動における「同じ」と「違い」の使い分け

民族差別と闘う論理には次のような対立した考えがアピールされる。

 在日は日本に定着してしまって、もはや日本人と同じである。それなのに外国人という理由でもって差別されるのはおかしい。日本人と同じ権利が保証され、日本人と同じように扱われるべきだ。このように日本人との「同じ」を重視する考えがある。

 一方で、在日は韓国・北朝鮮を祖国とする朝鮮民族であり、日本人ではありえない。日本が在日を日本人と同じように扱うことは、民族性を否定する同化である。日本は在日を異民族あるいは外国人として扱い、互いの民族性を尊重する共生の道を探るべきだ。このように日本人との「違い」を重視する考えがある。

 「同じ」の論理はできるだけ日本人に近づくことに努力することに他ならないし、「違い」の論理はできる限り日本人から距離をおくことに努力することに他ならない。

 民族差別と闘う論理のなかにはこのような対立があるのだが、不思議なことに闘う運動を担う人たちはこの対立した考えを同時に持っていることである。

 ある時は日本人との「同じ」を強調して日本人と同じ権利がないのは民族差別だと主張し、またある時は日本人との「違い」を強調して同化は民族性を否定する民族差別だと主張する。同一活動家・同一運動団体が「同じ」と「違い」を使い分けて都合のいいように主張しているのだが、当人たちはそれを矛盾とは感じていない。ただ日本社会に対して闘おうとしていることだけが共通している。

 部落問題でも同様に思える。「部落だからといって差別してはいけない。一般のみんなと同じように扱われるべきだ」と一方で主張しながら、他方では「一般の人と違って差別されるのだから」と自分たちへの特別優遇措置を主張する。ここでも「同じ」と「違い」を使い分けているのだが、彼らはそれを矛盾とは思っていない。そしてここでも、闘うことだけが共通しているのである。

 つまり差別問題に関わる活動家たちは、「闘う」ことに重点と一貫性があるのであって、差別をなくすための論理に重点や一貫性を求めない、ということである。

 

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